Diary for DIVERSITY

SI.ムロダ

前編

真っ白な手袋が汗ばんだ僕の手の甲を締め付ける。というのも、この手記の解読が完了したと聞かされてから、五時間のフライト中、本当に一睡も出来なかったくらいなのだから。


不慣れな手が慎重に朽ちた羊皮をめくると、たしかに所々が失われてはいるものの、カペル文字が並んだ繊維紙の束がそこにはあった。

カペル文字は僕の専門外だったけれど、各ページの最初には、きちんと日付らしいものが記されているのがわかる。


温湿度が徹底管理された保管室の隣にはここへ持ち込まれた書物をあらゆる方法で調べる術が整っていた。つまりは、この一枚一枚を丁寧に非接触型の高感度スキャナで取り込んで、データ化しておいたものが、ようやくこうして僕たちの言葉で蘇ったということだ。



僕がさっき触っていたばかりの手記は、小窓の向こうの専門チームによって保存処理が再開されたようだった。

恐る恐る、この厳重な認証を済ませると、目の前にはテキストデータがずらりと並んだページが開かれていた。そうして僕は興奮した指先で、この長い間足元で眠っていた記憶に触れるのだった。





欠損および劣化の為、A1~B4判読不可。



三十六日目


山の煙が今日になって随分と大きくなった。時々北風が吹くと、あの嫌な臭いがますます酷くなった。朝方の地震は山のせいだと皆が噂している。アラムがそう言ったからだろう。彼は若い頃に山が火を吐き出すのを見たという。その時は森の半分が燃えてしまったと、そう言っていた。


それまでは山を越えた遥か向こうの平野で暮らしていたそうだが、彼らは自分達の家を捨てて、命からがらここへ逃げ延びたのだ。そして、彼らの先祖は山の炎についての言い伝えをアラム達に残していったらしい。

 

アラムが若い時に聞かされた話によると、アラムのお爺さんの時代にはちょうどこの村の辺りが燃え上がったそうで、我が家がある場所も昔は森だったそうなのだ。近頃アラムやその取り巻き達が再び山の反対側へ引っ越すべきだとあれ程強く主張するのは、この炎が南北交互に降るものであるという言い伝えを固く信じているからに違いない。

 

とにかく彼は村人たちを案じているのだ。私はその言い伝えについて詳しいことは分からない。それでも彼の統率力や人望については一目置いている。不作の時、均等に僅かな食料を配分することが出来たのも、彼の功績に違いないのだし、狩場のことで揉めたのを納めたのも、結局のところアラムとその取り巻き達によるところが大きかったと思うのだ。私を含めた村人の多くはそう考えていることだろう。

 

 三十七日目

 

今日は朝からずっと雨が降っている。それもただの雨じゃない。黒い雨だ。羊達が黒く濁った体でこっちに歩いてくるのが見える。羊を手に入れるために、何日か前から遠くの集落へ行っていたバジー達が戻ってきたらしい。前の羊よりも丈夫なことを祈ろう。今度は病気で死なすことのないように、大事に世話してやらねば。

 

しかし、これはバジー一派にとって人々の支持を得るのにもってこいの機会になったことだろう。若者たちの多くはバジー派を支持しているという噂もちらほらと聞こえてくる。彼らが羊達と共に戻ったことは村人の暮らしにとっては喜ばしいことだが、アラム派にしてみれば必ずしもそうでないのかもしれない。

 

空がどんよりと重たい。雨はまだしばらく続くようだ。今夜の魚は諦めることにしよう。こればかりは仕方がないのだ。


 三十八日目


昼近くになると、ようやく風が雲を流し始めた。〝山から立ち上る煙が空で雲と合流している〟空を見上げてそう言うアロンが隣で五匹も釣っていたのに、私の籠にはやっと一匹が入ったばかりだった。

 

アロンが妙に落ち着かないのでどうしたのかと尋ねてみると、兄のアラムと何やら揉めたらしい。バジー一派帰還の影響は本当に村の生活を変えてゆくかもしれない。そしてアラムの支持者たちにとってもそれは無関係であるとは言えないようだ。

 

あの羊達に皆が期待しているとは言え、尽くしてきたはずの村の住人たちが、簡単に新入りの連中になびいてゆくのが少し寂しい気がするのは私も同じだ。

 

結局アロンの籠にはその後さらに二匹が納まって、そのまま夕焼けを待たずに引き上げて行った。さて、そろそろもうひと仕事といこう。このままではまた今夜も芋を食うことになるからな。

 

 三十九日目

 

昨日から芋ばかりでいい加減うんざりしてきた。ミリスとちょっとしたケンカになったのは、彼女がやったこともない癖に釣りの事を偉そうに責め立てるからだ。

 

それにしても、気がかりなのはあの不気味な音だ。言い合いの途中で聞こえたあれは、山からのものに間違いない。私は前にも同じものを聞いたことがある。しかし、今度のそれは比べ物にならないくらいに禍々しい。さっきはケンカを止めるきっかけになったから、ちょっとした幸運だとも思ったのだけれど、あの山の様子からするに、きっとこれは何か大きなことが起こる前触れのようにも思えるのだ。


 四十日目

 

この日記を付け始めてもう四十日だ。それはつまり、山から煙が昇り始めて四十日目という意味でもある。最初の頃に比べると、人々は煙がもくもくと上がり続ける毎日にも多少は慣れてきたように見える。

 

バジー一派と言うのはちょうどそんな感じで、険しい顔で山の事を話すアラム達に比べると、どこかひょうひょうとしていて、いつでも楽観的な理屈を並べているのだ。それも手伝ってか、着実に村での存在感を増していて、アラムに近しい者達の警戒心が過敏になってきているのが分かる。もしかすると、この勢いに乗った集団はこれを機に勢力を逆転しようと考えているのかもしれない。

 

いずれにしても、私はここは何とかアラムに踏ん張って欲しいと願っている。彼は私が子供の頃から村の為にあれだけやってきたのだから。そして、その姿は人々の模範に値するはずだ。何を企んでいるか分からないバジー一派よりもよっぽど信用できる男なのだ。目先の金で釣られる者たちは彼らの危険性に気づいていないだけだろう。


 四十一日目

 

とうとう始まってしまった。バジー派の連中が更なる人手を要求し始めたのだ。牧畜に人手が足りないと言っているが、どうやらこの辺りで、取り巻きを増やそうという魂胆なのだろう。アラム達は言い伝えに従って、もう山の反対側へ移動する計画を立てていたと言うのに。

 

もしかすると、これは本当に村が分断される事態になるかも知れない。いくらアラムのいう事とは言え、最近は牧畜の方が上手くいっているのも事実なのだ。バジー派は今度もいつものように煙がおさまって、そして更に来年には村の拡大を目指すと人々に吹聴して回っている始末だ。

 

私たち一家はもうずいぶんと前から荷造りを初めていたが、近所のマキン一家を見る限り、彼らはこのままここに残ってやり過ごそうとしているらしい。子供もまだ小さいから、仕方のない選択なのかもしれない。あの山の反対側へ行くのは危険を伴う長旅になる。しかし、歴史は事実を語っている。そして、我々は事実を頼りに、親しんだ生活を捨てる覚悟を迫られているのだ。

 

 四十二日目

 

ミリスに頼まれていた用事を済ませた後、外を少し歩いた。牧場に集まった人々が子牛が立ち上がるのを楽しそうに見ている。彼らはこの灰の臭いにすっかり慣れてしまったようだった。私もこの日記を書き始めた頃に比べると、ずいぶん気にならなくなったことには気が付いていた。それでもそれは、決してあの黒々としたものが、明朝の不気味な揺れが無くなったということではない。

 

相変わらず浜辺では物好きな連中が大型の船を組んでいる。沖の方まで出て漁をするためにあんなものを作っているんだと言っていたが、彼らは村が分断するかもしれない、こんな時でもこうして趣味に興じているのだ。決して悪人ではないのだが、かと言って村の行く末を憂う事も決して無い、社会性の無い者たちである。恐らくは彼らもここへ残るつもりだろう。あれだけ船に入れ込んでいるのだから、それを捨てて山の反対へ行くわけもあるまい。

 

さて、そろそろ集会の時間だ。今日あたり、何かしら重要な決定があるかも知れない。山を見る限り、もう我々にそう猶予は残っていないだろうからな。


 四十三日目

 

ほら見ろ、私の言った通りになったではないか。アラムはバジーを規律を乱すだけの危険人物などと呼び、バジーは薄ら笑いを浮かべて、アラムを迷信に取り付かれた男と批判したのだ。

 

不快な熱気に籠った集会は予想通り大荒れして、結局最後にはまとまりが付かずに、村人たちはくっきりとアラム派とバジー派に二分されてしまった。こうなってはもう一緒に一つの場所で生活を共にすることはできまい。名残惜しいが、我々も新しい住処を目指さなければならない。確かに、言い伝えの詳細は伏せられている。けれども、私はあのアラムの人柄に賭けている。彼がそこまで信じる何

かしらの理由があるはずだと。

 

そういえば、村が二分されたと言っても、それは全員が完全に二つに別れたというわけでもない。あの浜辺で船を組んでいた連中は、アラム派ではないのは明らかだったのだけれども、だからといってバジー派であるとも決して言えないのだ。つまりは私が一番嫌いな都合のいい方に簡単になびく奴らという、もう一つの集まりがこんな時になって、突然に残りかすのような形で現れたということだ。

 

私たちが結婚したてのころ、ちょうどこんなことがあった。近所の皆で牛舎をひっくり返して掃除した時だったが、藁の下から何かしらの獣の死骸が出てきてちょっとした騒ぎになったのだ。それがどうしてそんなところで死んでいたのか、それどころか酷く腐っていて何の獣かすら誰にも分らなかったのだけれども、とにかく、私にとってこれはちょうどその時の情景と同じ毛色をした気色の悪さに感じられるのだ。

 

基本的な規則にあるように、村の誰もが自分の立場を明らかにしているものだと思っていたら、知らないうちに理解しがたい奇天烈な思想を隠し持った集まりが潜んでいたということで、その集まりが何を企んでいるのか分からないという状況は何時でも人々の不安を掻き立てる。それも山があんなことになっているなら尚更だろう。

 

とは言っても、新たな考え方が生まれること自体は、どの様な規則を作ったとしても止めることは出来ないのではないだろうか。結局のところ、これは好き嫌いの問題なのだから。それでも私は社会的役割を果たさないあの手の連中はどうも好きになれそうにない。

 

もう少し散歩してから戻ろう。この時間ならもう誰も浜辺に残ってはいないはずだ。





欠損および劣化の為、C7~D2解読不可。



 四十七日目

もうここに戻ることは無いかもしれない。ミリスの支度が整うのを待っている間に、三回も揺れがきた。この状況でここに残る人々については、自分たちで選んだこととはいえ、一方では彼らを少し気の毒にも思う。

 

あの若いマキンの一家とは良い付き合いだったから、本当に心配だ。さっきうちの農具を持って行った時も、まだ迷っている様子だった。私は彼らが心変わりして一緒にここを離れることを望むが、それでもこればかりは本人たち次第なのだ。

 

アラムによると、年寄りのために少しでも足場の良い所を抜けて行くということだった。それはあの船がある浜辺のそばを通って森に入っていく小道の事を言っているのだろうと思う。大勢が長い列を作ってそばを通って行こうが何をしようが、あの連中が少しの関心も示さないだろうことは容易に想像がつく。全く信じられん奴らだよ。

 

ようやくミリスが呼びに来た。いよいよ村とも最後のお別れだ。ミリスは少し泣いていたようだった。これは別れであると同時に、新しい生活の始まりでもあるはずなのだ。そうだ。これには喜ばしいこともたくさんある。例えば、バジーやらヘンテコな連中やらと離れてもう一度一から村をやり直すいい機会とも言えるのだから。


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