それは『魔法』
篠岡遼佳
それは『魔法』
俺は、生化学の方面で、ほそぼそと基礎研究をしている大学4年生だ。
ようやく4月も終わろうかという今、とりあえず、教授からできそうな卒研テーマをもらおうとしている。
「思いついたら言うから~!」と、常に忙しい(教官室に居てくれない)教授は、今日も研究室を一瞬だけ覗いてどこかの会議へ行ってしまった。
月曜はみんな来るのが遅い。時刻は現在、午前9時である。
誰も居ない、ちょっと独特の匂いがする研究室で、ウインナーパンを頬張りながら、俺は呟いた。
「うーん、困った」
必要な単位は取ってあるから、残りは必修授業を登録して、気になる授業の第一回に紛れ込むくらいだ。
早い話が、いまのところ暇なのである。何をして潰すのが最も良いか、俺は腕組みをしてみたりする。窓の外の青空が爽やかだ。散歩でもするか?
と、そこへ、ドアが開く音がした。バサリと白衣を羽織った音と、ぱすぱすとスリッパの音もついでに近づいてくる。
俺は椅子をぐるりと回して、後ろを向くと、
「お疲れ様です、先輩」
思った通り、長い髪をくしゃくしゃにした先輩がいた。
「おう、熱心だな。何かあったのか?」
男性のような口調だが、先輩の見た目は小柄な女性である。
光っているように見える、青みの強い水色の瞳に、絹糸のようなツヤサラの金髪など、この変な大学でもなかなかお目にかかれない。黙っていると、顔立ちもノーブルだ。そんな先輩は面白がられて、「亡国の姫君」とか「妾腹の王族」とか言われている。
「いえ、暇なんすよ。家に居るより、とりあえずここに来ていた方がいいかなと思って」
俺がコーヒー牛乳を飲みながら答えると、
「
と、おそらく一番簡単で、一番よく消費される実験用試薬のことを持ち出された。
「あ、さっき空っぽだったんで作っておきました。それより早く無菌操作を覚えたいです」
「うーん、それはみんながいるときにやるからなぁ」
先輩は俺の隣の椅子に座って足を組むと、
「そうだな、ちょっと実験台になってくれたまえよ」
「はい?」
「『言葉の魔法』というやつでな、相手が居ないとダメなんだよ」
「授業じゃ聞いたことないですが……」
「それはそうだ。自作だからな」
この大学は、変な大学である。
いちおう科学をやる大学なのだが、なぜかそれとはかなり遠いだろう『魔法』についても専門の学部があり、研究がなされている。
この世界が『魔法』にあふれているのはご存じの通りだが、それでも、実際にそれを使える人は非常に少ない。
先輩は、その稀有な人間のひとりでもあった。
ごそごそとポケットから何かを取り出す。
白いカードだ。さっさっ、とトランプのようにそれを切りだす。
「魔法を自作……ですか?」
俺は『魔法』を間近にしたことは、この大学に入るまでほとんどなかった。
普通の人と同じように、正直謎のテクニックである。
先輩は手元を見ながら、
「まあ、魔法はいわばプログラミングのような側面もあってね。もう少し専門職の強い講義を受けるようになれば、君も理屈がわかるだろう」
「そんなもんですかね……」
「さて、そろそろいいかな」
そう言って、カードを扇型に広げた。全部で7枚。
「はい、選んで」
「え、いきなりですか」
「そこに何が書いてあるかで、君に変化が訪れる」
これは……うやむやのうちに実験台にされている……。
仕方がないので、あまり何も考えず、左から2番目のカードを選んだ。よいしょ。
カードには、
<君は私を好きにな~る>
と書かれていた。
「ふっふっふ」
先輩はよくわからない含み笑いをすると、
「君は、私を、好きにな~る!」
と、復唱しながら、俺の目の前で人差し指をぐるぐると回した。
そして、にやりと笑い、
「今のは呪文だ。復唱するのが大事なんだよ、『言葉の魔法』だからな。
いやぁ、どんな結果になるか楽しみだな」
……え、どういういうこと?
――それからというもの、先輩に会うたび、同じようにカードが差し出された。
<私の髪が気にな~る>
が出たときは、先輩のくしゃくしゃの金髪を、きれいに櫛で整えることになった。
見た目通りの柔らかさは、なんだか触るのが癖になりそうだ。
<私の作ったお弁当を食べたくな~る>
の時は、「おまえいつも惣菜パンだろ。しかもひとり暮らしだろ。もっと食に気を遣え」と、赤緑黄色茶色のバランスのとれた弁当をいただいたりした。
弁当箱を洗って返して、「うまかったです」と言うと、満足げに腰に手を当てて笑っていた。
<私のぱんちらが見え>
これに関しては、復唱の途中でカードを奪い取って破っておいた。
先輩なら本気でやりかねない。それはよくない。減るのでよくない。
<私がいないと寂しくな~る>
の日は、先輩は一切俺の前に現れなかった。他の人には会っているのに。
そういう所でマジで『魔法』使うのは良くないですよ。
先輩の顔を見なかったのははじめてだった。
<私と居るとうれしくな~る>
は、その翌日に出た。
にっこり笑って、なぜかVサインを出す先輩。
その日は一日一緒に居た。
うれしいと言うより、安心感があった。
そこにいるな、いてくれてるな、と。
そんな風に一ヶ月ほど時が過ぎた。
また月曜日、誰も居ない研究室で、先輩はまたカードを広げた。
「さあ、最後のカードを選びたまえよ」
「最後なんですか?」
「ああ、これで『魔法』が完成する」
俺は迷わず、真ん中のカードを取った。
<私と一緒に幸せになりたくな~る>
先輩は、カードを机に置いた。
そして、じぃっと俺をその湖水の瞳で見つめてくると、
「私と、一緒に、幸せに――」
復唱しようとするから、俺はもうなんだかたまらなくなって、
「――先輩は、ばかですね」
椅子から立ち上がり、? としている先輩をぎゅうっと抱きしめた。
「ばかとはなんだ、ばかとは」
憤慨するなめらかな金髪を、俺は真剣に撫でた。
伝わるように。
「あなたが『魔法』をかけなくても、あなたのこと、大好きですから」
俺はとっくに<一目惚れ>の『魔法』にかかっていたんですよ、先輩。
それは『魔法』 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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