第2話 南の国で
車窓の向こう側に、田舎の風景が流れていく。太陽が見えないため、昼間だというのに薄暗い。目の前に広がるのは全て田んぼだ。それだけをみれば日本の田舎とあまり変わらないけども、ポツポツと建つあばら屋は日本の家とは明らかに違っていた。
外を元気に駆け回る子供達の顔立ちは日本人と似ているけども、肌は浅黒かった。日焼けとは違う地の黒さがそこにある。
会社で一週間の休みを取った僕はカンボジアに旅行に来ていた。
日本からシンガポールを経由して、カンボジアの首都プノンペンに到着したのは昨日の深夜だった。予約していた宿で一泊して、今日は長距離バスでシュリムアップまで走っている途中だ。もっと早い移動手段もあるけども、少し考え事をしたかったボクは狭苦しいバスの旅を選択した。
二ヶ月前のこと。
一年同棲していた彼女が何も言わずに出て行った。そろそろ、結婚するのも良いかもしれないと考えていた時期のことだ。同棲は一年だけど、付き合い始めてから三年は経過していた。ボクはすでに三十三になるし、会社でも中堅どころとして堅実に仕事をしていた。給料は決して多いとはいえないけれども、家族を養うこともできるという自信もあった。
会社から帰ってきたボクがダイニングテーブルの上に見つけた手紙には、走り書きのように「さようなら」と一言だけ。理由も分からず呆然と立ち尽くしていた。あわてて電話を掛けても、彼女へ一向に繋がらず、SNSのメッセージも既読になることはなかった。
せめて理由が知りたかった。
彼女の勤め先に行き、待ち伏せをしたこともある。でも、彼女が姿を現すことは無かった。共通の友人を幾つかあたり、ようやく手に入れたのがカンボジアにいるという情報だった。休みを取り、飛行機に飛び乗った。
この先に彼女がいる。
ボクは流れる景色を見ながらずっと考えていた。なぜ出て行ったのだろう。なぜ何も言わなかったのだろう。なぜカンボジアなのだろう。いつから彼女はボクとの別れを考えていたのだろうか。考えても、考えても、何も分からなかった。分からないということが問題なのかもしれないと思った。
バスに乗っているのは、ほとんどが地元の人で外国人はボクを含めて三人しかいなかった。ボクの隣にはふくよかなおばちゃんが腰掛けて、足をがんと開いていた。おばちゃんにお淑やかさを求めても無駄かもしれないけども、少なくとももう少し足を閉じてくれないとボクが窮屈なんだけど、と心の中でため息をついた。
さきほどからザアザアと雨が激しく窓を叩いていた。カンボジアは雨季に入っていたので、時々こうしてバケツをひっくり返したような大量の水が天から落ちてきた。窓の外の景色を見れなくなると、自然と車内へと視線が動く。乗車率は120%。東南アジアのバスではありがちで、座席の数以上の乗客が乗り込んでいる。通路には荷物と乗客が無理矢理に押し込められている。
雨が降っている所為で、窓も開けられないため人々の蒸気でムシムシとしている。少し高いお金を払えば、同じバスでももう少し快適なものもあるけども、ボクは節約のためにも安価なバスに乗車していた。彼女がアンコールワットのあるシェムリアップにいるとは聞いたけれども、それ以上の情報は無かった。
会社からもらえた休暇は土日を含めて9日間。
物価の安いカンボジアならどれだけ派手にお金を使ったところで、貯金がそこを突くとは思えないけども…。こういうケチ臭い考えが彼女は嫌だったのだろうか。
バスが大きくカーブを描き、緩やかに停車した。朝の9時ごろに出発してからすでに三時間。ちょうどお昼時である。バスの運転手が立ち上がり、何事かしゃべっているけども全く聞き取れない。下りていく人たちについてバスを降りる。風が体を通り抜け、汗ばんだ身体から一気に熱を奪っていく。外の気温も30度を超えているけども、バスの車内と比較すれば涼しく感じてしまうから驚きだ。
腕を伸ばして、大きく息を吸う。屈伸して身体を左右にひねって凝り固まった身体を一つずつ柔らかくしていく。人々の後を付いていくと、悪臭漂うトイレがあったので、念のために用を足しておく。まだ4~5時間は掛かる予定である。人々の動きを見ていると、トイレ休憩だけでなく昼食も兼ねているらしい。簡易的なプラスチック製のテーブルと椅子の並べられた安食堂は惣菜屋のような様相を呈していた。小腹も空いていたので、何かを口に入れていこうと他の人の真似をしながら注文をする。ショーケース越しに指をさして、米とチキンが盛り付けられる。瓶のコーラを頼んで、適当なテーブルに腰を落ち着けた。
恐る恐る口を付けてみると、チキンはカレー風味に味付けされていてまあまあ食べれるレベルのものだった。コーラは残念ながら常温で美味しくなかったけれども、流れ出た汗を考えると水分補給も必要だろう。
三年ほどの付き合いの中で、二人で海外に行ったことは一度も無かった。国内旅行は何度かある。しかし、彼女が海外に興味があるという話を聞いたことは無い…無かったと思う。こんなふうに離れられてしまうと、彼女のことをどれだけ理解していたのか自信がなくなっていく。
三年である。
決して短い時間ではなかったと思う。彼女のご両親にあったこともあるし、彼女の中学生の頃からの親友のことも知っている。彼女はお寿司が好きで、なかでもサーモンには目がない。寿司の中では安いネタを好むことから、「私って安い女でしょ」なんて持ちネタのように言っていた。彼女は料理が得意で、休みの日はレストランで出てくるような料理に挑むことが多々あった。それらはとても美味しくて、将来は小さくても良いからお店を持つのが夢だと言っていた。
彼女との思い出に浸っていると、バスのクラクションが二回鳴らされた。周囲を見るといつの間にか人がほとんどいなくなっていたので、あわててバスに駆け込んだ。人々の隙間を抜けて、おばちゃんの横に無理矢理体を滑り込ませる。いつの間にか雨が止んでいたので、窓を開けて少しでも涼しい風が入るようにする。
窓から見える景色はほとんど変わらない。首都のプノンペンですら、高層ビルは全くないため田舎町との違いはさほどない。もちろん、田んぼが広がるか背の低い建物があるかの違いはあるけども、どこを走っていても同じようなものだった。どちらにしても僕の目には何も映っていなかった。
彼女がいなくなる前のことを思い出す。
あれは一ヶ月くらい前だった。彼女と近くのラーメン屋に行ったときのことだ。3ヶ月くらい前からラーメン屋を巡っていたボク達は、昼間のデートでは大抵ラーメン屋に入ることにしていた。何の変哲もない素朴な感じのラーメン屋だった。今風の味でもなんでもない。店の作りも昭和を感じさせるようなレトロな感じ。
わざとレトロなわけではない。本当に古ぼけたお店なのだ。
でも、汚れているわけではない。テーブルもイスも古いながらもキレイに使われていた。
店主の愛情の感じられるお店だった。
味は良く覚えていない。
たぶん、普通だったと思う。最近のラーメン屋にありがちな気を衒ったようなものではなく、昔からある普通のしょうゆラーメン。なんとなく懐かしさを感じさせるラーメンで、特別また食べたいと思うわけではないが、ふとした時に食べてみようかと思えるような味だった。
でも、店を出た後の彼女は、そのお店の味をボクのようだといった。
どういう意味かと聞いたけど、彼女は薄く微笑むだけだった。そのときは深く考えなかったけども、あれにも何か意味があったのだろうか。彼女はボクに飽きたのだろうか。ボクには特別を感じない。でも、時々は会いたいというようなそんな関係。やっぱり良く分からない。
考え事に没頭していると、いつの間にか眠っていたらしい。
隣のおばさんに肩を揺すられて気がつくと、日が沈みかけていた。オレンジ色に染まる空に、それが反射して輝く水田。思わず息を飲むほどの光景に見とれていると、おばさんが何事かを口にした。振り返ると、車内からどんどん人が降りていた。到着したのだろうか。
良く見ると他にも数台のバスがとまり、自転車タクシーと呼ばれるものがずらりと並んでいた。
降車する乗客について、バスを降りると客引きがたくさん声をかけてくる。「タクシー」「タクシー」「ホテル」「ホテル」と左右の耳に飛び込んでくるのは簡単な英単語。ホテルは予約していたので、その中の一人に声をかけてホテルまでの足にする。
ろくすっぽ情報を集めずにカンボジアにやってきたので、ぼったくられているかも分からない。でも、日本円に換算しても大した金額ではないのでいいだろう。アスファルト舗装されていない道を自転車タクシーは走り抜ける。シェリムアップの街はそれほど大きくはないので、自転車タクシーで十分なのだろう。ときどき道のくぼみで車体が跳ねるけれども、おおむね快適な乗り心地だ。
夕方になり少し気温が下がってきたのもあるのだろう。
自転車なので景色はゆっくりと流れていくし、頬を撫でる空気もやさしげだ。街を歩くのは欧米人が多いらしい。たくさんの観光客を集めている美味しそうな匂いを漂わせる屋台からみえる提灯の明かり。バイクや車も多いけど、ボクが乗るような自転車タクシーもたくさん走っている。不思議な光景である。
タクシーはいつのまにかホテルに到着した。
バス停から10分も走っていないだろう。お金を払って宿に足を踏み入れる。片言の英語で受付を済ませて、ホテルに入る。こういう風なドミトリールームに泊まるのは大学生の頃以来だ。10畳ほどのスペースに二段ベッドが3つ。全部で六人部屋ということだろう。虫除けの蚊帳がかけられているのが、この国らしい。
開いているベッドに荷物を置いて夕食を食べに外に出る。
バスに揺られていただけなのでそれほどお腹は空いていない。ホテルの周辺を歩きながら、屋台や食堂を覗いて軽く食べれそうなところを探していく。
肉や魚を使った料理がいろいろと並んでいる。
近くの国、ベトナムやタイといった国は行ったことがあるが、どうにも雰囲気が違う。
パクチーのような香草もなければ、刺激的な香辛料も使われていないらしい。変わったところで言えば、ワニやヘビの焼肉屋のようなものもある。
昼間の蒸し暑い中、汗をたっぷりかいていたし、空腹も僅かなのであっさりした麺でもいいかなと小さな食堂に入った。テーブルが6つほどの小さな食堂だ。観光客用に写真つきのメニューが外から見えたのだ。クイティウという米粉の麺のスープ料理である。肉団子も入っているけども、器も小さめで小腹を満たすのにちょうどよさそうである。
スープはあっさりしていて美味しい。
その上、付け合せで付いてきたライムを搾りいれると、さわやかな風味に味変する。熱々のスープだけども、蒸し暑い日にはちょうどよかった。食べているうちにもう少し食い気が出てきたので、追加でビールと何かの串焼肉を二本にもやしの炒め物っぽいもの。
汗をかいた体にビールが染み込んでいく。
串焼肉は普通に鶏肉だったようで、甘辛タレがちょうどいい。もやしの炒め物はピリ辛で、これもビールが進んだ。
いつの間にか日が暮れて、とっぷりと闇の帳が下りている。店に入ったときには閑散としていた店内も気がついたらテーブルは一つを残して埋まっていた。とても味のいいお店だったので、そのうち最後の一席も埋まってしまいそうだ。そうなると、一人でテーブルを独占しているのも悪い気がしてくる。
相変わらずの小市民っぷりだなと、一人嘆息してグラスのビールを飲み干した。瓶からグラスに移し変えて空になるのを確認する。追加を注文するかどうしようかと悩みつつ、串焼肉を一欠けら口に入れた。
うん、うまい。
やっぱり、あと一本ないと足りないかなと、追加のビールを注文しつつ、残りを飲み干した。
入り口で外国人観光客らしい数人が店内を覗き込んでいるようで、英語らしい話し声が聞こえてくる。お店に入るか悩んでいるのだろうか。
新しく運ばれてきたビールに口をつけていると、話し合いが済んだのだろう、観光客達がお店に入ってきた。そのとき、ふっとジャパニーズって声が聞こえた気がして、新しく入ってきたお客に目を向けた。
「え?」
「…」
ボクを見て、一人のショートカットの女性が目を瞬いた。思わず手にしていたビール瓶を落としそうになるのを堪えてテーブルに置くと、がたんと音を立てて立ち上がった。
まさか、到着早々再会できるとは思わなかった。
あったら何を語ろうかと考えていたけど、まだ答はでていなかった。
「何でここにいるの?」
「…」
ビックリしすぎて何も出てこない。
「ビックリしたなぁ。もう」
「…」
なんと言えばいいのだろう。ここに来るまで、タクシーの中でも、電車の中でも、飛行機の中でも、バスの中でも、ずっとずっと考えていたけども、やっぱりわからない。記憶の中の彼女と違ってショートヘアになっていたり、外国人いっしょにいるけど、友達なんだろうかとか、英語がしゃべれたんだとか、なんでカンボジアなのかとか、なんで何も言わずにいなくなったのかとか、いつから考えていたのかとか、いろいろ考えて考えて考えて。
「…ひさしぶり」
ようやく出てきたのは、そんな間の抜けた言葉だった。
「うん。ひさしぶりだね」
彼女が記憶のままの笑顔でボクにそう答えた。
突然居なくなったことなど、なかった事のように彼女は姿を消す前と何一つ変わっていなかった。言いたいこと聞きたいことは無数にあったけども、それら全てがどうでもよくなった。なぜかホッとしていた。彼女が変わっていないことが分かって安心している自分に驚きながらも、憑き物が落ちたようにストンと胸のつかえが取れていた。
彼女が居なくなった理由が分かったわけではない。
これで、もう一度やり直せると思ったわけではない。
でも、少なくとも前に進めそうだとそれが分かった。
それで、十分だった。
突然の再会に驚きつつも、 残りのつまみを手早くお腹にいれると、友人達と一緒に食事をしていている彼女にボクは「またね」と軽い挨拶をしてその場を後にした。
彼女を追いかけてきたことなど何も言わず、ただの偶然だというように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます