無貌譚

一田和樹

第1話 母の種

 酒屋のおやじが、いつものお礼にと母の種をくれた。帰りがけに植木鉢を買って、縁側に置いて種を埋めた。毎日、水をやっていると芽が出て、蒸し暑くなる頃には薄紅色の蕾がついた。もうすぐだな、と暦で夏祭りを確認した翌朝、目覚めると母が朝餉を用意していた。

 見たことはなかったが、母なのだとわかる。浴衣姿でおよそ家事をする雰囲気はないのだが、こまめに料理を作り、掃除もしてくれた。母というのは、こういうものだったのかもしれない、と思いながら母の姿をながめていた。

 翌日、母のゆでてくれた素麺を食べていると、「明日は夏祭りね」と言った。私はうなずき、「一緒に行こう」と誘った。母は、うれしそうに微笑んだ。

 翌日の夕方、夏祭りに出かけた母は、縁日の夜店ではしゃいでいた。そのうち金魚すくいを始めたが、何度やっても一匹もすくえず、ため息をついた。私が代わりにやると、すぐに数匹すくえた。

「うまいじゃない」

 母はビニール袋に収まった金魚をじっと見つめる。私は、「母さんが下手なんだよ」と言って笑い、ふたりでならんで歩いた。やがて、大きな音とともに空に花火が満開となる。その場の全員が天を見上げて、声を上げる。

「すごいわね」

「きれいね」

 と母は繰り返し、きらきら光る瞳で空を見上げていた。


 花火が終わると、とたんにさみしくなった。母は、「帰りましょう」と歩き出し、私もその後についていった。

 家に着くと、母はそそくさと玄関から中に入り、私はあわててその後に続いた。

 部屋の中に母の姿はなく、しぼんだ薄紅色の花が落ちていた。その傍らに落ちていた金魚を入れたビニール袋を拾ってボウルに金魚を移した。ビニール袋からこぼれた水をふきながら、夏の終わりと死について思いをはせた。


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