七章 頬伝う 冷たきものを 拭う指 震え止まらぬ 声も体も その3
「……水香は」
俺は乾いた喉に唾を流し込み、続けた。
「水香は、何が目的なんだ?」
「わたくしの目的ですか? うふふ、いたってシンプルですのよ」
水香は閉じられた扇子で月を差して述べた。
「全ての忌まわしき罪をわたくしのいる世界から排除する。それが至上目的ですわ」
「罪の……排除?」
「ええ、そうですわ」
扇子が開き、花弁のようにひらりひらりと宙を踊る。……違う。水香がそう見せるよう舞っているのだ。
彼女の一挙手一投足が、景色に新たな意味を与え始める。
これは卓越した実力を持つ舞踊家の動きだ。本当に優れた舞は、見る者の精神を一時的に現実から切り離し、演者の創る架空の時空へ導いていく。
洗練されたしなやかな所作を眺めている内に周囲の空気が歪みだし、現実の光景が描き換えられていく。
いつのまにか楓だったはずの木々に、薄い色の桜が咲き誇っていた。
薄い色の花弁が枝から降り、蝶のように宙をゆったりと舞う。一枚、また一枚と。
馥郁とした春の甘く優しい香りさえ漂っているような気がした。いや、本当にそんな匂いがする。もしかしたら水香の付けている化粧品が発しているのかもしれない。いずれにせよその香気は気持ちを安らかにさせる、不思議な効力があった。
地べたに置かれた、たった一つの提灯が投げかける儚げな明かりが、彼女の演舞をより一層幻想的なものとして俺の目に魅せた。
舞いながらも水香は言った。
――この手で、世界に安寧を取り戻すんですの。
――警察に通報すれば、それが達成できるってのか?
――少なくとも、治安維持委員会の活動を真面目にやるよりも効果があると思いますわ。
扇子が閉じられる音が響き、舞が終わる。途端に周囲の光景が元に戻り、桜の花弁はどこにも見当たらなくなっていた。
「さあ、休憩は終わりです。残りの塔婆も、心を込めて子猫に捧げましょう」
地面に置いていた塔婆を持ち、水香は墓地の方へ歩いていく。
俺も塔婆を抱え、自分の持ち場へ戻った。
最初の頃は突き立て方が分からず手探りだったが、コツをつかんでからは順調に作業を進めることができた。
次々と小さな墓地の裏に、異様に背の高い塔婆が並んでいく。
悪天の中でも倒れぬよう、できるだけ深く刺し込む。別にこういうことを予期していたわけではないが、なるべく高い位置に戒名などの書は記しておいたから、多少下部が隠れても問題はない。
水香と半々でやっていたため、思ったより早く終わりそうだった。
最後の塔婆はシロという猫のものだった。その戒名から、俺は昼に見た白猫の無残な死骸を思い出した。もしかしたら本当に、あの猫のものかもしれない。
俺はやり切れない思いになりつつ、その一本を今まで以上の悔やみの気持ちを込めて地面に突き立てる。
いつの間にか汗をかいていたのか、頬から落ちた汗が地面を濡らした。
……視界がぼんやり霞んでいる。目に涙が入ったか? いや、それなら沁みて分かるはずだが……。
目を服の袖で拭って、再び地面に向き合った。
できるだけ深くまで入れ、土を根元に被せて念入りに固定。
これで多少の雨風なら凌ぐことができるはずだ。
口から時化た息が漏れた。今日一日で色々あったうえに、最後が墓地でのこれだ。精神的に参ってしまったのだろう。
こんな日はさっさと家に帰って、入浴剤を入れたぬるめの風呂に浸かってさっぱりしてから寝るに限る。
「おい水香、終わったぞ」
「お疲れ様ですわ」
すごく近くから声が聞こえた。
多分、手を伸ばせば触れられるぐらいの距離から。作業に集中していたせいで足音に気付かなかったのだろう。
振り返ろうとしたその時、唐突に本能が叫んだ。
――マズイ、避けろ!
遅れて空気が肌をチクリと刺した。この感じには覚えがある。さっき弥流先生に差されそうになった時と同じ。
命を狙う者の、明確な殺意。
そう意識するよりも早く、体が勝手に動いていた。
身を捻り、体制を横に崩す。障害物のない方へ移動。とにかく大きく横へずれて、予想される脅威から一歩でも遠くに離れる。
回避を終えた直後、寸前までいた場所を銀色の煌めきが奔(はし)った。半月を描くように。
提灯に浮かび上がったそれは人を殺すためだけに作られた、明らかな凶器。
鋭い刃を持ち、人の体を切り裂くことに最適化された、日ノ本古来の武器。
かつては戦の主戦力となり、幾千幾万と人々の血を吸いつくした鋼の死神。
それを水香は構え、俺の喉元を狙うように切先を突きつけてきた。
「よく躱しましたわね。さすがですわ」
「……なあ、水香。銃刀法って知ってるか?」
「知っていようが知っていまいが、目前の事実は変わりませんわよ、灯字さま」
「まあ……そうだな」
見るからに法律に違反している材質、刃渡り。おまけに刃もぬかりなく研がれており、人肉を食らうのを今か今かと待ちわびている。
日本刀だ。水香はその手に、日本刀を持っていた。
足元に何かがこつんと当たった。後ずさりながらちらりと見やると、それは塔婆の上部だった。シロの名前が書かれていることから、俺が最後に立てたものだと分かる。
それはすっぱりと斜めに斬られていた。斬り口は滑らかで、断面も真っ直ぐだ。
つまりあの刀は正真正銘の本物で、斬れ味も抜群。
かてて加えて、俺を殺すことに一切の躊躇がないということだ……。
「灯字さまは本当に冷静沈着なお方ですね」
「……どうしてだ?」
「どうして、とは?」
俺は声を荒げて訊いた。
「お前ッ、自分が何をしてるのか分かってるのか!? 人をっ……、人を殺そうとしたんだぞ!?」
「『殺そうとした』? それは正しくありませんわ」
水香は滑らかな動作で一歩踏み込んでくる。
「あなたさまを、殺そうとしているのです」
刀の迫る間際で、これは前進しながらの突きだと気付く。
俺は寸でで大きく後ろに跳んで何とかそれを躱す。鋭い一突きが喉のあった部分を貫いた。
素人の動きじゃない。これは普段から真剣を扱っている者のみが行える技だ。
時代が移りゆくにつれて、あらゆる武道の目的が実践から自己鍛錬、あるいは演武やスポーツに変わった。
その影響で他の何よりも大きく変化を遂げたのが、剣だ。
人を斬るというもっとも殺生に近しい意図を持って生み出されたその技は、殺人を忌避される時代になるとその真価を瞬く間に失った。
剣道を少しでもかじった者ならば分かるだろうが、あれは心構えから型まで何もかもスポーツに最適化されており、真剣を想定したものではなくなっている。無論、剣道の技でも相手を傷つける目的は達せられるが、かつて剣豪等が生死を占う戦場で磨き上げた剣術にはあらゆる面で劣っていると言わざるを得ないだろう。
だが現代においても、剣の技を限りなく原形のまま留めている武道が存在する。
それが抜刀道と居合道だ。
抜刀道は日本刀を使って斬ることそのものを技とした武道であるし、居合道も真剣での実践を意識した型を多く取り入れている。
水香の動きは人を殺すことに最適化されており、剣道よりは後者の二つに近い。一撃一撃に気迫はないが、『打つ』のではなく『斬る』という確かな意思を感じる。
とにかく何か対抗する手段が欲しくて、俺は超魂能力を発動した。
「心に灯れ俺の魂。
青き燐光を伴い、頭上から太い筆が現れる。さらに超魂能力が発動したことによって身体能力も強化されたはずだ。
「……抵抗なさいますか」
「当たり前だ。ワケ分からないまま死ぬなんて、まっぴらごめんだ」
「理由ですか。それなら、もうご理解いただけているかと思いましたが」
水香は正眼の構えから僅かに刀を上げ、言った。
「灯字さまを殺し、わたくしも後を追う。二人で共に、この忌まわしい世界から楽園へと旅立つのです」
俺は筆をやや右斜めに構えた。
「……バカげてる」
「辞世の句はそれでよろしいですか?」
「いいや。辞世の句は直筆って決めてるんだ」
「残念ですけれど、もう待てませんの」
刀が上段へ振り上げられる。さっきまで目で追うことさえ難しかったそれが、今ははっきりと見える。
「お命、頂戴いたしますわ!」
左上から首に向かって刀が振るわれる。その一太刀を筆を回転させ、余るように持っていた柄で防ぐ。激突の衝撃で火花が発生し、熱を持った白い光が四方八方に散った。
水香が態勢を立て直す前に、俺は反撃に出た。
刀を弾き、そのままの姿勢で穂先を地面につける。そして廃ビルで弥流先生にしたように水香の足を墨の軌跡で絡めとろうとする。しかしどのように察知したのか、水香は横に跳んでそれをやすやすと躱した。
「……足に目でもついてるのか?」
「空気の流れを感じたのです。舞の基本ですわ」
言い終えるなり、水香が地を蹴り風を切った。
一閃、再びの一刀か。しかし太刀筋が目で追えない……。さらに水香の動きが早くなったとでもいうのか!?
俺は勘で筆を振るい、どうにかその一太刀を止める。水香が意外そうに目を丸めた。
「あら……。灯字さまもおやりになりますね」
「書っていうのは、言うなれば直感の連続だからな。正解が目に見えないのは日常茶飯事なんだよ!」
鍔迫り合いを切り上げ、間合いを取る。その僅かな隙に宙に輪を書き、相手の両手の拘束を試みる。だがそれも瞬時に斬り裂かれる。
身体能力はおそらく今は五分五分なのだ。しかし俺の目だけは水香の動きについていけてない。クソッ、どうすりゃいいってんだ……!?
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