Dark-side Ⅰ「逢魔が時、紅い雨」
――3/8 16:47 ――
校長、朝木友義は歩く。
卒業式前日、最後の職員会議とリハーサルを終え、高校から歩いて10数分の自宅への帰り道を。鼠色のチェスターコートに身を包み、ギンガムチェックのマフラーきつく締めて、夕方の暗い道を歩いていた。
暦は三月に差し掛かったが、日の入りが早いことには変わりがない。ましてや、宮城県の山沿いに位置するこの街では、3月の下旬に雪が降ることも珍しくない。
雨は夜更け過ぎに雪へと変わる、こう謳ったのは誰だったか。
クリスマスに流れる曲だが、春分を過ぎても雪が降ることもあるこの街では冬と春の入れ替わりが、かなり穏やかである。
朝方は冷たい風が肌を刺すように吹き、夜は闇とともに訪れる寒気が街を包み込む。
特に夕方のこの時間は、夜の帳が街を静かに抱く。オレンジと暗黒が奇妙に入り混じったベールが街におろされる。
街全体が黒に包まれたにもかかわらず、空は依然として紅いままだった。
――血のように紅い、緋色の空だった。
しかし、校長は翌日に控えた卒業式のことで胸がいっぱいだった。学校長に赴任して三年目になるが、やはりこの季節には教師なりの寂しさを感じるというものだ。
桜も咲かない時期に卒業を迎える生徒たち。だが、新天地では綺麗な桜とともに、新生活を謳歌してほしい。これが、初めてのクラスを持った時から変わらない、校長の願いでもあった。
まだ咲かない桜と生徒たちに思いを馳せながら、校長は歩いた。校長は寒さに小さく身震いをすると、10mほど先の電柱に何かの影を見た。立ち止まる校長。電柱に光はともっておらず、住宅地全体は暗いままだったが、校長は確かに認識した。
――何かが、いる。
犬の散歩をしている人だろうか。背筋を撫でる寒さに顔をしかめながら、校長は再び歩き始めた。
数mほど歩いたところで、影が動いた。足を止める校長。
電柱の闇から、ずるりと現れた。人だった。そして、校長の瞳孔は捉えた。
全身を紫のロングコートに身を包んだ180cmほどの長身の人だった。フードの中に頭を隠し、顔つきはわからない。
身長のわりに細身、まるで地面に突き刺さった柱を見ているような佇まいだ。
コートの男は電柱から姿を現したっきり、道の中央に立ったままだった。
闇にまぎれて顔の全貌はわからないが、どのみちこんな田舎町でこの時間をほっつき歩くとは物好きがいたもんだなあと、校長は思う。
歩を進めようとした時、校長の耳を人声が撫でた。
「もし。少しお時間いただいてもよろしいですかな?」
男の声だった。男にしてはやや高めの声質で、優しく耳をいたわるように声を発した。年齢的には、20代後半といったところか。
出鼻を挫かれた校長は、コートの襟もとをただし男の問いに答える。
「はい……なんでしょう?」
「いやはや失敬、失敬。お時間は取らせませんので、ご容赦を」
「はい……用件はどういったことで?」
本当であれば、即座に無視して帰るところなのだろうが、さすがにそれは自身の矜持に反すると、男の話を聞くことにした校長。
「ええ、ひとつだけ。ほんのひとつだけ質問をさせてください」
言葉を躍らせながら、歩を進めるコートの男。ブーツの踵がアスファルトを叩き、閑静な住宅街に音が反響する。
「かまいませんよ。どういったことで?」
見れば見るほど奇怪な男だった。艶のない紫のコートに華美な修飾はなく、一枚の布から切り出されたかのようなシンプルな外観だった。
相変わらずフードに覆われているため、表情が読めない。しかし、流ちょうな日本語を用い語彙が堪能な点から、育ちが良い人なのかもしれないと校長は考えた。
男は僅かに顔を上げる。今にも消え入りそうな夕日が、男の口と鼻を映した。やや色白の肌に、均整の取れた顔つき。目元までは見えなかったが、彫像を連想させるほど恐ろしくバランスの取れた顔のつくりをしていた。
そして、男はゆっくりと口を開く。
「あなたは、この世界から戦争をなくすにはどうすれば良いと思いますか?」
「……は?」
唐突、あまりにも唐突な質問だった。せいぜい駅までの道のりを聞かれるだけかと思っていた校長の思考は、簡単に崩されてしまった。
「この世界から……戦争を?」
「左様。この惑星にはあまりにも悲劇的かつ非生産的なヒトの行いが日夜続いている。紙切れのように命は投げ捨てられ、その屍を踏みしめて生を謳歌する黒鉄の石弓を持ったヒトという生命体」
どこか楽し気に、しかし深く憐憫を持った声を紡ぐフードの男。男は校長の周囲で円を描くように歩く。
「戦争のみではない。あたかも当然の権利を主張するかのように、切り崩される森林。汚物に蓋をするかのように、焼却できなかった塵芥を埋め立てる。」
「そして……己を生みだし、育み続けてきた海すらも、その青を黒で塗りつくさんとしている」
戦争から飛躍した環境問題の提起。ゆらりゆらりと歩き、ブーツが高い音を奏でる。校長は聞き流しながら、新手の宗教か何かかと妄想を膨らませる。
そして、男は校長の正面に立ち止まると、再度問いかける。
「そんな地球にしがみつく人類を、戦争を終えるにはどうすれば良いと考えるか。朝木友義」
背筋が硬直する。校長はたしかに、触れられてはいけない領域を著しく侵害された。
「!……なぜ私の名を……」
「それは些事である。さあ、答えよ」
校長の質問を無視し、自身の解答をせかすコートの男。
「それは……それは……」
黙り込む校長。どういった方法で名前を入手したのか、質問の解答よりその事実が校長の思考を占領する。
その瞬間、コートの男は次の言葉を紡いだ。
「残念。砂は落ち切ったようだ」
「え?」
頬を伝う汗を感じながら、校長は確かに聞いた。時間切れと。
「砂時計の砂だよ。大学の成績を首席で卒業し、幾多の学級を受け持ち、校長を務めるまでに上り詰めたヒトであれば、少しはひねりの効いた答えを得られるかと思ったが、残念だ。実に、残念だ」
次々と暴かれる校長の出自。
「なぜ私を……」
「いやはや私としたことが、ついさっき落としてしまいましてな。その前にはもっと大事な物も無くしてしまったのですが……それでも、この程度のことなら朝飯前というやつである故、不便は感じておりませぬ」
あくまでも見下したかのような態度を保ち続けるコートの男。
「貴様は……貴様は何者だ‼」
校長はその振る舞いに、憤怒をもって問いかける。
「そうですね……名乗る名はないんだが……死者への手向けになるのであれば、与えてくれようか……」
コートの男は悲哀に満ちた声で、校長の問いかけにこたえる。
「死者……?」
校長の思考が『シシャ』の言葉を理解した瞬間。
空から雫が落ちた。それは校長の頭頂部を濡らした。宵闇の空に風を切る何かの音が鳴り響く。
まるで、巨大な虫の羽音のように不愉快で、耳障りな音だった。
スポイトで垂らしたかのような水滴が落ちる。思わず頭頂部をさすり、濡れていることを確かめる校長。そして、さすった手を何の意味もなく見た。見てしまった。
「……え」
指先を濡らしていたのは、血のように紅い液体だった。
「血……?」
ただ紅い液体は、その指先にまた液体が落ちる。空から落ちる液体は、ぽつりぽつりと紅い班を刻み込む。
「あ……ああ……」
僅かに芳醇な香りが、校長を包み込む。
校長は、憤怒と焦燥の感情が恐怖に塗り替えられるのを自覚しながら、ゆっくりと空を見上げた。
夜の帳がおりた空に、校長は紅い雨を見た。
「あが……ぐああ! 熱い! 熱い‼」
雨としか形容できない量の液体が校長に降り注ぐ。校長のコートを透過し、肌を刺す液体。その液体が皮下組織まで浸透し、自身の身を焼くような感覚に襲われる。
「はぐっ……ぐあ……あああ!」
立っていることもままならなくなった校長は、腹を抱えるようにアスファルトに倒れこんだ。
その時、校長は男を見た。男は濡れていない。
さらに、視点をアスファルトに戻すと僅かに色が違うことに気がつく。そして、校長は雨に焼かれる中で、ひとつの事実にたどり着いた。
――この雨は、私にしか降っていない。
校長の周囲を描くように濡らし続ける紅い雨。しかし、そのたった1m先に立つ男の周囲には雨粒ひとつも落ちていなかった。
「安心したまえ。細胞が新しく塗り替わる感覚も、もうじき終わる」
「ぐ……ぅ……かふっ……」
うつ伏せになった口から入り込む液体は内臓を焦がし、皮をはぐような痛みが全身を嬲り続ける。
「しかしまあ、よくできた絡繰りよな。まったく」
「う……う……」
僅かに開いた瞳に、自身を見下ろす男の姿が映る。全身を紫で染め上げたその男は、ゆっくりとフードに手をかける。
「約束だ。私の名前を聞かせてやろう」
「……」
校長の思考は、全身を炎に焼かれる感覚によって朦朧としていた。次第に瞼を開ける気力もなくなり、眼を完全に閉じようとした。
その時、校長は男の顔を見た。
鮮やかな黄色の短髪と、両目を黒い眼帯で覆いつくした男の顔を。
そして、眼帯とコートで自身を装飾した男は口を開け、自らの名を紡ぎだす。
「私の名は、ヒドラ。はじまりのバルーン。ヒドラである」
そうして、自らの名を告げるとコートの男は校長に背を向ける。フードを被りなおすと、背中越しに言葉を投げかけた。
「ヒトよ。その毒に適応出来たら、また会おう」
その言葉を最後に、コートの男は夜の闇に姿を消した。
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