複素数空間ピグマリオン

@Pz5

第1話

アプリーリオス20日 月の日 晴 気温60.4°F

 果樹園のチェリーやプラムの花が咲く。極東では毎年これを見ながらパーティをするらしい、と旦那様はおっしゃる。ただ、旦那様には別の思い出と繋がるせいか、寂しそうな目をされる。夕方から冷える。食後はスモーキングルームにて午餐の際に手折られたチェリーの花と暖炉を見つめられながら普段より多くのブランディーをお召しになり、何事か呟きながらノートにお認めになられる。


(中略)


アプリーリオス28日 軍神の日 曇後霧雨 気温58°F

 この所旦那様は「東洋風だ」と晩酌を多くされる。シーズン中でもカントリーサイドに籠られ、シティから人を呼ばれる訳でもなく、お独りでなされる。シャンパンの在庫が減ったので、シェリー、ブランディー、ラムと共に発注。最近ではジャズのレコードも回されるので、流行の「スウィング」と云うものも業者に頼む。旦那様のお気に召せば良いけれど。


(中略)


マーイオス1日 女神の日 雨 気温64.2°F

 旦那様は昨晩「ワルプルギスの夜だ」等と良い、いつものお部屋へ。シャンパン1瓶を持って入られる。今朝は初夏とは言え冷えるなかお部屋の中で屈んでおられた。毛布を掛ける。昼には回復。昼食にポトフを召し上がる。温室の様子を御覧になりながらティータイム。コークスの発注をする。そろそろ初夏だと云うのに肌寒く、シェイクスピアのソネットの雰囲気は遠い。旦那様の気分は初夏の涼風をしても比較にはならないのだろうけれど。


マーイオス2日 農耕神の日 晴のち霧 気温63.8°F

 蒸気発動機に異音。ヴェスタにも異常が出てお昼はサンドイッチに。旦那様に報告を差し上げるとヴァルカンにて修理。ローストビーフを取っておいてよかった。午後には修復でき、ラジエタ暖房機も動いたが、晩餐の後、お疲れなのかマティーニをいつもより多く召し上がる。念の為技師に電文を送る。


(中略)


マーイオス4日 月の日 雨 気温60.2°F

 朝から冷え込む。バラは咲き始めたが未だ莟も多い。ワイルドローズはこう云うときには強くて良い。午後のお茶はチーズケーキにバラの花びらを添える。夕方近くに先週末の電文の返信。よく解らないが必要なユニットをゲルマニアから取り寄せる必要が有るとの事で、先ずは向こうの会社に連絡を取る、との事。電文をお読みになられた旦那様は苦々しい顔をされる。バラの花が気に入られた様で、晩餐後のお茶にも添えられる。



 蒸気が吹き出す。

 あちこちから吹き出す。


 耐熱ガラスと鋼の格子で覆われた窓の向こうで赤々と燃え上がるボイラから供給される蒸気を分配するレギュレータから漏れでいた。


「全く。何が石油内燃機関ペトロエンジンだ!」


 あちこちで焼けた真鍮官から吹き出す蒸気の噴水の中央で男が悪態をつく。

 男は目を焼かれぬ様黒ガラスの嵌ったゴーグルを掛け、下着ガーメットだけの上半身は石炭と脂で黒く光り、その上には油染みの多い革のエプロンを掛けて居た。

 腕には入れ墨とやけどの跡が多い。


「折角最新型を導入しても全然安定しないでやがって。結局蒸気で回すはめになりやがった」

 その後も各種のハンドルを上下したり周囲の若い男達に一通りキツい言葉をつくと、側に置いてあったタンブラーを取り、中に入った水で半分に割ったラムを一口呑みながら、あちこちに付いたメータの針を睨みつける。

「よーし、良い子だ。やっぱり船には蒸気だろう」

 そう無精髭に囲まれた口で笑いながら呟くと、乱暴に伝声管を取る。

「こちら機関室!こちら機関室!発動機の接続切換えが完了した!今からクラッチを繋げる。フラップと操舵環をしっかり見てろ!アーライ!?」

『こちら艦橋。諒解した。こちらでもメータは見ている。存分にやってくれ給え。送れ!』

「こちら機関室!ほいじゃぁ、今から繋げるぞ!?衝撃に備えろ!?以上!」

『こちら艦橋。諒解した。各部に伝えるので30秒程待ち給え。30秒後、共に楽しもう。以上』

「こちら機関室!諒解したぁ!今回の件、ロンデニウムに着いたら一杯奢れ?以上」

『こちら船長。これは私の責任では無いぞ?以上』

「こちら機関室長!まぁ、楽しみにしてるぜ?以上!」





 時計の秒針が半周する。

 機関室長は今回のフライトの鬱憤を晴らす様な楽しげな目でクラッチのレバーを掴む。

「それじゃあ、繋げるぞ!」

 男はそのレバーを思いっきり下げる。

 男の手には分厚い革手袋越しに次々とギアが切り替わる感触が伝わる。


「繋がったぁ!これでダメだったら海と違って堕ちて死ぬしかないからなぁ、覚悟しとけおめえらぁ!」


 男に断続的な感触を伝えた力の源は、一度静まる。


 次にシリンダー、ピストンを伝わり、各部の真鍮官の焼き色をさらに増させ、レギュレータのメータを目一杯にさせると、次に周囲のバルブから次々と蒸気を噴出させた。

 吹き出る蒸気の柱の中、男は体の芯からクル興奮と蒸気の熱に酔いはじめる。

 その感触はある種の悦楽的なものさえ男に感じさせた。


 蒸気に突き動かされたピストンはそのまま、船体を竜骨の様に貫くシャフトを回転させる。

 シャフトの回転は各所の滑車とチェーンによりその動力を伝え、チェーンによって繋がったギヤが回り始める。

 そのギヤに重ねられた幾周りか小さいギヤも同時に回り始め、その小さなギヤに回されたチェーンが、更に次のギヤに動力を伝える。

 そのギヤの動きは油やグリスを溶かし更に次のギヤに動力を伝え、その動力はシャフトへ伝わる。

 そのシャフトの先にはプロペラがあり、そのプロペラは冷えた空の空気を押し出す。

 各部の石油内燃機関から蒸気の中央機関へ切換えられたプロペラ達は完全なる同期をもってヘリウムで満たされた大きな風船を、その風船の長が望む方向へ押す進め始めた。


 時刻は間もなく真夜中。

 大陸から僅かな海峡を越えて小さな島国へと向かった飛空艇は、メガロポリスのサーチライトと誘導灯に照らされ、空の港町へと舵を定め、進めて行く。

 照らし出されたそこは、ゴテゴテとした中世風ゴシックの飾り付けが施された鉄筋コンクリートで近代を覆い、他者より少しでも多くを得ようと24時間眠らず、享楽と欲望が消費される国際都市だった。





 僕は独り、棚を見つめていた。

 がっしりとしたオークの扉の木目に目をやってしまう。


 今度は化粧板をウォルナットにしようかな?

 蒸気発動機の部品が整ったら、今度は温室の配管を確認しよう。


 余計な事を考える。

 シャツが決まらない。

 今日は珍しく客人が来るのだが、どうにも気分とその予定の感覚が合わず、逡巡してしまう。

 否、自分の気分が合わないのではない。そんな気分が最初から無いのだ。


 白いポプリンにプリントされたサックスブルーのストライプ。

 ピンオックスの白い無地。

 淡い青いヘリンボーン。


 どれも違う気がする。


 ならば何も考えずに白いポプリンのにすれば良いのだろうけれど、それでは何だか仰々しい気がする。

 そもそも、客人と云っても来るのは業者で、僕の方が顧客なのだから何も考えず好きなのを着ればいいのに、それが思い浮かばない。

 こんなとき、執事や従者がいれば、それに任せておいて自分は考えずに済むのだろうが、生憎と彼等はシティにいる。わざわざこんな事の為にテレキネマを使うのも馬鹿らしいし、朝からこんな事を聞かれては彼等も疲れるばかりだろう。


 リネンに淡い青と赤のオルタネイトストライプ。

 コットンのベージュ。

 パークグリーンのストライプ。


 どれも碎け過ぎだろうか。

 ボタンに使われた真珠貝がキラキラと輝いている。


 ああ、タイはどうしようかな。

 そう言えば、靴もどうしよう。


 ぐるぐると目の前の情報だけ巡り、何一つ気分に落ちて来ない。


 ノックの音が四回。


『旦那様。そろそろ決められましたでしょうか?』

 少し苛立ちの混じったソフィーの声。


「あぁ、済まない。ええっとぉ……」

『朝食がブランチになってしまいますわ』


 時計を見る。

 慥かに、後数時間するとブランチの時間だ。


「解った。解った。これにするよ」

 そう言って手前に有ったコットンの淡い青とグレーのオルタネイトストライプのシャツを手に取る。

 シャツは柔らかく広がると、糊で固められたダブルカフスがすとんとした感触を伝えて来る。


「今から襟をつけるから、少し待っていてくれ給え」

『かしこまりました』


 襟も手前にあった高めのラウンドカラーで、タイは、まあ、シルクの紺地に小紋ので良いだろう。

 糊で固められた白い襟にタイを通し、シャツの襟後ろとスタッズで繋げる。

 羽織る前にバランスを確認する。


 あ、この組合せは……


『入室して宜しいでしょうか、旦那様?』

「ん?あぁ、どうぞ」


 そうだ、レコードを掛けよう。


 ライティングディスクのトグルスイッチを切換えると、ディスクデッキに着いたバネで支えられた真鍮のアームが動き始め、初期位置に着く。

 この前、ソフィーが新しく入れてくれたのは、A-8:7だったな。

 スイッチ横のキーボードで番号を打ち込む。

 丸い真鍮の肌触りと中のギヤが噛み合う機械的な手応えが返って来る。

 アームは指示された番号通りのディスクを取り出し、それをターンテーブルに乗せる。


「失礼致します」

 ソフィーが入って来た。

 丁度針がレコードに落とされ、独特のノイズが響く。

「準備の程は如何ですか、旦那様……」

 ソフィーが顔を上げる。

「な……」

 入った先にいた、ブレイシーズはぶら下げたまま、トラウザーズのボタンも留めず、シャツを羽織ってすらいない男の姿を見て驚いたソフィーの声は、真空管で増幅された大仰な管楽器と激しい打楽器の音に掻き消された。


 思って居たより騒々しいな。


「何故お召しになられていらっしゃられないのですか!?」

 ショックから立ち直り、チューバやトロンボーンのリズムを確認していた僕の側に、いつの間にか近づいたソフィーは、僕に不可解な質問を投げかけて来る。

「いや、気分を変えようと思ってね」

「はぁ?」

 彼女は、最早主従関係(昨今では労使関係と呼ぶそうだ)等関係の無い顔を向けて来る。

「とにかく」

 そう言いながら、ソフィーは顔を天井の方へ向きなおした。

「シャツをお召しになって下さい」

「あぁ、そうだね」

 音量を調整した僕はシャツを羽織り、香水を一掛けすると、そのまま先ずは留めるべきボタンを一通り嵌め、ブレイシーズを肩に通すと、後はソフィーに身を委ねた。


「まったく」

 座ると同時に渡された編み上げのアンクルブーツに足を通すと、ソフィーは一つため息を吐く。

 僕はスウェードの内羽に通された紐を締め上げた。

「何故こちらのお屋敷にはフットマンも従者もお連れになられないのですか?」

「彼等はシティでの仕事が有るし、ここには君が居るだろう?基本的な仕事は機械がしてくれるし、基本的に僕は人を呼ばないから、基本的にここにそんなに人手は要らないよ」

 僕は適切な説明を述べながら、両足の靴紐が結びあげた。

「そう云う事ではなく」

 抗議の言葉と共に差出されたカフリンクス箱を見る。

「もし作業が大変なら他の機械やロボットも検討しようか?」

 今日は唐草模様の掘られた銀製の八角形のものを一組取り出す。

「お給仕の内容に不満がある訳では御座いません」

 僕が腕を差出すと、ソフィーはシャツの袖のボタンホールにカフリンクスの鎖を通して行く。


 最近はスナップ式のも出て来ているが、やはりチェーン式の方が個人的には好きだ。


「私は女性で御座いますよ?」

 顔を上げ再び立ち上がった僕には目も合わせず、彼女はグレーのダブルのウェストコートを僕の肩に通し、シャツの台襟と付け襟をスタッズで留める。

「新世紀に入って何年経ったんだい?もう王だって二代も交代しているし、ガリアどころかこちら側でも海水浴は当たり前になってきている世の中なのに?」

 タイをフォアインで結び上げると、彼女にやや直される。

「そう言う問題でも御座いませんわ」

 最後に締め上げたとき、いつもよりやや力が籠っていた気がする。

「僕は、男女平等は良い事だと思っているよ。最近では女性の権利運動も盛んで、まあ、中にはサフラジェットの様な過激なのもいるそうだけれど」

 ソフィーにシャツの裾を直してもらいつつ、僕はウェストコートのボタンを留め、懐中時計を受け取り、ボタンホールに鎖を通す。

「別に、その様な政治的な話がしたい訳でも御座いませんわ」

 彼女にヘリンボーンチャコールグレーのジャケットを羽織らせてもらい、再度タイの確認をしてもらう。

「なら、何が問題なんだい?この作業が嫌なら、そうだな、僕一人でできる様に、そう言った装置やシステムも開発しよう」

 ソフィーの手が止まり、グレーと茶色に光る虹彩が眉の間から覗いて来る。

 彼女は目を横に逸らし、タイを離した後も暫く僕の胸の上に手を置いていたが、ため息を一つつくと、そのまま半歩距離をとった。

「先ずは、朝食に致しましょう」

 ソフィーはそう告げると、開いたままの部屋のドアを持ち、僕が外に出るのを促した。

 僕は、再生機のスイッチを切ると、そのまま食堂へと向かう。

 廊下に出たとき、気のせいか、絨毯の感覚の変化が普段より大きく感じた。




 男は一人、ダイニングルームの暖炉の前の席で座っていた。

 ダイニングテーブルの天板は頑丈なオークを鏡の様に磨き上げられており、銀器や磁器の食器、咲き始めたばかりのバラ等の上下を逆に転換させて映し出していた。また、暖房としての主な機能は新世代のセントラルヒーティングシステムのラジエータに譲った暖炉は、その空いた役割の分大理石の飾り柱や花崗岩の天板、その上に置かれた装飾過多な時計等で「主の居場所」を強く意識させる事に注力していた。


 機械の給仕が、4本の腕を使い、男の食べ終えた食器をテーブル脇の台に乗せ、ポットから紅茶を注ぐ。

 食器を乗せられた台は蒸気を吹き上げ軽く持ち上がると、底に付けられた車輪を電動モーターで駆り自動で動きだし、台所まで運んで行った。


 6フィート程の大きなガラスを複数毎はめ込んだ窓からは芝生に覆われた庭と、植物を整備する機械人形オートマタ達が見え、陽光が部屋を照らし、白い壁紙に張られた金箔の反射が見える。


 この部屋の中には人は2人しかいない。


 グレーヘリンボーンのジャケットを羽織った男は、紅茶にブランディを入れてもらおうとし、それを客室女給パーラーメイドに遮られた事を思い返しつつ、時間を確認すると、そろそろ来る予定の来客の為にジャケットからフロックコートに着替えるべく、衣装部屋へ移動を始める。

 しかし、予想より早く客人が来館した知らせが入ったので、男は上着を取って来る様、先程の家政婦ハウスキーパーに伝えると、自身は応接間に向かった。


 男の来るのを認識した機械人形が頑丈なオークの扉を4度叩き、真鍮のドアノブを捻って開ける。

「いや、失礼。もう少し後の時間と聞いていたもので、この様な格好ご容赦願いたい」


 男が入ると、応接室には既に第三の人が居た。


「こんにちわ、ご機嫌はいかが?エイドリアン」

 そこに立っていた女が挨拶をする。

 三つ編みにした栗色に近い、緩いウェーブのかかった髪を結い上げ、手編みのシルクレースがふんだんに用いられた、初夏用の細かい植物文様がプリントされたリネンの昼用ドレスはデコルテラインこそ若々しく開いているものの、その下から首元迄はリネンのレースの襟が覆い。その上から白いコットンレーススカーフがボウを描き結ばれていた。更にその上には革製のケープが羽織られ、足元はふくらはぎまで覆う編上げブーツ、手にしたボウラーハットは革で覆われゴーグルが着いて居た。

 服装こそ訪問着だが、その上はライディングコートで覆われていた。


 その女の姿を見たとき、男、エイドリアンは、先程ブランディを入れるのを止めてくれた客室女給に胸中にて最大限の感謝を捧げた。

「ああ、これは、これは、ジ・オナラブル・イザベラ・ローク子爵令嬢。如何されましたましたかな?」

 それは彼が当初予定していた来客とは別の、招かれざる者であった。

 彼は、ひと呼吸置くと、そのまま続けた。

「特にお手を煩わせる様な事をした憶えは御座いませんが?」

 実に慇懃に、実に実に丁寧に。


「あら、失礼」

 その反応を見て、女、イザベラは方眉を多少動かすと、挨拶を続ける。

「では、改めまして。ごきげんよう、ブラックウッド伯爵並びにフランケンシュタイン&プロメテウスコー社長」

 イザベラは鹿革の手袋をエイドリアンにぶつけんばかりに振り回しながら、改めて挨拶を終え、大仰に一礼した。

「何も、会社名や役職名までは付けなくても宜しいでしょうに」

 いつまでもおじぎしたままのイザベラに対しブラックウッド卿から声をかける。

「幼少の頃からの関係を無視して、最初に他人行儀に接されたのはそちらでしょう?」

 この一言を合図に、彼女はゆっくりと顔を上げる。


「失礼致します、伯爵。言いつけ頂きました物をお持ち致しました」

 

 子爵令嬢が視線を伯爵の顔に戻した丁度そのとき、客室女給が入って来た。

「ああ、どもう有難う。今替えてしまうから、序でにはジャケットは戻しておいてくれ給え」

「かしこまりました」

 エイドリアンは上着を脱ぎ、ソフィーに渡す。

「他人行儀な挨拶だった割には、わたくしの前では平然と上着を取られるのですね、伯爵ロード

 子爵令嬢の叱責の感情がこもらない非難に対し、女給にチャコールグレーのフランネルに拝絹はいけんの入ったフロックコートを羽織らせてもらいながら伯爵が返す。

「ああ、失礼。この後、別の者が来るのでね。その前に済ませてしまうおうと思っていたのだが……」

「あら?珍しいこと」

 伯爵の言葉を遮り子爵令嬢が驚きを示す。

「そのシャツとカラー、タイの組合せをお召しになるなんて」

 伯爵の目が細くなり、頬がやや引きつる。

「何年ぶりなのかしら?」

「偶然だったんだ。気分が定まらなくてね……」

 子爵令嬢の言葉を伯爵は弱いが鋭い調子で遮る。

「定まらなかったんだ」

 エイドリアンの様子を横目で見てイザベラは深く息を漏らした。

「そうね。それで」

 イザベラは絨毯を見つめているエイドリアンに視線を戻すと、そのまま続ける。

「いくら許嫁だったとは云え、後何年この状態を続けるおつもり?」

 伯爵は視線を動かさず、方眉だけあげる。

「問題は無い様にしているのだけれど」

 反駁は軽く漏れた。

「『問題は無い』ですって?」

「ああ、当家の資産は既に、冨を生む力が弱くなり、王ではなく国家への税金が掛かる様になり始めた単なる土地から重工業に移されていたし、それは先代の時の半島やアフリカでの戦争で更なる冨を生んでくれた様だ」

 イザベラのねじ込んでくる様な追求に対しエイドリアンはここでは無い何処かを見つつ、小声でその論拠を述べ始める。

「そのときの余剰から、さらに災厄等が起きた場合に備え、工業だけでなく金融や天然資源の方面でも展開し始めている。シティの従者達は実に良くやってくれている」

「そう云う話ではなくてよ?」

 イザベラは半ば呆れた様にため息をつく。

「貴方自身のお話なの」

「僕の?」

 イザベラは、相変わらず足元の虚空を見つめているエイドリアンの視線の先に体を移す。

「そうよ。聞けば未だあの部屋や温室に籠って手を入れ続けているそうじゃない」

 子爵令嬢は自身の視線を伯爵の視界に合わせようとする。

「それは、当然の事だよ。いつでも返って来られる様にしておかないと。今日のメンテナンスもその維持の自動化には非常に重要な……」

「あれから何年?ねぇ?もう忘れて前を見た方が良いわ」

「『前』?『前』だって?」

「ええ、そうよ、前を向いて、少しでも未来へ……」

「『前』と云うのは、何処の事だい?何か規準を作らなければ、『前』も『後』もあったものでは無いではないか」

 歯車は噛み合っているが軸のズレた会話が続く、伯爵の視線は相変わらず虚空にある。

「だから、先の話よ。今でも過去でも無い、未来の……」

「だから、僕はこの『先』に対して手を打ち、手入れをしているのじゃないか」

「だから、貴方の『先』は過去から見た『先』でしょう?そんなのではなく、『今』から見た『先』の話をしているのだわ。もうナタリアの事は……」


 蒸気が噴出する音。

 給仕機械が紅茶を乗せて来た。’


「あの、失礼致しますが、私は失礼させて頂いても宜しいでしょうか、子爵令嬢様ジ・オナラブル?」

 この機械の入場を切っ掛けに、軸も噛み合いも異なる二人の貴族の間に従者が割って入る。

「ああ、済まない、ソフィー」

 客室女給が訊ねたのは子爵令嬢に対してだったが、しかしそれに応えたのは伯爵であった。

 子爵令嬢はやや表情を強くする。

「待たせてしまったね。下がって良いよ」

「かしこまりました、旦那様マイ・ロード。失礼致します、子爵令嬢様」

 女給が出て行き、伯爵は給仕機械が銀のポットから注ぐ紅茶を子爵令嬢にも渡す。

「彼女にはちゃんと名前で声をかけるのですわね、貴方は」

 紅茶を受け取り、機械からミルクを注がれつつイザベラが返す。

「貴方のお名前も最初に及びしたではありませんか」

 伯爵は口調を整え返す。

「ええ、とても形式的フォーマルに、ね」

 子爵令嬢はそのままの口調で続けた。


 そこへ来客を告げるベルが鳴る。


「こちらで御座います」

「いやぁ、このお屋敷は素晴らしいですな。ほかの処ですと精々ランプくらいなのですが、電気の使い方が素晴らしい。慥かにこれではゲルマニアからの部品も必要でしょうな」

 客室女給に誘われたモーニングコートにボウタイを合わせた男は大きなカバンを給仕機械に乗せ入って来た。

「いやしかし、ゲルマニアからこちらに戻る途中飛空挺が一時エンジンダウンしましてな。いや参ったものですよ。石油内燃機関ペトロエンジンも慥かに素晴らしいですが、矢張り蒸気機関の方が安心ですなぁ。なにより石油機関と異なり静かなのが良い」

 応接間に入った物の、相変わらず部屋や機械の機構ばかりを見ていて、今回の依頼主には未だ視界に捉えていなかった。

「さて、本日の御用命で御座いますが……」

 ここで漸く伯爵の方へ視線を移す。

 其処には、この業者の想定と異なり、男女が立って居た。

「おや?奥様で御座いますかな?御夫妻でお迎え頂けるとは、実に光栄で御座いますな」

 業者の男は大仰に頭を下げた。

 伯爵と子爵令嬢は何を云われたのか理解できず、刹那の間目を合わせると、漸く思考が噛み合った様に互いに頷いた。

「ああ、いえ、こちらは私の妻ではなく、古い友人のイザベラ・ローク子爵令嬢です」

「ええ、とても古くからお付き合いさせて頂いておりますわ」

 そう云うと、伯爵は挨拶の握手を業者に差出した。

「ああ、これはとんだ失礼をば。いやはや、是非も御座いません」

 業者は伯爵の手を掴むと深く頭を下げた。

 伯爵も軽く会釈をすると、男の後ろにいた客室女給へと視線を送る。

 ソフィーはエイドリアンと目が合うと、目だけで軽く笑った。

「どうぞ顔をお上げ下さい」

 伯爵はソフィーの目を見つつ男に告げる。

「ささ、早速では御座いますが、先ずは問題の温室へとご案内致しましょう。どうぞこちらへ」

 ブラックウッド卿は業者へ仕事の話を送ると、今度はローク子爵令嬢の方へと向き直る。

「と云う訳で御座いまして、子爵令嬢様。お仕事のお話の為に、少々失礼させて頂きます」

「ええ、どうぞ、伯爵様」

 イザベラは軽く返す。

「さりとてしかし、私が席を外しております間、退屈なされたは大変で御座いますから、こちらの客室女給をお相手として差し上げましょう」

 そう云ってエイドリアンはソフィーへと手を差向ける。

 差向けられたソフィーの量目を大きく開いていた。

「さあ、くれぐれもご無礼の無い様にしてくれ給えよ」

「畏まりました、旦那様」

 客室女給は深く頭を下げる。

「さあ、では先ずは温室へ案内致しましょう、さあ、こちらへ」

「やや、伯爵様御自らご案内頂けますとは、これは有難いですな」

 そう云って二人の男は応接間を出ていった。

 二人の女は互いに呆気にとられた目を合わせると、女給は視線を落とし、子爵令嬢は斜め上へと視線を送った。


 部屋にはこの二人しかいなくなった。

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