あのうみ みやま みなこえて

remono

プロローグ~第一章

プロローグ


 きょう、さいごのろけっとが、たった。

 わたしは、ひとり、おかにこうしている。

 ひとりになって、おもう。

 ただの、ひとりになって、おもう。

 どこかへ、いこうと。

 ここではない、どこかへ。

 だれかのためにいきるのはもう、やめる。

 それにもう、ここにはじぶんのほかだれもいない。


 じぶん――じぶん――。そのことをおもうと、わたしのこころはざわめいた。


 ……


 おおきくいきをすいこむ。こころのゆれがわずかにおさまる。わたしはこえにだして、いってみた。


「だから、わたしは、じぶんのためにいきなくては」


 じぶんのため。

 これからはほんとうに、じぶんにためになることをして、いきてゆこう。


 そうしてわたしはめをとじる。そうしてわたしは、かんがえてみた。


 ……


 それは、ながいしこう。そう、ほんとうにながいしこう。

 そうしておもいついたのは、けっきょく、たったひとつのことだった。

 ひとつ、そう、たった、ひとつ。

 

 ――――。


 ながいしこうのなかで、おもいついたこたえ。

 それは――。


 だれかの、ために、いきること。

 

 わたしは、ゆっくり、あるきだす。



第一章 渚



渚――その一


 はいいろはがねの暗い空から、雨の滴が降り落ちる。ここでこうして、一人でいると、不意に寂しさが、こみあげてくる。

 空、はいいろはがね。

 海、はいいろはがね。空より少し色相が深い。

 自分。はいいろはがね。雨に濡れて彩度が高い。

 はいいろせかい。

 灰色の世界。

 そんな世界を寂しいと思うのは、自分に心がまだ残っているからか。

 まだ残っている、と信じる心で自らの心を自嘲して、視界を昏い灰色の海へと落とす。

 潮風を浴びすぎた可動式のカメラは、軋んでキィキィと耳障りな音を立てた。

 海の色は変わらない。ここしばらく、ずっとこの情景が続いている。

 しば――らく? ずっ――と?

 ?

 それは、いったいどれくらいの月日だったか。

 外装された時計機能へとアクセス。現時点の日時の情報を引き出す。

 しかしその機能はすでに失われていた。

 外部メモリー。過去の画像へとアクセス。

……、…………。

 有効画像保存期間まで、人の姿は発見されず。

 いや、動物の姿さえもない。

 念のために赤外線サーチした画像をチェックしてみる。

 そこで気が付いた。その機能は、すでに働かない。

 それは、いつからか。

 覚えてはいない。

 だが、あれは良い機能だった。いろいろなものが本当によく見えた。あまりに暑い夏の海では、その真の効力を発揮できなかったが。

 そこで思い返す。あのころの記憶のこと。それは皆懐かしい思い出、景色。

 そうだな。今は、それさえあればいい。

 自分はまだ頭の中で、ここに人がいたころのことを思い出せるから。

 こんな灰色の世界など、見る必要は無い。――見る必要など。綺麗だった夢の世界で生きてゆけばいい。


 ……。


 けれども、自分は機械になって初めて知った。

 機械は夢を見ることはない。

 こうして目覚めながら、外を見ながら夢を見るしかない。

 以前はそのことにさしたる疑問も持たなかったけれど、今思えばそれはひどく、居心地の悪いことであるように思えた。


 時に、自分は夢の中に溺れてしまいたいと願うのに。


 カメラを外へ開いたまま、心の中は思念へと浸る。その違和感に気がついてしまってからは、ひたすらに不快な時間が過ぎる。いや、これまでずっと、過ぎている。

 そうしてこれからも、自分が壊れてしまうまでこれからも、ずっとこうしているしかないのだろうか――。そんなことをもう、何千万回繰り返し考えていた時のことだろうか。

 あの機械がふらりと自分の目の前に現れたのは。



渚――その二


 うみをめざしてあるいていたのは、むかしだれかがうたっていたからだ。


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


 それはとてもとてもなつかしいうた。

 わたしとそして、わたしのすきだったひとたちは、みんなそのうたがすきだった。

 だから、じぶんのこころであるくはじめてのいきさきは、うみ。そうおもった。


 うみへのいきかたは、しおかぜがおしえてくれた。

 めざしたうみは、はいいろのうみ。

 めざしたそらも、はいいろのそら。



渚――その三


 視界に現れた機械は、雨の中、浜辺をゆっくりと歩いていた。迷っているようにも見え、まっすぐに歩いているようにも見えた。

 しかし自分の心は躍った。

 機械は少女タイプの介護ロボットのように見えた。自分の記憶がまだ美しいもので満たされていた頃、この浜辺でも見たこともあるタイプにも見えた。それは自分にとってひどく懐かしい存在だ。緑なす髪が美しい。

 呼びかけたい。呼びかけたい。心の底からそう渇望する。

 それは以前の自分には無い望みだった。

 しかしそんなことは気にしなかった。ただ呼びかけたい。その思いに心が震える。

 だが、どうやって? 

 今の自分には、あの機械にすらデータを伝える機能すらない。

 そのように自分は作られてはいない。

 機械は自分の目の前を通り、何事もないようにただ通り過ぎて行く。

 せめてもとその姿を視界に収めようと、カメラを機械の動きを追って動かした。

 カシィー。とレンズの絞りが小さく響き、潮風に錆びた可動部がキィキィと軋む。

 その音に気がつき、機械は自分の方へと振り返った。

 そうだ。これならわかってもらえるだろう。

 カシィーッ。カシィーィ。キィキィ。機械にわかるようにカメラを動かす。

 機械は少しとまどっていたが、やがで自分の動きに気付いてくれたようだ。こっちに向かって歩いてくる。



渚――その四


 あるいてあるいて、わたしは、はいいろのうみにたどりついた。

 あおかったそらは、うみへとちかづくにつれ、はいいろになり、やがてあめがしずかにふりはじめた。

 あめ。

 あめ――ならばすこしはへいき。

  

 けれども、きかいは、うみのなかには、はいってはゆけない。しおかぜだって、ほんとうはきけん。


 だから、わたしはうみにたどりついても、はいいろのすなはまをはまべにそってあるくことしかできない。

 めにうつるのは、はいいろのそらと、はいいろのすな。

 すなのうえにたつのは、はいいろのはしらと、はいいろのきかい。

 あれは、“かめら”だろうか。れんずがきらきら、ひかっていた。

 そのまえをゆっくり、とおりすぎる。

 

 かしぃーっ、きぃきぃ。かしぃー、きぃきぃ。


 ちいさなおとに、ふりかえると、はしらのうえのかめらがわたしをみていた。

ふしぎだ。いままではむこう、わたしがきたほうをむいていたはず。

 わたしはかめらをみる。かめらもかっきり、わたしをみている。


 かしぃーっ、きぃきぃ。かしぃー、きぃきぃ。


 かめらはじぶんじしんをいったんまえにかたむけて、もとにもどすうごきをした。

 そうしてまたわたしをみつめなおす。れんずのしぼりのぶぶんが、ちいさくちいさくうごくのわかった。


 かしぃー。かしぃー。かしぃーっ。かしぃー。 


  ……。


 かめらはまだいきていたようだ。

 そうして、そのうなずくようなうごきが、わたしのだいすきだったひとのどうさに、どこかにていた。わたしは、ゆっくり、あるきだす。


 

渚――その五


 機械は自分の方へ近づいてきた。自分がくくりつけられている柱の前に立ち、自分のことを見あげてくれる。

 よかった。気がついた。

 心が喜びに満ちあふれる。

 機械は良く見てみると、あのころの記憶のままの少女達そのままに見えた。

 最近まできちんと整備されていたようだ。この近くにまだ人間がいたのか。

 しぼりを小さく小さく動かす。同じ機械なら、わかってくれるはず。

 この動きが言語を表すものだと。

 この機械は、言葉を伝えたがっているのだと。

 カシィーッ、カシィーッ。雨交じりの浜にレンズの絞り音が低く鳴り響く。



渚――その六


 かぜはずっとまえにふくのをやめたから、そのおとはほんとうによくきこえた。

 けれど、もうかぜがつよくふいていたとしても、わたしはそのおとをききのがさなかっただろう。

 それはことば。

 わたしにも、りかいできることば。

 このきかいは、きっと、わたしにつたえたいことがあるのだ。


 そうして、ふと、おもいだす。

にんげんたちはむかし、しぜんのことばをきくことができた。

 わたしにはきこえないことば。

 りかいできないことばを。

 けれど、いま、しぜんは、おとをたてない。

 ひとも、しぜんのことばをきくことができなくなった。


 だから、ろけっとをつかったのだろうか。

 さいごのひとびとをのせたろけっとは、とびたつとき、ちからづよく、おとをたてた。

 わたしはちじょうで、ひとり、それをみていた。

 

 あのろけっとなら、とびたったにんげんたちをあたらしくしぜんのおとがきこえるせかいまで、きっとはこんだことだろう。

 だから、とびたつことのできたにんげんたちはあんしんだ。

 のこされたのはきかい。わたしたちのような、しぜんのことばがわからない、きかいたち。

 そっとみみをすまし、わたしはきかいのことばにをきく。



渚――その七


 機械は自分の言葉に耳を傾け始める。

 だから、自分は機械に尋ね始めた。

 まず何よりも聞きたいことは。

 まず何よりもこの機械に自分が聞きたいことは。

 人は一体、どこへ消えたのか。

 あれほど溢れていた人は、どこへ行ったのか。

 この浜辺に溢れていた人たちは、一体どこへ消えたのか。

 動物達さえ、一体どこへ消えたのか。

 そうして、もしも人間達が消えてしまったのなら、いままでお前を整備していたのは誰で、一体どうなってしまったのか。

 それを目の前の機械に尋ね、自分はその答えを待つ。



渚――その八


 きかいは、わたしにたずねる。

 だから、みみをかたむけた。

 きかいはこたえをまっている。

 わたしは、こえで、こたえなくては。

 おおきく、いきをすいこんだ。

このほしでおこったこと。

 あたまでりかいしていても、こころはつらく、くるしい。

 にんげんたちは。

 にんげんたちは。

 にんげんたちは――。

 こころのおくから、こえをしぼりだす。



渚――その九


“にんげんたちは、すべて、このほしを、たちました”

 機械は自分にこう答えた。どこかせつなく、悲しい響きだった。

“このほしが、こわれかけて、にんげんたちは、すめなくなって、どうぶつたちが、いなくなって、それで、にんげんたちは、ろけっとで、このほしを、たちました”

 逃げたってことか。自分の言葉に機械はうなずく。

“そうです、にんげんたちは、このほしをすてました。さいごのろけっとが、さきほどとびたちました。とおいとおい、はるかなほし、まだじぶんたちが、すめるほしをさがして――”

 そんなことを言う目の前の機械の声は泣き出しそうなものに見える。

 そうして、自分は理解した。

 人間達はこの星を去り、自分は、ここに見捨て去られたと言うことに――。

 溜息がつけたのなら、自分は大きく息をついたことだろう。

 そうか、人間達は、もう、この星にいないのか――。

 この、自分を除いては――。

 それは、どこか万感の思いであった。

 自分は、自分を見上げる機械を見下ろす。

 機械は、不思議そうに自分を見ていた。



渚――その十


 きかいのためいきをわたしはききのがさなかった。

 このきかいは、ほんとうに、にんげんのようにためいきをついた。

 さっきも、すこしへんだった。

 このきかいのうごきは、わたしのすきだったひとににていた。

 すきだったひと。――そのひとはにんげんだった。

 なんだか、ふしぎなきもちだった。

 このきかいは、ひとに、にすぎている。



渚――その十一


 機械は自分を見つめ続けている。

 なんだか、ひどく、気恥ずかしかった。

 そういえば、見つめられることは、嫌いだったことを思い出す。

 ああ、そうだ。自分は見つめられることが大嫌いだった。

 人間に、人間に似たものに見つめられるのは――。

 カメラのレンズを背けようとして、思い至る。


 そうだ、もう、その人間も居ないのだ。

 目の前のこの人間の姿をかたどった機械の他には。

 もう、この星に人間は――。

 自分は、今度こそ、人間のするように溜息をついた。

 実際には出来なかったが、どうでもよかった。

 そうして自分は機械に語った。自分がここにいる理由を。

 自分はこの浜辺の監視カメラ。浜辺を写し、そこに屯す人たちになにか危険が起こらないよう調べる機械。

 しかしそれは表向きのこと。

 本当はそんなモノなんかじゃない。

 けっしてそんな、立派なモノなんかじゃない。

 自分は人間だった。

 自分は以前、人間だった。

 本当に昔、五体を持った人間だった、そのことを。



渚――その十二


 にんげん?

 このきかいは、ふしぎなことをいった。

 むかし?

 このきかいは、りかいできないことをいった。

 きかいにむかしなんてない。

 きかいは、うまれたときからきかい。それはずっとむかしからのさだめ。

 だれかが、むかし、ひとと、どうぶつをわけたように、ひとと、きかいはちがう。

 つくりも、かたちも、なにもかも。


 それとも、わたしのしらない、ぎじゅつというものがあるのだろうか。

 わたしはふかく、おもいなやんだ。

 あたまをぐるぐるさせて、かんがえこむ。



渚――その十三


 目の前の機械は人型のくせに自分の話を理解できていないようだ。こんな技術、すでに枯れたともの思っていたのに。

 ヒトの意識をチタンと鉛の殻の中の珪素と炭素でできたチップの群に移植する技術。

 そのシステムは完全クローズド、内の回路は開けてみるまでだれにもわからない。

 なぜならそれは、ヒトの脳をその中へと移植する過程において、元になった人間の脳の繋がりに合わせて作られてゆくものからだ。

 つまり元になった脳の神経や、走っている電子信号をそっくりそのまま機械の外殻の中へとコピーしてしまう技術。そうして作られた機械の脳は二度と開けることはできない。開けたとたん、中を回路として走っている電子が外へと飛び出し、飛び出した電子の流れを補うように、他の電子も動きを変えて、それが開ける前はどのような回路を持っていたのか、まったくわからなくなってしまうから。

 しかしそのようなことをしなければ、この電子の脳は人の脳より遙かに長く、その機能を保ち続ける。チタンと鉛の外殻は、電波に対して堅牢で、衝撃に対してもカルシウムと水で形作られた頭蓋骨より遙かに固い。

 だが、時に思う。

 あるいはそれは魔術と呼ばれるたぐいの技術ではないか、と。

 そのような技術は誰かがヒトを担ぐためにでっちあげた紛い物で、この外殻の中には、なにかのガスとか希薄な蒸気かなにか、たわいもないモノが詰まっているんじゃないかと。 

 だがしかし、こうして自分はここにある。心も未だ保っている。

 そうしてヒトだった頃の記憶もある。だから以前自分はヒトだった。何も疑うことなど無い。何も、疑うことなど。


 自分は目の前の機械に対し、このように語った。



渚――その十四


 めのまえのきかいは、そのようなことをわたしにつたえた。

 じっさい、わたしにはよくわからないことばかりだけれど、そんなことはどうでもいいのだろう。

 とにかく、めのまえのきかいは、はなしたがりやで、それはわたしのしっているにんげんのとくせいにちかかった。

 わたしのしっているにんげんは、たいてい、はなしたがりやだったから。

 ひつようでないときも、ひつようでないことも、ほんとうに、よくしゃべった。

 ちょうど、この、きかいのように。

 だから、このきかいも、きかいがかたるように、もともとは、にんげんだったのかもしれない。


 にんげんならば、それに、つかえなくてはいけない。

 わたしは、そういうふうに、できているから。

 にんげんならば、いろいろと、きいてみなければならない。

 わたしは、そういうふうに、つくられているから。

 そういうふうな、ようとで、わたしはかたちづくられたと、きいている。


 わたしは、めのまえのきかいに、こえをかける。

 はなしたくなくなるまで、ききつづけなくてはいけない。

 きっと、このきかい(にんげん?)は、はなしたいことが、たくさんあるのだ。



渚――その十五


 自分は語った。自分は語った。自分は以前弱い人間であったことを。

 自分は語った。自分は話した。そんな自分が嫌いだったことを。

 なによりもなによりも、いやだったのは、見られることと、見られないこと。

 見られる視線は、自分がここにいることへの非難に感じたし、見られないことは。自分の存在を無視しているように思えた。

 呼びかけられる言葉は自分への弾劾に聞こえたし、呼びかけられない時は、いらない人間であることの何よりの証明と感じた。

 そう思える自分自身が嫌いだった。そうして、死にたかった。簡単に言えば。

 けれど死ねなかった。その理由は何よりも痛くて苦しいのがいやだったのと、もう一つ。

 自分は美しいものを知っていたから。

 それを見続けることは死ぬよりももっと深い、自分の要求だった。渇望だった。

 だから生き続けた。ヒトの姿を捨てて、この機械の姿となって。


 自分は語った。機械に向かって、このように語った。


 

渚――その十六


 わたしはきいた。きかいのことばをきいた。

 ただ、ひたすらに、きかいのことばをききつづけた。

 きかいのことばは、さびしくて、そうしてどこか、やさしいようにきこえた。

 わたしはみみをすます。

 あめのつぶがしとしとと、かみをつたって、みみのうしろをはしりぬける。

 かしぃー、かしぃー。きぃきぃ。

 つめたいつめたいあめのなか、きかいは、むかしはにんげんだったきかいのことばをつむぎつづける。



渚――その十七


 わかるか、機械。ここは昔、人たちが集う海水浴場だった。

 かいすいよくじょう。人が戯れに、水を浴びる場所。

 涼を求めて? 違う。涼しさを求めるなら、他にいくらでもやりようはあった。

 あれはほとんど自己の顕示と、それと淫らな欲望でできていて、あるいは太陽と海の力を思い出すための宗教儀式なのかも知れない。

 きっとあれはそういうこと。あの中に入っていけなかった自分には、そのようにしか見えない行為。

 

 ――――。


 そうだ。確かにそのとおり。自分はこんな場所、本当は好きでもなんでもない。人間の頃は行ってみたいとすら思わなかった。


 “それならば、どうして、ここに?”


 機械は静かな目で問いかける。そうか、やっぱり気になるか。そうだな。――そうだな。話してしまおう。一旦休み、少し言い淀んでまた、語り出す。


 ここは昔、太陽が降り注ぐ砂浜だった。


“それは、さっき、ききました”


 機械はそう言った。自分は言葉を続ける。昔、自分が人間だった頃、多く持ってた、恥じらう気持ちを思い出しながら。


 太陽と砂浜というものは――どういうわけか若い女の子達を引きつけて、そうして、自分はそんな女の子をずっと見ていたかったんだ。


“おんな――のこ?”


 機械は呟く。自分はうなずく。そうだ、薄く、肌をめいいっぱいに露出させた衣装に身を包んだ女の子達。太陽のめくるめく様な日差しの中、自己を顕示する力に満ちあふれた天使達。それが美しいもの。自分が永遠に、永遠に見続けたいと願ったもの。そうして、自分はただ、見ているだけで、幸せだった。



 本当に、見ているだけで幸せだったんだ――。

 自分はそう語り、そのことを語っただけで、どういうわけか幸せな気持ちになれた。



渚――その十八

 

 きかいは、かたりおえた。

 れんずのしぼりのおとが、しなくなった。

 そうしてきかいは、れんずのむきをわたしではなく、はまべのほうへ、かえた。

 きかいはずっと、そうしていた。


 わたしはいった。

“なにかいま、わたしに、できることはありませんか?”


 すこしのちんもくのあと、きかいはいった。


“およいで、みせて、くれないか。むかしのあのころ、あのときの、うつくしかったおんなのこたちのように――”


“きかいは、うみへは、はいれません”

 わたしは、くびをよこにふる。きかいは、わずかにれんずをうごかし、いった。


“それなら、なんにも、しなくて、いい”


 そうしてきかいは、だまってしまった。

 わたしは、そんなきかいを、みあげる。

 きかいは、さっきとおなじようにじっと、はまのほうをみている。

 そうして、もう、わたしのほうをむこうとは、しなかった。


 ……。

 わたしは、もう、ようずみのようだ。


 けれど、ひとつ、きいてみたいことがあった。

 このきかいが、このきかいがいうように、もとはにんげんだったとしたら、きっとあたりまえのように、できたことのはず。

 そうしてそれは、わたしにとって、ふしぎなこと。できないこと。

 わたしは、くくりつけられたきかいにむかって、もういちど、せすじをのばす。

“あなたは、しぜんの、こえが、きこえますか?”

 そうしてわたしはきかいにきいた。

 それはいまのじぶんにはできないことで、ずっと、やって、みたいこと。



渚――その十九


 自然の、声?

 機械は不思議なことを言った。

 ここはずっと凪だ。波さえも打ち寄せてこない。空は常に灰色。海もやはり灰色。雨の音は単調で、何かを伝えるものでもない。

 声など――聞こえて――、来るはずも――ない。


 自分は目の前の機械にそう答える。それ以外に答えようがない。

 そうしてこちらも、一つ尋ねる。

 どうしてお前はそんなものがありもしないものを聞きたいのかと。

 どうしてそんな、ありもしないものを聞きたがるのかと。



渚――その二十


 きかいのこたえに、わたしはすこし、らくたんした。

 やはり、しぜんのこえは、きこえないのか。

 そうしてひとつ、ききかえされる。

 どうしてそんな、ありもしないものをききたいのか、と。

 ありも――しない?

 そういったものは、このせかいにないと?

 

 わたしは、うろたえた。こころのなかが、こまってしまった。

 そんなことは、かんがえてみても、しなかった。

 にんげんのいうことは、いつもただしいとおもってた。


 きかいは、さらに、きいてくる。

 なぜ、そんなものをありもしないものをききたがるのか、と。

 

……。


 それには、たいせつな、りゆうがある。それはわたしがだいすきなうた。


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


 そんなだいめいの、うた。

 それがたいせつな、うた。



渚――二十一


 歌だと、歌だと、歌だと、うただと?

 この機械が歌を語ろうとは。自分は全く混乱した。

 理解できない。まったく、理解できない。

 子供に聞かせる、老人を喜ばす。まだ嬰児の赤ん坊に、この世界の理と不条理をそっと小さく囁きかける。

 機械が歌う歌などは、すべからくそのようなモノであるべきで。

 つまりは、全て人の為に歌われるモノ。

 機械全くそのものが、大切に思う歌などそんなもの、かつて今まで耳にしたことがない。

 この機械がそんなことを言うのなら。

 逆に“僕”が尋ねよう。

 お前が大事に思う歌という、それはいったい、いかなる歌かを。



渚――その二十二


 きかいにこのように、といかけられて、わたしのむねは、どきりとした。

 それは、よそくできた、といかけだけれど、じっさいにこたえるとなると、こころがうまくはたらかない。


“どうした、そんなものは、やっぱりそんざいしないんじゃないか。きかいにとって、たいせつなうたなど、そんなもの、まったくのうそっぱちなのではないか?”


 わたしはきかいをみあげる。れんずはかっきり、わたしのことをみおろしていて、きかいのめだまが、むごんでそういっているようなきがした。『うたってみろよ、にんげんのふりをしたまがいものの、きかいめ』こう、いっているような、きがした。


 ……。


 いきをおおきくすいこむ。うたをうたうには、たくさんの、くうきのちからがひつようだ。ひとときかいのあいだで、それだけは、きかいも、ひとも、かわることはない。



渚――その二十三


 機械は“僕”の問いかけに、頬を膨らませ口ごもる。

 そうだ、そうだろ、そんなもの、この世界にあるはずもない。“僕”は機械を見下ろした。機械は口を一文字にぎゅっと結んで“僕”の目、すなわち、レンズの部分を見上げている。

 そうだ、その通り、何を言っても結局たかが機械ごときに、歌だとか、大好きな気持ちだとか、けっしてわかるはずもない。

 自分だって、それは、わかりはしないのだ。

 そんなこと、僕は、わかりは、しなかったのだ――。

 僕はうなだれ、口ごもり、――そうして、うたが、溢れだした。



このうみ――うみのかなた


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


“みどりのはらいちめんのはなさくあかいはなびら”


“ふきそよぐかぜながれさるくもどこまでもあおいそら”


“いろあせたつきとしろいひざしそしてそらをさくにじ”


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


“このうみのはるかかなたとおくとおく”



 いきをすいこむ。うたをつづける。



“このうみのはるかかなたとおくとおく”


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


“かぜかかわりたいようがかくれむしのこえやむ”


“くろくよどみあめふりそそぎにおいたつくさばな”


“いかづちがおちもりはやけてどうぶつたちはしぬ”


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


“このうみのはるかかなたとおくとおく”


 顔を、いやレンズを上げる。僕は歌う機械を見、その歌を聴く。


“このそらのはるかかなたとおくとおく”


“このそらのはるかかなたとおくとおく”


“みどりのはらいちめんのはなさくあかいはなびら”


“ふきそよぐかぜながれさるくもどこまでもあおいそら”


“いろあせたつきとしろいひざしそしてそらをさくにじ”


“このそらのはるかかなたとおくとおく”


“このそらうみのかなた、はるかに、とおくとおくで――”


――――。


 わたしはきかいのまえで、このようにうたった。

 そうして、目の前の機械はこのように歌い、“僕”はその歌をこのように聞いた。



渚――その二十四


 歌が終わり、静寂が訪れた。雨の滴が降り落ちていた。

 歌は、小さな声だった。抑揚もなく、機械らしいと言えば機械らしいと言えた。

 しかし、それはやっぱり歌なのだった。


“こんなものが大好きな歌、と?”

 

 僕は機械にそう訊ねた。


“こんなものが、わたしのたいせつなうたなんです”


 機械はどこか恥ずかしそうにそう答えた。何と言ったらよいか、わからなかった。そうして、沈黙が訪れた。


 やがて、もう一度言った。

“こんなものが、大切な歌?”


“はい、こんなものが、わたしのたいせつなうたなんです”


 機械は同じ様なことを答えた。そこには、羞恥も、怒りもなかった。けれども、僕には何もなかった。

 僕は、理解した。

 この、機械とは、わかりあえない――そのことに。


 そして笑ってしまった。人を止めて機械になって、そうしてその機械が大切だという歌を理解できないことに。

 そして泣いてしまった。人を止めて機械になって、そうしてその機械が大切だという歌を理解できないことに。

 そして、ただひたすらに、さびしかった。僕はカメラを動かし空を見上げてみた。そこは一面の曇り空で。

 ああ。僕は、この歌を理解できない。

 もう、この歌は、もう、僕には、わからない――。



渚――その二十五


 かつてにんげんだといったきかいは、そらをみあげ、もう、うんともいわなかった。

 こわれてしまったのだろうか。

 それとも、わたしがこわして、しまったのだろうか。

 それをおもうと、かなしくなった。

 だいじょうぶですか、あなた。いつまでも、とまったままで。

 わたしは、よびかける。なんども、なんども、よびかける。へんじは、なかった。

 だいじょうぶですか、あなた。そらに、なにがみえますか?

 

 わたしは、きいてみる。なんども、なんども、きいてみる。へんじは、なかった。

 だから、きかいとおなじものをみた。きかいとおなじ、そらをみた。

 

 そらは、なにもいわなかった。

 けれど。

 このそらのとおくとおく。わたしのしらない、なにかがある。

 それをおもうと、なみだがでた。

 しらないけれど、なみだがでた。

 どうしよう。

 わたしは、どうすればいいんだろう。



渚――その二十六


 いきなさい。

 いきなさい。君の、望むままに。

 このそらのとおくへ。

 君がそれを願うなら、きっと、それは叶うだろう。

 心で叫ぶ、心で聞く。

 機械は理解してくれたようだ。話しかけてくる。

 

“ありがとう、ございます。けれどあなたは――?”

 

 僕は、ここにいる。ずっと、ずっとここにいる。

 ここにいたかったのだから。ほんとうに、壊れるまでは、ここにいるさ。

 僕は答えた。

 

“そうですか。それでは、また、あえるのなら”


 そうだな。また――あえるのなら。

 ……。

 こんどは、海で泳いで見せてくれ。


“だめです。きかいは、うみへは、はいれません”


 そうだったな。

 けれども、君は、本当に、機械なのか?

 本当に本当に、ただの機械なのか?

 その言葉は、聞こえなかったようだ。機械はきょとんとした顔で僕を見つめ続けている。

 風が。風が強すぎたのだろう、きっと。

 風。風?

 風が、蘇っていた。止まった時計のように、変わらなかった風景が、ゆっくりと、ゆっくりと、動き出す。

 雨が止んだ。黒い雲がその色を薄めてゆく。足下では、波が、また寄せて返す。渚が白く泡立つ。灰色の雲が切れ、また日差しが――。

 それはもはや、この体では感じることはできない。ただ、カメラを通して、ただ視界を通して、僕は、それを認識する。


 雲が切れる。太陽が見えた。信じられないくらい、白い、白い。

 雲が切れる。空が見えた。信じられないくらい、青い、青い。

 そして虹。海の向こうに、虹が見えた。

 虹は、水平線の彼方より生まれ、天の頂へと駆け上がってゆく。

 誰かの言葉を思い出す。

 これは約束なのだ。誓いなのだ。

 それは古い古い、もはやこの世界で見捨てられ、わすれられた神の言葉。

 誰かが、何かを信じることのできた時代から伝わる言い伝え。

 それは、確か、二度と世界を滅ぼさないと言う、誓い。

 罪業で汚れた世界を水に没した神が交わした誓い。

 虹は、二度と世界を滅ぼさないと言う、誓い。

 

 茫洋。

 自分は、しばらく、茫洋としていた。


 契約を守るべき存在がいなくなっても、まだ彼は約束を守り続けるのだろうか。

 契約を交わした存在がこの星を見捨てても、まだ、彼は遙か昔に交わした約束を履行し続けるのだろうか。


 そう、世界が壊れてしまっても、世界を壊してしまっても、また日は昇り、風は吹く。


 天の頂を目指し、足を伸ばす虹。

 それはまるで、空の彼方へ去った小さな小さな契約者を追いかけるように。


 心の中で手を組み合わせ、心の中でひざまづく。そうして、僕は動かなくなった。



渚――虹蛇


 ここにいます。

 ここにいます。

 まだ、自分は、ここにいます。

 命ある限り、自分はあなたたちとの契約を果たすことでしょう。

 この地上で――。


 ……。


 あなたにはこえがきこえたですか。

 わたしにはやはりきこえません。

 

 よびかけてみても、かめらはもうかたろうとはしなかった。

 

「この、うみのかなた、とおく、とおく」


 ちいさくつぶやく。いつのまにかでていた、にじを、みつめる。


 ふと、わたしは、そこへ、いってみたい――。とおもった。


 けれども、きかいは、しおみずへ、はいってはいけない。

 ひとがたのきかいは、そらをとべない。

 わたしはふたたび、はまべにそってゆっくりとあるく。

 ゆっくり、ゆっくり、あるく。

 このうみのはるかかなた、にじのさすばしょをめざしながら。



第一章 渚 完

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