短編集【section4】

桜庭 くじら

Section4

 春になって、たんぽぽが道ばたに咲いた。黄ばんだ住宅街を外れた畑の中にある、古くなってでこぼこした道路の端に、コンクリートをかち割って花開いていた。始業式が終わった後、ぐだぐだと続く教科書の購入やらなんやらを駆け足で終わらせ、二人で帰っている途中に見つけた。

 彼女はその前に座り、花弁の裏をそっと撫でた。かわいい、と呟いたあと、いくつか摘んで、振り返って僕に見せた。僕もしゃがんでそのたんぽぽを受け取り、匂いをかいだ。のりみたいな香りがした。一本、彼女の後ろに髪をまとめたヘアゴムにさすと、もう、とすねた。彼女は小柄な女の子だった。


 夏、海辺を歩いた。修学旅行で来た島に、静かな夕暮れが訪れていた。背中にかかる長い髪を潮風になびかせながら、その女の子は、海がきれい、と言った。つられるように僕も海を見て、うん、とうなづいた。波が弾む心を落ち着かせるようにゆっくりと寄せては返す。砂が踏むたびにぎしぎしと鳴く。

 その夜、眠れなくて、窓に映る黒い山を見つめていた。島の中心に位置する岩山だった。緑は夜に濡れて灰色になってしまった。潮の音が耳についた。

 翌日、太陽が南に上がったころ、再び浜を訪れた。冴えた空と透明な海がどこまでも続いていた。日差しが肌を焼いた。

 ねえ、と彼女の声がした。僕は静かに振り向いた。


 秋、街路樹が葉をひらひらと落とした。急いで歩くと足元でかさかさ鳴った。駅の時計の下にオレンジのマフラーをした女の子が待っていて、僕に気が付くと、何度も大きく手を振った。二人は並んで歩き、駅前の通りの店を適当に回った。楽しい、と彼女が呟いた。ショートカットがよく似合っていた。

 ネックレスをプレゼントした。彼女は嬉しそうに受け取ると、さっそく首から下げた。その日の服装にはあまり合っていなかった。彼女の苦笑いと、金属の触れ合う音が脳裏に残った。外の風が吹きつけて木々を揺らし、ざわざわと小声で何か噂話をしていた。


 冬、雪を眺めていた。窓辺に椅子を置いて、白い空から降る結晶をひとつひとつ観察するように見つめた。雪の降る音が聞こえてきそうだった。

 あまり暖かくない部屋で、指先が凍えて、息を吹きかけた。ガラスにも少し曇りができた。窓ガラスに口を近づけて優しく息を吹きかけた。目の前が曇って、重い雲しか見えなくなった。

 僕は棚から本を取ると、小さな子どもの眠るベッドの横に座り、ささやき声で長い長いお話を読み聞かせた。それは、ずっといつまでも途切れることなく続く、長い長い物語だった。

 月明かりもない夜空から、雪がしんしんと降りてきた。雪の降る音は聞こえなかった。


 あれから幾年かが過ぎた。寝転んで先ほど描いた絵を見ていた。白い部屋に少年が独りたたずんでいる絵だ。当時から持っていたスケッチブックに黒鉛筆だけで描いた。

 一枚めくると、眠る小さな子どもの絵があった。もう一枚めくると、髪の短い女の子の絵があった。ネックレスを掛けている。もう一枚めくると長い髪をなびかせた少女の絵だ。明るい海が背景に描かれている。もう一枚めくると、ポニーテールの女の子が、花束を抱えてこちらに微笑みかけている。このあとのページにはいくつか、色とりどりに描かれたネックレスと海と花束の絵があり、そのあとはさまざまな動物や景色のデッサンが何枚も描かれている。

 ぺらぺらとそれらを眺めた後、もう一度さきほど書いた白い部屋の絵を見た。

 僕はスケッチブックをびりびりに破いた。辺りに紙片が散った。

 起き上がるとすぐ、身支度をして家を出た。三月の暖かな陽気が街を包んでいた。

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