六章 愛なんて なければいいと 思うのに 胸の高鳴り 捨てられませぬ その3
俺は筆を杖代わりに立ち上がった。足元を見やると墨汁をたっぷり吸った穂を押し付けたかのように床の一部が黒くなっており、線もその水たまりならぬ墨だまりから生えていた。
美甘が目を見開き、唇を震わせて呟いた。
「そんな、どうして……。灯字ちゃんの精神力と魂力は、わたしの《暗黒弾》で吸いとったはず……」
「残念だったな。書道家は筆を持っている時は、心臓が止まらない限り無敵なんだよ」
舌打ちし、彼女は銃を構える。
「……大人しく、おねんねしていてくださいッ!」
言うなり小さな指がトリガーを引き、弾丸が放たれる。やはり今度も左胸に向かって直進してきた。
確かにそれは小さいうえに凄まじい弾速だが、意識して見ればその動きを追えないことはない。俺は筆を振るい、黒い弾丸を穂先で弾き飛ばした。その軌跡が黒い線となり宙に残る。
「くっ……、それなら!」
今度は狙いを定めず、やたらめったら乱射し数で攻めてきた。
弾丸の群れは額や肩、胸に腹に腿など複数個所を貫こうと襲い掛かってくる。
俺は時には一発ずつ点で叩き落とし、時には複数発を一気に薙ぎ、脅威を払っていく。
やがて十三回の防戦が終わる頃。
「……そんな、何で……」
美甘の手から力が抜け、ピストルが滑り落ちる。
俺の眼前にある線の結晶を目にし、美甘と弥流先生は茫然としていた。
「俺は美甘達と戦う気はない」
筆を下ろし、俺は言った。
「だけど伝えたいことがある。だから拳じゃなくて、筆を振るった」
美甘は宙に浮かぶその一字を、呟くように読んだ。
「……愛」
俺はゆっくりと頷いて語った。
「そうだ、愛だ。今のクソッたれな世界を変えたいっていう思いは確かに立派だ。でもお前達の取った行動……暴力って手段は、明らかに間違っている」
「でもっ……でも!」
美甘は心に詰まっていた思いをぶちまけるかのように怒鳴った。
「毒には毒、暴力には暴力で対抗するしかないんです! わたし達、治安維持委員会じゃ手にを得ないような事件が起きてニュースになれば、国はまた警察に頼らざるを得なくなります。そうすれば現実を直視して、武力によって問題を解決してくれるはずです!」
一気にまくしたてて息切れしてなお、美甘は鋭い視線で俺に固い決意を訴えかけてきた。
その覚悟の強さは、純粋に尊敬に値するものだった。
だからこそ。
「……いいや、美甘。それは間違ってるよ」
俺は首を横に振り、その思いをきっぱりと否定した。
「そんな……どうしてっ!?」
「説明しなくても分かるだろう。あの野球野郎共のことを、お前は忘れたか?」
「……それ、は」
畳みかけるように言葉を継ぐ。
「アイツ等は暴力で事態を解決しようとしてたよな。でもその結果は、ケガ人を出しただけだ」
「だけど世界は戦争で動いてます。暴力こそが、あらゆる物事を解決する、唯一無二の方法です」
「違うッ! 争いは争いしか生まないッ! 人は争うことをやめた時に、初めて前進できるんだ!!」
声を張り上げる俺を嘲笑するように顔を歪め、美甘は言った。
「……その代替案が、愛だって言うんですか?」
「ああ、そうだ。愛で人は成長し、状況が変わる。愛こそが世界を好転させることのできる万能の公式だ」
美甘は冷たい眼差しを俺に向け、言った。
「そんな夢物語、信じられません」
「美甘が信じるかどうかは俺の決めることじゃない。だがそれを実際に成し遂げたヤツを俺は知ってる」
「へえ、誰ですか?」
胴乱に手を突っ込み、あるものを引っ張り出して二人に向かって突きつけた。
俺の手にあるものを目にし、弥流先生が目を丸くした。
「……それ、灯字さんが先生にくれた……」
「ああ、『へにゃちゃん』だ。ドリーム高校で落としたらしいな」
「どういうことですか? まさか、灯字ちゃんが弥流ちゃん先生を愛してるということですか?」
なぜか美甘の視線が今までで一番冷気を持ち、鋭さを増した気がした。見られてるだけで身震いしそうになる。
「そ、そうじゃない。弥流先生が誕生日の朝、美甘を含めてクラスのほぼ全員がプレゼントを用意して渡してただろ?」
「……それがどうかしたんですか?」
「よく考えてほしいんだが、高校の担任教師が普通あんなに大勢から誕生日プレゼントをもらえると思うか?」
「……先生は、ちょっと人間世界のことはよく分からないんだけど……」
弥流先生は戸惑い気味に、ちらりと美甘を見やる。
彼女は仏頂面でそっぽを向いていたが、しばらくしてぼそっと言った。
「まあ、普通ならあり得ないと思います」
「そうだろう? しかも俺達のクラスにはいわゆる仕切り委員長もいない。全体的に緩い空気が漂ってる。なのにみんなそろってプレゼントを用意してるんだぞ。これも弥流先生が今までみんなに愛を以て接してきたからこそじゃないか。だから普通ならあり得ない、あの光景が生まれたんだ」
「……だったら、どうして灯字ちゃんの成績は一向に上がらないんでしょうね?」
ズドッ、心に重く鋭い槍が刺さったような幻聴が聞こえた。
「弥流ちゃん先生が愛を以て授業してくれてるなら、灯字ちゃんも感化されて成績が上がるはずですよね? なのに何で今までと変わらずに、赤点を取ってるんですか?」
「いや、物事には限界ってものが……」
「じゃあ、愛なんて幻想ですね」
その一言に、俺の書いた愛の字が空気に溶け込む霧のように薄くなっていく。
「ちょっ、まっ! いやっ、本当これから勉強頑張るから! 愛力で!」
「愛とか関係なく勉強はしてほしいなって、先生は思うんだけど」
「わっ、分かったから! だからっ、何かこう、もう色々ごめんなさいって感じで!」
慌てふためく俺を見てか、美甘の顔がほころび、くすくすと笑い声が漏れ出した。
「本当にもう、灯字ちゃんってダメダメですよね」
「ダメ二つか……」
「はい。ダメダメダメダメの、ダメダメダメダメダメダメダメダメです」
「いや、多すぎだろ!?」
美甘は肩を竦めて、意地悪気な目をこちらに向けてきた。
「それで、愛は人を変えないってことでいいですか?」
「いや、まあ……時と場合による?」
「微妙な回答ですね……」
「結局、万能な答えなんてないんだよ。……それでも、俺は暴力が嫌いだ」
俺は二人の顔を見やって、心の底からの思いを語った。
「俺達には言葉があり、文字がある。詩がある。歌がある。思いを伝えたり、表現する方法は無数にあるんだ。それなのに誰かを傷つけるような手段を選択するなんて、悲しすぎるじゃないか」
「……ですが、暴力でしか表明できない思いもあるんじゃないですか?」
「そんなことはない。少なくとも暴力は思いを伝える伝達手段としては最悪だ。それは誰かを傷つけ、大切なものを奪い、壊すものでしかない」
俺は窓の外を見やり、言った。
「……まさに今、その真っ最中じゃないか。あんなにもマインが張り切って盛り上げようとしていた学園祭が、滅茶苦茶になっちまったんだから……」
「そう、でしたね……」
美甘の声が重く、沈んだものに変わった。
「……過ぎたことは仕方がない。だけどもう二度と、こんなことはしないでくれ」
俺は筆を持ち上げ、窓の方へと向かう。
「どこへ行くんですか?」
「ドリーム高校だ。美甘を助けたら加勢に行くって、マインと約束したからな」
「……そうですか」
窓際に立ち、筆をバットのように構える。地上ではカラス人間が今もなお群れを成して暴れていた。まあ、アイツ等はおそらく美甘達の部下みたいなもんだろう。彼女達がどうにかしてくれるはずだ。
筆を振ろうとした瞬間、美甘が感情を欠いた声で言った。
「……そういえば、最近はこんなことばかりでしたね」
俺は筆を下ろし、振り向いて美甘の方を見やった。
「こんなこと、っていうのは?」
「灯字ちゃんはマインちゃんとべったりだった気がします」
「べったり……?」
思い返してみたが、別に俺自身には思い当たることはなかった。
美甘はヘソを着物の袖で隠すように手を回して言った。
「……灯字ちゃん。わたしは反省してるんですよ、あなたを無理に治安維持委員会に誘っちゃったことを」
「確か俺の内申を心配したからだろ? 筆ライフが潰れたしあまり認めたくないけど……、これに関してはお前の方が正しいよ」
「わたしが言っているのはそういうことじゃないんですけど……、まあいいです」
彼女は首を竦め、俺に背を向けた。
「……行ってください。わたしはマインちゃんに顔向けできないので、ここで反省しています」
黒いリボンで作られたツーサイドアップ。
その右側に、小さな赤いツツジの髪飾りがあった。
俺はその飾りをしばし眺めた後、視線をビルの外に移し、筆を振るった。
遠い地面に向かって黒い直線が伸びていく。筆で勢いよく書いたような荒々しい線の坂だ。
飛び出した俺は、坂を転げるように駆け下りていく。
後ろを振り返ると、美甘が窓際でぼんやりとした目をこちらに向けていた。
俺の視線に気付くと彼女は踵を返し、部屋の奥へ戻っていった。
視線を前に戻し、コンクリートの大地目掛けてもうよそ見をせず、墨香る下り坂を突っ走った。
○
日が傾き始めていた。
俺と久遠先輩はドリーム高校を目指してひた走っていた。
ふいにどっ、と重たい音が背後から聞こえる。
「はっ、はぁ、はぁ……」
久遠先輩が地面に膝をついてへばっていた。顔は真っ赤になって大粒の汗でぐっしょり濡れており、さっきから絶えず浅い呼吸を繰り返している。
「……久遠先輩、今日はもう帰った方がいい」
「こっ、これぐらい……平気だってーの」
「いや、見るからにバテバテだろう。その状態で付いてこられてもこっちが困る」
「ハッ、……灯字っちのクセに、生意気言うじゃん」
立ち上がろうとしている久遠先輩の脚は震えており、とてもじゃないが満足に走れる状態だとは思えない。
案の定、歩き出してすぐに力尽きてまた地面に座り込んでしまった。
彼女は舌打ちし、拳を振り下ろして地面をぶん殴った。思わず耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響く。
「情けねーなぁ……後輩に世話かけて、足引っ張って……」
「いや、そんなことない。久遠先輩がいなかったら、まだカラス人間の前で立ち往生してたよ。俺一人じゃきっと、何もできなかった」
「……それだって、美甘っちに踊らされてただけだろ? もっとウチが、あの子のことをちゃんと見ていてやれば、こんなことにはならなかったのに……」
久遠先輩は完全に負のスパイラルに陥っていた。
きっと今何を言っても、彼女の耳には届かない。
だから俺は筆を持ち上げ、宙に字を書した。
一画一画、思いを乗せて線を書く。
最後の線を入ってすぐ力を込めて止めて抜き、その一字が宙に刻まれる。
「……久遠先輩、これを見てくれ」
久遠先輩はのっそりと、力なく顔を持ち上げた。
字を見た彼女の目はぼんやりしていた。視界に広がっている光景の理解を放棄しているみたいだったが、やがて彼女の瞳から糸が垂れるように、透明な雫が流れた。
「久遠先輩、これが俺の思いだ」
「……ウチのことを? 嘘っしょ……」
「いや、嘘じゃない。これが俺の本心だ」
その字に手を乗せ、俺は言った。
「俺は久遠先輩のことを慕っている。心の底から、先輩としていつだって尊敬してるし、頼りにしてるよ」
「……だったらさ」
涙を流しつつも笑い、彼女は言った。
「敬語使えっての」
「久遠先輩が初対面の時にタメでいいって言ったんじゃなかったか?」
「そうだったけか……。マジ記憶にないわ」
久遠先輩はふらつきながらも、今度は地から膝を離して立ち上がった。俺に背を向けた彼女は、ひらりと風に吹かれた一輪の花のように手を振って言った。
「やっぱり今日は帰るわ。チョー疲れたし」
「一人で大丈夫か?」
「たりめーだろ……っと」
歩き出してすぐ、久遠先輩の体勢が崩れる。
彼女は倒れる寸でで壁に手を突き、肩越しに振り返って言った。
「ウチに構ってないで、次のステージに行けよ。芸術家ってのは、同業者よりもファンを大事にするもんだぜ」
俺は駆け寄りかけた脚を止め、伸ばした手を下ろした。
そして自身の筆を見下ろし、久遠先輩とは反対の方へと走り出した。
角を曲がったところで彼女の「それでいい」という言葉が聞こえた気がした。
振り返り、電柱に取り付けられたカーブミラーを見やった。
もう久遠先輩の姿はそこにはなかった。
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