誰が為の霊薬化学 ―変異と悪意に翻弄される少年少女たち―

ryunonn

闊歩する汚染源

第1話 思い出の少女は毒の中

 慣れた手つきで透明な液体をビーカーへ注ぎ込む。鼻を突きさすような有機溶媒の匂いには慣れっこだが、吸いすぎると頭痛が走るのはいつになっても変わらない。

 ぴったりと容器側面の目盛りどおりに溶媒が定量されたことを確認し、タツキは一つ息を吐いた。

 

 手元にあった狐色の粉末を薬包紙から慎重に溶媒内へ加えて攪拌する。この操作を誤って皮膚に液体が触れれば数分で呼吸困難、最後にはもがき苦しみながら死に至るだろう。保護メガネと白衣、手袋を厳重に着重ねた装備は実験の必需品だ。


 タツキは溶液内を漂う粉末を食い入るように見つめた。それは凍結乾燥させた“焼き菓子”の欠片。もとはチョコとバニラが渦巻き模様を描いたクッキーだった。甘い生地は少しボソボソで、渦巻き模様も歪。幼いイノリが手探りで作った代物だったから当然だ。


 こうして毒を抽出するたびに彼はダリアスでの記憶が頭をよぎる。村人に疎まれ続けても最後まで一緒に遊んだ彼女はあの日、なぜ毒入りのクッキーでオレを殺そうとしたのか。

 きっと――なにか事情があったはずだ。


 そう信じてイノリに繋がる蜘蛛の糸であるクッキーの毒を研究して、研究して……もう何年が経っただろう。何万回も堂々巡りの思考と試行錯誤を繰り返しても毒の出所もイノリの消息も掴めていない。


 ガサガサ。グルゥ。


「なんだ?」

 低音の唸り声に危険を感じたタツキは丸椅子から立ち上がる。横にあったナイフを逆手で掴み取り、背後で響いた異音へ視線を向けた。


 実験台を隔てた廊下の奥、明りが僅かにしか届かない廊下に二つの茶色い塊が動いていた。目を凝らすとその塊は壁際に置かれた何かを咀嚼することに夢中になっているようだ。


「ウルフ……か?」


 船のイカリに似た特徴的な尻尾に気づいたタツキは確信するや、ナイフをクッキーが漂う溶剤内へ浸して逆手で構える。


 ウルフはこの王国外に生息するありふれた小型モンスターだ。満腹時は基本的に無害だが、空腹時は狂暴になる。いまだに各国間をつなぐ護送車が襲撃される事件は後を絶たない。


 鼻をぴくぴくと動かし、緩慢に振り返ったウルフは人間のイビキに似た重低音で喉を響かせる。腹が減った個体が獲物を見つけた際にする行動だ。


「なぜ、モンスターが学院にいる?」


 咀嚼していた植物の固い茎をへし折ったウルフ2匹と視線が交錯する。タツキが負けじと目頭に力を入れて睨み返すと、ウルフはいまにも飛び掛からんという後傾姿勢で唸りをあげた。 


 タツキの構える実験用ナイフは刃渡り13cm余りの鉄製の薄刃。緻密な綿状組織で編みこまれたウルフの歯牙相手にはあまりにも頼りない。額から嫌な冷汗が滲み出て呼吸が荒ぶる。


 助けを求めようにも隣の居室に人が残っているかどうか。

 そう逡巡していた折、身を屈めたウルフはバネのように後ろ足を蹴り出した。


「くっ!」


 瞬く間に距離が詰まり、眼前に太牙が迫る。

 咄嗟にナイフを差し入れて直撃を食い止めた。凄まじい力に負けて後方へ吹っ飛ばされたタツキは、巻き込んだいくつかの試薬瓶とともに白壁へと背を叩きつけられた。


 ウガガガァァと分厚い咆哮を上げたウルフが間髪を入れずに飛び掛かる。

 呼吸さえままならないタツキはワラにも縋る思いで傍らの試薬瓶を投げつけた。すると、散った有機マナ溶剤の飛沫が首尾よくウルフの黄色い眼へと飛び込む。


 目に走った激痛のあまり、空中であたふたと手足をバタつかせたウルフは勢い余って白壁に激突。そのまま動きを止める。


 しかし仲間のピンチを察したのか、廊下の奥にいた2匹目のウルフも飛び掛かってきた。


「クソっ……」


 試験台を囲んだ狭い通路に倒れたタツキにスローモーションのなかで迫る太牙。

 すぐに自身の腹を食い破るであろうと想像を巡らせる時間はあっても、回避する時間は微塵もない。

 タツキはまるで審判の時を待つ罪人のようにゆっくりと思考を巡らせた。


 閉じた瞼の裏にイノリと過ごした幼少期が蘇る。これが走馬灯だろうと認識したとき――


「うりゃあああ!」 


 廊下の奥から発された力強い女性の声がタツキを現実に引き戻す。瞼をあけるとウルフの背後から数発の甲高い銃声が鼓膜を揺らす。


 気づけば二匹目のウルフも背中から白壁に激突していた。

 剛毛に覆われた横っ腹に露わになった銃創。指先大の傷口からはドロドロとした赤い体液が滲み出していた。これはモンスターが皮膚下に持つ防弾層の液だ。


「ちょっとタツキ、大丈夫!?」


 両手で銀色のハンドガンを構えた少女が廊下から声をかけた。それに応えようとタツキは身体を揺らして右手を上げて僅かな反応を示す。

 タツキの元に銃を納めた少女カレンがオレンジ色のポニーテールを揺らして駆けつけてきた。


「噛まれてはいないようね」

「ケホッ。ああ……なんとか」


 満足に呼吸が出来るまで回復したタツキは試薬瓶の欠片に気を付けつつ上体を起こした。見回すとそこら中に有機マナ溶媒が撒き散らされ、狭い研究室内は鼻を劈くような溶媒臭に包まれている。

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