いただきます

稲荷 古丹

いただきます

 眼前のテーブルには、十数名が満足できるほどの御馳走が並べられている。

 中でも一際目立つ唐揚げの山に手を伸ばし、一つだけ摘まむ。

「熱っ」

 思わず落としそうになるのを耐えながら口に放り込む。


 口内を焼くような熱さを舌で転がしながら冷ましてから、衣に歯を食い込ませる。

 軽い弾力を感じるとすぐにぷつっと鶏肉の繊維に歯が沈み、ひと際高い熱を持った脂が湧き出て歯と歯茎に痛いほどの刺激をもたらす。


 あふあふっ、と喘ぐような息を上げて口を開き、今度はもう少し力を込めてからあげを口の中でかみ砕いていく。

 サクサクとした衣の歯触りと、柔らかな鶏肉から溢れ出る肉汁に融けた様々なスパイスの旨みが、舌を伝って空腹に疲れた脳を活性化させる。


 数回の咀嚼の後『ごくり』と嚥下すると熱が喉を通り腹に流れていくのを感じる。

 もう一つと手を伸ばした所で、別の手に手首を掴まれた。

 折れそうなほど白く細長い手が、噛みつくような力で動きを制してくる。

 恐る恐る、手から腕、肩の方へ視線を移すと、見るからに不満の籠った表情をした白い顔の少女が細めた目でこちらを睨みつけていた。

 すぐさま、かけるべき言葉を探したが口を衝いて出てきたのは、

「―美味しかったよ、詩菜しいなちゃん」

「ユウ兄、勝手に食うな」

 結局、怒られた。



 祖父の死を告げられたのは田舎へ帰る車の中だった。

 日も登りきらない早朝に叩き起こされ、気怠い意識のまま倒れ込むように妹の詩菜と共に後部座席に乗り込むと、祖父の容体が急変した事と、親戚一同がユウ達と同じ孫の世代も含めて全員が集まる事を夢うつつの状態で聞き流した。


 助手席の母親が祖父の臨終を深刻そうに伝えてきた時も受け入れる程の気力はなく、ただ道中の両親がしきりに今後の手筈についてばかり言い合っていて煩わしいという不満しか残らなかった。


 祖父の家に着いてからは通夜の準備の手伝いやら、まだ幼いいとこ達の世話など、目まぐるしく動き回り休む暇も無かったが、顔も知らない祖父の友人やら、祖父を師と仰ぐお弟子さん(これも本当なのかは知らない)などの対応に困る人々の相手をしなくていいのはユウにとって救いだった。


 そうこうしている内に夜も更けて来客を閉め切ったところで、子供達は祖父の家の敷地内にある別宅に全員押し込められ、大勢の大人達は本宅で祖父の遺体を横に置いて詳細不明の話し合いを始めてから早一時間というのが現在の状況だった。


 それでもユウは何となく内容を察することが出来たし、それが決して明るい話題のものではない事も予測できた。



「で、遺産話は纏まりそうだった?」

 茶化すユウに詩菜が驚く。

「何で知ってるの?」

「帰省してから時々耳にしてたからね。ってか今日も来る途中ずーっとその話だったじゃん。ボクらの家系ってそういうのとは無縁と思ってたんだけど、いざこういう状況になったら本性ってのが出るものなんだねぇ」

 ケタケタと乾いた笑いをあげるユウに対し、詩菜は曇った顔でため息をつきスープの入った鍋をかき回し続けた。


「…最近ずっとそんな感じ。いつのまにか目の色変わっちゃって。育てて貰ってる身で言っていいのか分からないけど、みっともなかった。さっきも差し入れに行ったけど、お母さん達の事見てられなくて」

「同感だね。親が欲に駆られてる姿なんて見るに堪えないよ。まったく二十歳の息子までこっちに押し込めるとは、一銭たりとも取られたくないんだろうね。まぁ、ボクに親孝行が望めないんだから、そうもなるか」


「ユウ兄は家に戻って来ないの?」

 その問いにユウは『はっ』と吐き捨てるように笑い、視線を落とした。

「やだね。折角、大学に行けてやっと自由の身になれたってのに。まあ実家なら衣食住の心配をしなくていいのは助かってたけど、それでも今の生活の方が安らぐよ。今日だって里帰りしてなきゃ行く気なかったし。まったく爺ちゃんもタイミングが良いんだか悪いんだか…っと、余り死者に文句を言うものじゃないね。ごめん、忘れて」

「うん」

「というか考えてみればずいぶん一人にしちゃってたね、それもごめん」

「いいの。ユウ兄にはユウ兄のしたい事をしてて欲しいから」



 会話が途切れ、煮え滾るスープの沸騰音に、レードルが鍋の底を引っ掻く軽い金属音が重なる。

「でも、今、ユウ兄がこっちにいてくれて良かった」

「まあ大人同士の面倒な話は苦手だし。おまけに今日初めて会うような親戚まで何人もいるとなったら、ここでチビ達の相手してる方がずっと落ち着くね」

 閉めきった扉の向こう、廊下を歩いた先の大部屋で遊んでいるであろう幼いいとこ達を想像し、彼は微笑んだ。


「とはいえ最近は遊び道具が充実してくれてるから手間いらずだねぇ。お蔭でこうやってつまみ食いが出来るわけだけど」

「だから、勝手に食べないでって」

 ようやく詩菜が振り向いて睨みつけてくるが、まるで怖さの足りない表情に思わずユウは噴き出した。


「沢山あるんだし、向こうの分も持っていったんでしょ?なら一、二個くらい」

「きちんと数を計算して作ってるの。だからユウ兄は一個無しだよ?」

「ありゃ残念」

 ユウがべーっと舌を出し、詩菜が鍋に向き直る。


「おっと、流石に洗い物くらいはやるよ。働かせっぱなしじゃ申し訳ない」

 手持無沙汰になったユウは袖を捲り上げて、流し台の前に立つと溜まっている洗い物を泡立てたスポンジでこすっていく。


「いいな、ユウ兄は」

「何が?」

「家に戻らなくてもいいのは、それだけの能力があるからでしょ?」

「そんな大層なものじゃないよ。教授に気に入られてるだけ」

 隣同士になった二人が顔も見合わせず言葉を繋げる。


「私はバカだから何をやっても上手くいかないの。さっきだって、ご飯を食べたら皆少しは落ち着くかと思って持って行ったんだけど『今はそれどころじゃないだろう』って怒られちゃった」

 詩菜の声がトーンダウンする。


『まあ、ああいう人達だから』とユウは泡だらけの料理器具を水ですすぎつつ、努めて明るく振る舞った。

 「それよりチビ達は楽しみにしてるよ、詩菜ちゃんの作った晩ごはん。あいつらに食べて貰えば、きっと詩菜ちゃんも何倍も嬉しいだろうからさ。それだけ考えよう」


『ね?』と詩菜の方を向くと、彼女も不安そうな顔をこちらに向けていたが、徐々にその顔が柔らかくなり、

「ありがとう。そうだね、じゃあそろそろ皆に持っていこう」

「そうこなくっちゃ、それじゃ―」


 ユウの言葉がそこで止まり、笑顔のまま固まった。


「ユ、ユウ兄?」

「何、今の」


 それだけ呟くとユウは機械のような素早さで手についた洗剤を洗い流し、キッチンから廊下へと続く扉を開け、足早に歩を進める。

 慌てて詩菜が後に続く。


「気のせいか、いや確かに聞こえた」

「ちょ、ちょっとユウ兄一体どうし―」

 言い終らない内に遠くで何かが割れる音が耳に入り、二人は顔を見合わせた。

「これって、まさかっ!」

「本宅だ!」

 二人は玄関に飛び込んで靴を履き、我先と外へ飛び出した。



 ユウには忘れられない祖父との記憶がある。

 想い出の中の祖父はその日、揺り椅子に腰かけて、のんびりと庭を見ていた。

 別宅を建設する機械の音や、職人の声がガラス窓越しにくぐもって聞こえる。

 幼い日のユウも祖父の隣にちょこんと座り、工事の様子をまるで演劇でも見るかのように観察していた。


「この上さらに家がいるのかって皆に言われたよ。けどなぁ、いざって時は役立つもんさ。それがいつだか分かるか?」

 ユウは首を横に振った。祖父の声が続く。

「逃げ場が必要になった時さ。俺だけじゃない、いつかお前や詩菜の為にもな」


 ユウが立ち上がって祖父の顔を覗き込むと、祖父は微笑みを湛え、しかし真剣な眼差しで幼い孫を見据えた。

「ユウ坊。覚えとくんだぞ?やばいと思ったら人生、逃げが肝心だ」

「にげちゃっていいの?」

 首を傾げるユウに祖父は頷いて言葉を続ける。

「そうだ。俺達は無敵のヒーローとは違う。後ろ向きだ、卑怯だと罵られようが構わねぇ。時には引き際や潮時ってもんを覚えておかないと終いには―」



「―命すら賭けだす、だったっけ爺ちゃん」

「な、何なのあれ!?」

 一人呟くユウとは対照的に、詩菜の声が裏返る。


 視線の先は本宅。

 その閉めきったガラス窓の向こうで大勢の大人達が暴れていた。

 めいめい罵倒と怒号を浴びせ合い、互いが互いに目についたものを片っ端から投げ合い、男も女も関係なく、掴み合い殴り合っている。


 まるで子供の喧嘩のように幼稚で凶悪な光景を、二人は本宅と別宅の間の庭に立ち尽くして見ているしかなかった。

「口じゃどうにもならなかったから手を使ったんだろうね。あぁー、折角の唐揚げが勿体ない。あれじゃ鶏肉も浮かばれないじゃないか」

「何言ってるの、止めなきゃ!」


 青ざめた顔で本宅へ向かおうとする詩菜の白い細腕をユウが掴んだ。

「ちょ、ちょっとユウ兄!?」

 困惑する詩菜に応えず、ユウは彼女を半ば無理やり引っ張るようにして踵を返して別宅に戻り始めた。


「い、痛いって!ユウ兄!待って、何してるの!このままじゃ皆が!」

 詩菜の金切り声も空しく、やがて自分達が出ていった玄関に戻ってくると先に詩菜が別宅内に押し戻され、後から入ってきたユウは扉を閉めて鍵を掛けてしまった。


「爺ちゃん流石だよ、本当に感謝しなきゃ」

 ユウはそう呟いて顔を上げると『にぃっ』と口の端を釣り上げて微笑んだ。

 びくっと震える詩菜に構わずユウは続ける。


「あのさ。物は相談なんだけど、見なかったことにしちゃわない?」

「…何を言ってるの?」

 閉めきった玄関の向こうからは喧騒が小さく響いてくる。

 その中には二人が良く知る声もあった。


「いやさ、弔問客も僕らも締め出しちゃって、あの様子だと誰かが死ぬまで止まらないと思うんだよね」

「だったらなおさら!」

「ねえ、そうまでして助けたいの?」

 冷たく放たれたユウの問いに、詩菜は言葉を飲み込んだ。


「誰か一人でも命を落とせば、あの人達全員に責任がいく。そうなりゃボクらも家から完全に離れる理由が作れる、そう思わない?」

「見殺しにしろって言うの?」

「もしこの騒動を知っていたのがバレたとしても『怖くて何もできなかった』もしくは『チビ達に危害が及ばないようにしてた』って言えば良くない?そもそも締め出したのは向こうなんだし、こっちに飛び火してこない限りは自由にやらせとこうよ」


 まるで対岸の火事を見物するようなユウの態度に詩菜は困惑の表情を浮かべた。


「あの子達はどうするの?両親無しで生きていけるわけないじゃない。私達だって、お父さんとお母さんがいなかったら」

「そりゃま、そうだけどあんな人達に育てられるよりはマシとは思わない?」


 詩菜の頭にこれまでの、そして今日一日の大人たちの顔や態度が浮かぶ。

 怒りと欲深さと疑心暗鬼に塗れた表情と言葉。

 それに幼いいとこ達が晒されることを想像し、急に胸が苦しくなる感覚を彼女は覚えた。


 そんな様子を知ってか知らずかユウの言葉は淀みなく続く。

「ボクだって悪くは言いたくないさ。けれど結局あんな風に暴れるような人達にチビ達が育てられてごらんよ。将来ボクらまで争う事になっちゃうかもしれないよ?いやそれならまだいいな。下手したらその前にチビ達死んじゃうかも…ボクはせめていとこ同士とだけは仲良くしたいんだ」


 ユウの言葉は行き当たりばったりで無責任な事は詩菜にも理解出来ていた。

 それでもその中に彼の不安と懇願のようなものがあることを感じ取れた。


 滅茶苦茶な提案なのはお互い分かっている。

 それでも、あの光景を目にすれば、今も微かに耳に届く怒号を聞き続けていれば、そこに割って入ったところで何が変わるというのか?

 下手をすれば殺されるかも―そんな危険を冒してまで助けたい人達だったか。


「ねえ」

 場違いな幼い声に驚いて、詩菜が振り向くと、小さな女の子が不安そうな顔で立っていた。

「ど、どうしたの?」

「おなかすいたー」

「すいたー、ごはんまだぁー?」

「おねーちゃん、はやくー」

 女の子の後ろに子供達が続き、口々に無邪気な声を上げる。


「……」

 詩菜は黙って彼らを見ていた。

 まだ世間の厳しさも、大人のずるさも知らないであろう幼子たち。

 今、扉一枚を隔てて繰り広げられている現実を目の当たりにしても、きっと理解出来やしないだろう。

 では彼らにとっての幸せとは何なのか。


 少しだけ目を閉じた詩菜は、にっこりと笑って、

「待たせてごめんね。もう出来ているから皆で準備しましょう。今日は唐揚げよ」

「わーい!からあげー!」

「みんなー、ごはんだごはんだからあげだー!」

 子供達は歓喜の声を上げて元居た大部屋へと駆け足で戻っていった。


 詩菜はじっとそれを見ていたが、やがて諦めたように靴を脱いで廊下に上がった。

「皆、嬉しそうね」

「そりゃあ、詩菜ちゃんの作る料理は美味しいから」

 ユウもそれに続いて廊下に上がる。


「食べたら、もう一度見に行って、それからまた考えることにするわ」

「そうしよう。いやー、お腹空いた。食べなきゃやってらんないよ、こりゃ」

 悲しそうな笑顔で玄関の扉を見つめるユウの声は、どこか空虚で力が無かった。


 そんな兄の頬を、詩菜はそっと撫で上げる。

 ユウは表情を変えることなくおどけたように少し小首を傾げてみせると、ゆっくりと詩菜の手を取って下ろし、それ以上は何も言わず大部屋へ入っていった。


「はーい片付け片付け、美味しい唐揚げがくるよー。皆で準備―」

「わーい」

「いそげいそげー」

 ユウと子供達の幸せそうな声が聞こえてくる。


 ふと詩菜は振り返って玄関を見つめた。

 耳をすますが、諍いの音は遠く、何を言っているのかも分からない。

 こちらとはまるで正反対の状況だ。

 やがてため息一つを残し、詩菜もその場を離れてキッチンへ戻っていった。


 かくして子供達は、祖父が窓ガラス越しに見た風景の中に逃げ込んで、大人達は窓ガラスの内側に取り残されて食い争い続けた。


 幸せな食卓で、ご馳走を前に、子供達は手を合わせて声を上げる。

「せーの」


「いただきます」


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いただきます 稲荷 古丹 @Kotan_Inary

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