一章 墨香る 君の姿に 恋しがれ 仰ぐ空にも 想い馳せゆく その2
「詩一編で心変わりするわけないだろ……」
「そんなことありませんわ。灯字さまの書が人の心を打つように、詩にだって思いに訴えかける力があるはずです」
「ふむ。ということは、水香の詩を俺が書けば、二乗の力を持つ作品が生まれるわけか」
水香の顔が朝露に濡れた葉のように輝く。
「それ、素敵ですわ」
「そうか?」
「はい。わたくしの詩が、灯字さまの書によって力強く美しく生まれ変わる。これほど素晴らしいことがあるでしょうか」
ああ神よとでも言いそうな格好で語る水香。
ちょっと漏れ出た笑いを引っ込め、俺は言った。
「構わないが、さっきの詩はなしな」
「ええ!? どうしてですの!?」
「自分が題材の詩を書くのはなんかイヤだ」
「ぷぅ。灯字さまのいじわる」
「それを書かせようと思うお前も大概だと思うがな……」
軽く溜息を吐いて水香は言った。
「仕方ありません。さっきの詩はスマホの中に眠らせておきましょう」
「勝手にしてくれ」
「はい。勝手にいたします」
スマホを操作しつつ、るんるんなんて聞こえてきそうな弾んだ声で彼女は言った。
「詩って本当に素敵ですわ」
「ほう、どんなところが?」
「誰もがいつでもすぐに創って詠うことができるところがです。そこには面倒なしがらみなんてなくて、ただ自由だけがある。練習もいらない、努力もしなくていい。道具を用意する必要すらない。ただ好きに言葉を並べるだけで、簡単にできてしまう。万人に対して寛容で、優しく、包容力のある芸術。それが詩なのです」
俺は矢立に置かれた筆を見やった。
「確かに、書道を始めるには少しばかりハードルがあるかもしれないな」
「でも書道には書道の良さがありますわ。わたくしは嗜んではおりませんけど……」
「そうなのか? お嬢様って、習い事で書道とかやってそうだと思ったんだが」
「舞や居合道は教えを受けているのですが……、申し訳ありません」
なぜか水香はしゅんと落ち込んでしまう。
罪悪感からどうにか慰めようと、俺は慌てて言葉をかけた。
「いや、別に悪いってわけじゃない。確かに俺にとって書道が生きがいだが、好みは十人十色、人それぞれだ。誰が何を好きで何をやろうと、その個人の自由だ。そうだろ?」
「……分かってはいるのですが、それでも心の痛みが……」
そう訴え、水香は胸に手を重ねた。
「心の……痛み?」
「はい。寒さでしもやけができてしまった時のような感じです。じくじくします」
ぱっと見たところ、確かに水香は奥歯の痛みをこらえているような、辛そうな表情をしていた。
「ど、どうすればその痛みは治まるんだ?」
キラン。彼女の目が怪しく光ったような気がした。
「灯字さまが博愛女学園の学園祭に来てくれると約束してくださったら、たちまち完治いたしますわ」
「それは断る」
我ながら驚異の即答だった。
「そ、そうきっぱり断られると、本当に胸が痛みます」
胸を押さえ、うずくまる水香。その拍子に白い髪が鼻先で揺れ、ふわりと甘ったるい匂いが漂ってきた。
ふと頭の中にある情景が浮かび上がってきた。
「……お前の髪、夏祭りの綿あめの匂いがするぞ」
「綿あめじゃないです。コットンキャンディのヘアフレグランスです」
「どっちにしろ砂糖だろ。おまけに髪は白いし、綿あめだとしか思えないんだよ」
「そうですか。じゃあ……」
水香は右手で髪を一房すくい、俺の鼻先で振ってみせる。綿あめアロマがふんわか鼻の中に広がる。
「食べちゃいますか?」
白く丸みを帯びた顔にすっと影が落ち、細まった黄色い瞳が怪しい光を放ちだす。左手がそっと膝に乗せられ、服の上からゆっくりと擦ってくる。軽やかな手つきは、まるで羽に撫でられているようだった。
赤く煌めく唇が開き、ふっと鼻先に息を吹きかけてくる。生温かく湿った息が、まるでそのまま体中に広がっていく気がした。
とうとう髪の毛先が唇に触れる、その寸前。
かたりと、何か音がした。
見やると矢立がひっくり返り、水香の白いサイハイソックスを墨汁で汚していた。
「あらまあ。ごめんなさい、蹴飛ばしてしまったわ」
「いや、べつにいいが。それより、お前の脚と靴下が……」
「お気になさらず。脚は洗えばいいですし、靴下はまた買えば済む話ですわ」
「そうか……、すまないな」
「いえいえ」
あっけらかんと、まるで気にした風もなく笑う水香。さっきまでの色香はいつの間にか霧散していた。
また事故ってもイヤなので、矢立に筆を仕舞い蓋を閉め、布巾で拭いて着物の袖の中に突っ込み、雑記帳を胴乱……まあ、肩掛けバッグに入れた。
後片付けを終えた俺は足を投げ出すよう座り直して言った。
「お前の詩は、また今度書こう」
「分かりました。それまでにとっておきの一首を考えておきますわ」
「別に短歌じゃなくてもいいんだぞ。俳句でも、もう少し長い詩でも」
「いいえ、短歌にします」
「こだわるな」
「だって、今日のリベンジをしたいんですもの」
「……頼むから俺を題材にしないでくれよ」
「そんな、殺生な……」
「いやいや、そんな酷なことは言って――」
と、言いかけた途端。
胴乱の中から、着信音が鳴り出した。琴で演奏した『さくらさくら』の変奏曲だ。
取り出したスマホには葛飾北斎の『鷽に垂桜』をモデルとしたカバーがつけられている。
「着信音もスマホも、一風変わっておりますね」
「よく言われるよ」
受話器のアイコンをスライドし、電話に出るやいなや。
『どこで油売ってるんですか!』
いきなり鬼気迫った幼い少女の声が耳に飛び込んできた。いくら可愛い声でも、うるさければただの騒音だ。耳痛い。
スマホの音量を下げつつ俺は言う。
「……俺の耳が壊れたら弁償してくれよ、美甘」
『そんなことより事件ですよッ、事件!』
頭の中で造語がひょっこりできる。
耳より事件。
……嫌な言葉だ。
胸中で溜息を洩らし、無駄だとわかってはいるが、一応抗議を試みる。
「……なあ、今日だけでもう三件目だぞ。タダ働きだってのにここまでこき使うのは倫理に反してると思わないか?」
『何言ってるんですか! それがわたし達、治安維持委員会(ちあんいじいいんかい)に課せられた使命なんですよッ!』
「でもなあ……」
『灯字ちゃんは勉強できないんだから、こういうことで内申点稼ぐしかないじゃないですか! それとも、委員会やめて真面目に勉強しますかッ!?』
「ぐっ……」
矢が宙を切る音を聞いた気がした。アキレス腱が痛かった。即効性の毒が心と体を蝕んでいく。そんな想像がすごく生々しく感じられた。
俺は白旗を上げ、今度は実際に口から溜息を漏らして訊いた。
「場所は?」
『とっくに通報が届いてるはずですッ、雷印(らいいん)見てください! というかスマホは常に手元に置いておき情報の……って、説教してる場合じゃないですね。とにかく急いでくださいね!』
返事をする暇もなく電話が切れた。
溜息をもう一つ吐くと、水香が尋ねてきた。
「どなたからですか?」
「美甘からだ。事件が起きたから、すぐに来いってさ」
「まあ、大変。わたくしも赴くべきなのでしょうが……でも、汚れてしまった靴下を変えたいですし……」
「別に水香は来なくてもいいんじゃないか? こっちに通報が来てたってことはどうせ、魂魄高校の管轄だろうしな」
ホーム画面をスライドすると、雷印に通知が来ていた。
治安維持局から『通報』の出だしで届いたメッセージ。それに添付されていた地図を開き、事件発生場所を確認する。
「……やっぱり、魂魄高校の管轄内だ」
「そうでしたか。それじゃあ、灯字さま達にお任せしてもよろしいですか?」
「まあ、面倒くさいがそれが仕事だしな……。行ってくるよ」
重い腰を上げ、尻を叩く。
「まだ疲れていらっしゃるようですが、大丈夫ですか?」
「ああ。後で美甘に長々説教される方が、よっぽど重労働だしな」
水香は扇子で口元を隠し、くすりと笑った。
「お気を付けて、灯字さま」
「分かってるさ」
スマホをもう一度見やると、午後四時。
九月の今は、太陽が沈むまでまだまだ時間がある。
俺は三度目の溜息を吐いてスマホをポケットに突っ込み、下駄の歯を鳴らして走りだした。
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