第2話
マーイオス14日 雷神の日 晴 69.6°F
初夏らしい暖かさになる。午前中にゲルマニアから業者が来る予定だったが、その前にイザベラ子爵令嬢様が突如いらっしゃり、多少揉める。業者との話が済むと旦那様は午後のお茶を子爵令嬢様と喫まれ、その後は子爵令嬢様を無視していつものお
(中略)
マーイオス22日 豊穣神の日 曇後霧 65.6°F
蒸気機関のメンテナンスの為、発電用の蒸気機関を厩舎の近くに設置したり、お屋敷に据え付けられた蒸気機関を地下から上げたりと、数隻の飛空艇が飛び交い、賑やかな一日となる。技師は人間が多く、久しぶりにお屋敷に多くの人がいらっしゃるため、シティより従者の応援等も呼ぶ。旦那様も作業に加わり、作業自体は半日程で終わる。その後は業者の方々を労われお庭で晩餐会(旦那様は「
(中略)
イウニオス2日 軍神の日 霧後霧雨 62.3°F
夏に入ったが天候優れず肌寒い。旦那様はメンテナンス後籠られる時間が長くなられた。本日もイザベラ子爵令嬢様がいらっしゃるも「もう少しなのだけれど」等とおっしゃりいつものお部屋に籠られる。イザベラ子爵令嬢様は温室を御覧になられ、幾つかハーブをちぎると、それでお茶を入れる様所望され、苦々しそうに喫まれた。
イウニウス3日 商業神の日 雨 61.8°F
旦那様が温室のハーブを御覧になり困惑される。「あれは頭痛がちだったナタリアが良く使っていたエッセンシャルオイルの原料になる物なんだ。この時期が良く育つから、一年持たせる為にも大量に必要なのに」と。その後は珍しくアブサンをジンで割ったものを呑まれ、一晩中いつものお部屋に籠られる。
(中略)
イウニオス28日 太陽の日 晴 73.2°F
イリュリアのアクアス・スルプラエで皇太子がパレード中に暗殺される事件が発生、とラジオのニュースが入る。旦那様は「これじゃあゲルマニアからの物資は暫く調達が難しいかもな。温室の蒸気機関のメンテナンスが済んでいて良かった。新大陸の方にも金融分散しておいたのも良かったな」とおっしゃる。「ただ、我が社の
+
蒸気が吹き出す。
あちこちから吹き出す。
各種のメーターが蒸気の圧力を示す他、オシロスコープでは緑の線が電圧や各種周波数に合わせ黒い舞台の上で踊っていた。
「もう少しなんだ。二進数では多元的可能世界が再現できないんだ」
男の前には高さ8フィート、直径2&1/2フィート程の試験管があり、その中には血管の代わりに電線の生えた女の体が浮かんでいる。女の入った試験管の奥には、冷却用の液体窒素に繋がった真鍮や銅で組み立てられた電算機が有り、窒素の蒸気を吐き出しながら演算をしていた。
通常の四肢とは別に様々な管の繋がった女は微笑んでいた。
「もう少しなんだ……これで、どうだ?」
男は呟く。
女が微笑む。
『ごきげんよう』
トランジスタを通じた女の声が横から漏れ出す。
「よし」
男は口の端を上げる。
『ごきげんよう《ハロー》、
女が続ける。
「な……」
男が愕然とする。
「ダメか……」
『ダメ?』
男の声に試験管の中の女が反応する。
『大丈夫。貴方はダメなんかじゃないわ。エイドリアン』
試験管の中の女は微笑み、機械的に話し始める。
「違う」
男は俯き、トグルスイッチに手をかける。
『違う?』
男はスイッチを切り替える。
『違ったの?ごめんなさい』
女の声を合図に各所から蒸気が盛大に漏れ出し、アナログメーターの値がゼロになって行く。
オシロスコープはダンスを止め、銅と真鍮の塊は霜に覆われて行く。
試験管の中の女の瞳から光が失われ、微笑みは弛み、女の顔は俯いて行く。
「何故だ……」
男は俯き、呟く。
「ウノペトロスの理論が一般性を持つなら、理論的にはこれで可能なはずなのに……」
男は計器を見つめる。
「無限の感情をシミュレートするから無限のエネルギーが必要になるのか?」
光の失われた女の顔を見上げる。
俯いたその顔は、まだ、微笑んでいた。
「いや、無限と云っても実際にはもつれや周期は強い固有性を持つから、ある特性を保持しつつ、しかし無限の可能性に開かれる筈なんだ。そうすれば人形とは違うオートポイエティックな活動が可能なはずなのに……」
男の視線は再度計器に落ちる。
計器の上に蒸気よりも塩分濃度の高い液体が落ちる。
「僕の予想通りではダメなんだ……」
男は崩れ落ちる。
「僕の解析通りじゃダメなんだ……」
その肉の塊は声だけを発する。
「僕の想像を越えてくれないと……」
男は顔だけ上げる。
「僕の予想の斜め上を行ってくれないと……」
そう云うと、男は腕を差し出し、部屋のあちらこちらを指し示し始める。
「この部屋は君が好きだった物、君が喜んだ物、君の好きそうな物、君が喜びそうな物、君が驚いてくれそうな物、そう云う物でいっぱいにしたんだ」
固まり冷えた女の顔に向かって続ける。
「温室もそうだ。君が大切に育てていた品種、君の持病に効くハーブ、君の好きそうなもの、そう云うのをいっぱい集めたんだ」
一度顔を落とす。
「……もう枯れてしまって株ごと換えたものもあるけれど……」
小さく、最早空気の漏れるのと変わらない音を発する。
「今でも、シティに行けば、君が見ていたオートクチュール、君が好きだったステイショナリィ、君が喜びそうな雑貨を見て、喜んでしまう自分が居るんだ……」
蒸気なのか呼気なのか、判別もつかない。
「君の笑顔が出て来て、君の喜ぶ声が聞こえて、そして、全部ダメだと気が付くんだ」
男の目は何も見ていなかった。
「毎回、毎回……」
男の周囲には、パステルカラーで彩られた、ロココを近代的にした様なアールヌーヴォー様式の家具や香水瓶で埋められていた。
天蓋付きのベッド。
淡いコバルトブルーに白い飾りの、猫足のついたテーブル。
天然石で飾られたキャンディポット。
ステンドガラスにアラベスが踊るティーセット。
それらは皆暖かく微笑み掛け、柔和な手を差出して居た。
ただ虚空に向かって。
+
僕は独り、計器を見つめていた。
硬質的な真鍮や鉄の質感に目をやってしまう。
こんな時、ナタリアだったら何と声を掛けてくれるだろう。
つい、余計な事を考えてしまう。
『もう、あれから何年経ったと思っているの?』
イザベラ子爵令嬢の声が頭の中で響く。
何年……なのだろう?
そんな事はどうでもよかった。
『先を見た方が』
またイザベラの声がする。
煩いな。
「先」だって?
「先」ならいつだって見ている。
今でも、彼女がいつ帰って来ても良い様に温室と彼女の為の部屋を整えている。
だいたい、「先」と云ったって、ナタリアと一緒にいるのが前提なのだから、それ以外の「先」なんてある訳が無いじゃないか。
だから僕は、いつナタリアが帰って来ても良い様に、喜んでもらえる様に、努めているののじゃないか。
驚いた顔も見たいし、喜んだ顔も見たいから。
ああ、そう云えば、今年は冷えたけれど、バラは奇麗に咲いたなぁ……
見せて上げたかった。
きっと喜んでくれたくれただろう。
或は、違う反応が出るだろうか。
もう、バラは落ちてしまったけれど。
ネモフィラの丘も見せたかったな。
ああ、そろそろ睡蓮が良い頃か。温室のは芽吹き始めていたな。
天井を見上げると、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
天井に吊るされたシャンデリアや壁紙、柱頭の飾りが目に入って来る。
喜んでくれると好いなぁ……
ふと、「足元」のナタリアに目をやる。
美しいが感情を感じられず、光の無い顔に髪が掛かる。
溶液中でも髪は掛かるのか。
そのまま、目が合う。
その目が微笑んだ。
目に光が戻り、虹彩を輝かせ始める。
顔に掛かった髪が左右に分れ、彼女の顔を見せる。
口角も上がり始めた。
トグルスイッチが切り替わる音がすると、そのまま各種のメーターが回り始め、オシロスコープが踊りだし、バルブからは蒸気が漏れ出し始める。
生態ポッドの後ろにある計算機が動き始め、霜が溶け出し、蒸気の翼を広げた。
その後、ナタリアも両腕を広げると、繋がっていた余計な管が外れ始める。
ナタリアが生態ポッドから出て来る。
彼女はアイスブルーの絹地に銀糸の刺繍がされ、絹の手編みのレースがあしらわれたドレスを纏っていた。
彼女が奈落から登場すると、真空管で構成された楽団がワルツが奏で始める。
ガラスで作られた百合を模した覆いの中にある電灯が灯り、シャンデリアに吊るされたクリスタルガラスがその光を反射し、更に部屋の中を踊らせる。
ナタリアは
彼女は少し背伸びをし、自分の瞳孔と僕の瞳孔が同一軸上に並ぶと、スカートの両裾を軽く持ち上げた。
丁寧に編まれ、スターリングシルバーの台座に真珠やアクアマリン、所々にガーネットをあしらった髪飾りがそれを纏め上げた頭を下げ、一礼する。
さらさらとした衣擦れの音ときらきらとした宝石の反射が僕をとらえる。
僕が手を差出すと、ナタリアはそこに自分の手を重ねる。
シンバルが鳴り響き、蒸気の笛がならされる。
僕達は回り始めた。
回りながら周る。
三段になった銀のプレートに盛られたザクロや、コバルトブルーで彩色された白磁に生けられた水仙の花が飛び交う。
重力から解き放たれ、三次元軸を自由に舞う。
最早三次元に限定される事も無い。
シャンパングラスが舞、キラキラとシャンパンが浮かぶ。
無限の重なり合いから、自在に望む形で現れる。
原点は固定されず、多次元で撚られた二重の螺旋が無限の可能世界で遊ぶ。
ナタリアは、泣き、笑い、驚き、微笑む。
その全てが愛おしい。
ティンパニーが打ち鳴らされ、弦楽器が長く弓を引き、シンバルがなる。
金管楽器が高くなり、トランペットが大きく轟く。
高高度。
成層圏に届こうかという山脈。
星空。
トランペット。
天使が微笑む。
+
男は一人、計器の前で仰向けになっていた。
鎧戸の隙間から陽が入り込む。
ランプスタンドに照らされ、太陽に浸食されない暗闇の奥では、緑色のオシロスコープが心臓の鼓動に合わせて周囲の資料や配管類を浮き出させている。
電子工学と生物学を銅管や蒸気で繋いだ祭壇の前で仰向けになっている男の目は、未だ天井を見つめていた。
祭壇に祀られた女神は、光も無く微笑みかけている。
男は、そこに祝福を感じる事ができず、ただ復活を待って居た。
部屋の扉が開き、廊下からの光を部屋に齎す。
扉の形に区切られた光のやや奥に、男の頭が有った。
男はその家政婦の目を見る。
様々な音が複層的に重なるが、この部屋には三人しかいなかった。
男と視線が合うと、家政婦は軽くため息をつき、多脚型運搬用機械人形を伴い部屋に入って来る。
男の前迄来ると、運搬用の機械人形は恭しく膝をつき、前後どちらにも付いていない頭を垂れた。家政婦もその横で膝を折り、腰を落とす。
そのまま数秒、男の顔を見たまま固まる。
視線は繋がったままだった。
短い朝の礼拝が済むと、家政婦が男の両脇に腕を入れ、いまだ頭を垂れている運搬用機械人形の上に引きずる。男の上半身が乗ると、後はベルトコンベアが男の体を全て乗せる。
そのまま多脚機械は頭を上げ、家政婦の腰よりやや高い位置まで男の体を持ち上げると、水平位置を取った。
男の目は、未だ家政婦の目を見て居たが、家政婦が男の額に手を触れ、瞼を閉じさせると、そのまま寝入ってしまった。
この間、ため息以外は始終無言であり、祭壇に捧げられた機械音や蒸気のポリフォニーで奏でられる賛美歌だけが大きく響いく。
家政婦はやや目を細めると、そのまま男と機械人形を伴い、部屋を出ていき、扉を閉めると鍵をかけた。
部屋には一人、祭壇の本尊だけが残された。
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