一章 墨香る 君の姿に 恋しがれ 仰ぐ空にも 想い馳せゆく
一章 墨香る 君の姿に 恋しがれ 仰ぐ空にも 想い馳せゆく その1
心を静かに落ち着けて。
サッ、と筆を振るう。
穂先が紙面を撫で、軌跡を黒き線として残していく。
肩の力を抜き、緩急をつけて書を行う。
全ての線は色こそ黒で統一されているが、実は入りから抜きまで何もかも違う。力加減と筆を運ぶ速さ。このたった二つの要素が、線をいかようにも変化させるのだ。
時には重く、時には軽やかに。
力が緩急と合わさり、手から軸に、そして穂先へと伝わり、俺の想いが線に表れる。
線は太く細くまた太く、リズムを刻むように変化していく。最後には止め、払い、跳ねて穂先を浮かす。
雑記帳の和紙に、文字が一つ、また一つと流れるように記されていく。
最後の文字を書き終え、俺は筆を矢立(やたて)に置いた。
矢立っていうのは、神社の手水舎にある柄杓(ひしゃく)みたいな形のものだ。節に当たる部分に筆を仕舞えて、器に硯がある。
止めていた息を吐きだして膝を崩した。
水平方向に広がる青い空、それと接するように建つマッチ箱サイズのビル。屋上特有の光景だ。
一陣の風が吹き抜けていく。その涼しさにようやく秋が来たなと思った。
改めて和紙を見やる。
そこには左から右に、行書体で文字が書かれていた。
『私立(しりつ)超(ちょう)魂魄(こんぱく)付属(ふぞく)高等学校(こうとうがっこう)』
墨の香り漂う字を眺めていると、ふいに後ろから足音がした。
振り返ると、一人の少女がいた。
彼女はうっとりとした眼差しをしていた。辿っていかずとも、それが俺の書に向けられていることはわかる。
本当にじっと見入っている。言葉一つ発さない。
声をかけるのもはばかられる。さて、どうしたものか……。
悩んでいる内に、気が付けば己(おの)が目は少女の姿を丹念に眺め回していた。
俺の肩ぐらいある、平均的な身長。
それと同じぐらいある、ものすごく長い白い髪。ボリューム感あるツーサイドアップの両根元に紅いトンボ玉が見える。かんざしを挿しているのだ。
少女は青い着物風のワンピースを着ている。勿忘草色のそれには黄金のススキ原と、暗い空に浮かぶ月の情景が表されていた。それに白いレースやフリルが添えられ、帯の背面には緑色の大きな蝶リボンが付けられている。風情ある美がファンシーに化けてしまっている。見た目は完全に道楽衣装もといコスプレだが、これでも学生服なのである。
とはいえ俺も書生の格好をしているし、お互い様だ。無論、この格好も学校指定の制服である。
ふと少女が閉じられた扇子を顎にやり、首を傾げて言った。
「とても流麗かつ迫力ある書ですわね。でもどうして、ご自分の学校の名前をお書きになられたんですの?」
「別に。ぱっと思いついたのがこれだったんだ」
俺は少女が腕に付けている小さな腕時計を見やって訊いた。
「もう時間か?」
「いえ、まだもう少しありますわ」
「じゃあ、なんでわざわざ屋上に?」
「少しお外の空気が吸いたくなったんですの。もしかして、わたくしがここにいたら灯字さまのお邪魔になりますか?」
灯字というのは俺の名前だ。
フルネームを入木灯字(いりきとうじ)という。
「そんなことはないが……」
少女の後ろを見やり、誰もいないことを確認する。
「珍しいな、水香が一人でいるなんて」
彼女は鳥楽詩水香(とりがくしすいこう)。
お嬢様学校に通うれっきとしたご令嬢だ。
いつもなら専属のメイドを一人連れているはずなのだが、今はその姿が見えない。
水香は頬に手をやり、小首を傾げて言った。
「わたくしにも、一人になりたい時がありますのよ」
「残念だったな、先客がいて」
「あら、そういうつもりで言ったんじゃありませんの。お気を悪くなさらないでね」
彼女のつややかな唇からくすくすと笑い声が漏れた。
俺は肩を竦め、鼻息を漏らした。
「お嬢様の口には、この敷地の空気は合わないんじゃないか?」
「そんなことはありませんわよ」
「どうだかね」
水香はわざわざ深呼吸してから言った。
「魂魄高校とわたくしの博女はそこまで離れていませんもの。空気の質や味にそう大差はありませんわ」
博女とは水香の通っている博愛女学園(はくあいじょがくえん)の略称だ。
今時珍しい、古き良きお嬢様学校。最近は自由さを謳い始めているが、長年作り上げてきたイメージを覆すには至っていない。
「お嬢様学校の空気なんて吸ったら、俺の胃は痛くなりそうな気がするけどな」
また水香が控えめな笑い声を立てた。
「灯字さまは、十月の第二土曜日と日曜日に、博女で学園祭があるのをご存知かしら?」
「一応、知ってるが」
「開催期間はお祭りということで、近隣にお住まいの方々をお招きしているの」
「それで?」
「もしお時間があれば、灯字さまもいらっしゃいません?」
そう言いつつ、水香はゆったりした動作で俺の隣に腰を下ろし、目を覗き込んでくる。
余裕たっぷりのその顔に、俺はきっぱりと言ってやった。
「断る」
「まあ、どうして?」
目を丸くする彼女に、雑記帳を指差し簡潔に説いた。
「半ドンと休日は委員会がなければ書に打ち込むと決めている」
「半ドン?」
「半日だけ授業があるってことだ」
「ああ、なるほど。わたくしはてっきり、エスパニアのご友人の方かと」
よく分からない納得をしている水香に、俺は告げる。
「とにかく、お前の学校の学祭に行く気はない」
「そうですか。仕方ありませんわね」
意外にもあっさりと引き下がった水香は、右の手首に提げていた巾着袋からスマホを取り出した。
スリープモードを解除したそれを水香は少し操作した後、じっと画面を見ていた。ふと彼女はおもむろに画面を撫でるように指を動かし、韻を踏んで何やら口ずさみ始めた。
「実らずに 落ちた果実は 地に滲みて」
そこで指を止め、水香は空を仰ぐ。
ここは俺と水香の二人しかおらず、他に動きのあるものといえば風しかない。その彼女が彫像のように動かなくなったので、もしかしたら時間が止まってしまったのではないかと半分本気で思った。ただ彼女の左手首にはめられた小さな時計の針が律儀に時を刻んでいたので、それは杞憂だとすぐに分かったが。
時計は藍色の革に金色の本体が付いていた。文字盤すらも金色だ。
安物とは違う落ち着いた輝きを放つそれは、美術品として十分に価値があるものなのだろう。
けれども俺は、ふいに吹いた風になびく、水香の白い髪の方に目を奪われた。
雪原を紡いだかのような美しい色。細く柔らかそうで、触れたらたちまち手の中で溶けてしまいそうだ。
ぼうと眺めている内に、また水香が口ずさんだ。
「思い出すのは 墨汁の跡」
画面を撫でていた指が止まり、水香はこちらを向いた。
「どうでしょうか」
「……短歌か?」
「はい。『実らずに 落ちた果実は 地に滲みて 思い出すのは 墨汁の跡』」
百人一首かるたを思わせるような詠み方だ。ただ声音がのほほんとしているからか聞いていると意識がまどろんでくる。五十編終わる頃には眠ってしまいそうだ。
「この詩は灯字さまがあの時、わたくしの誘いを受けて学園祭に行っていればなと酷く後悔しているお姿を詠んだものですの」
「勝手に捏造するなよ。詩ってのは自分の心境を詠むものじゃないのか?」
「口語自由詩ですわ」
「絶対に意味違うだろ、それ……」
呆れていると、水香がしなだれかかってきて、上目遣いで視線を送ってきた。
「いい詩でしょう。一筆したためたくなってきません?」
「……まあ、学祭に行きたくなるかどうかは置いておけば」
「ぷぅ。作戦失敗ですわ」
肩に触れている、水香の頬が膨らんだ。柔らかい。
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