第4話 OMEN (迫る絶命の足音)

「ああ、また虹だ……今度は何だ?」


 デバイスを操作し、速報を表示する。


≪セクターταχύςタキュスの管理システム、Luciferが暴走。事故や犯罪が多発。ウイルス感染によるものと断定≫


 速報を見た人々がざわつく。


「事故? 犯罪? って何のこと?」

「事故っていうのは、思いもよらず物やフレームが傷つくことだよ。乗り物のサポートが急に切れて壁にぶつかっちゃうとか。犯罪っていうのは――」

「嘘でしょ? そんなこと、あり得ない!」


 神により『完美なる世界』が完成し、人類の願いが完全に成就した今、事故や犯罪という概念そのものを知らない者も多い。つまり現代の世界においてそれらの事柄が生じることは、極めて非現実的、すなわち異常なことなのだ。


「大変なことになっているわね。事故や犯罪なんて、もう1000年は見ていないわよ」

「……ど、どういうことだ? ταχύςの管理システムは最新だぞ?」

「最新だからこそ、保証するものが何も無いのよ。『最新』が『最高』であるとは限らないわ」


 CIELの顔が青ざめる。


「でも、最新って言っても、中身はEclipseと大して変わらないはずなのに……」

「かつて、ある人間は薔薇ばらの香気成分を99.99%解析し、再現したけど、それでも本物の薔薇の香りにはならなかった。例え0.01%の違いでも、結果は大きく変わるものよ。けれど、確かにEclipseは完璧に働いているわね。まるで何かと同期しているかのように」


 動揺を隠しきれないCIELに対し、あくまで冷静沈着なX。


「それにしても、こんな短期間で――いや、それより、早く行かないと!」

「行くって、どこへ?」

「決まってるだろ、ταχύςにだよ!」


 そう言って、セクター間を繋ぐポータルへ向かうCIELだが。


≪セクターταχύς …… 移動不可≫


「無駄よ。管理システムに不具合が生じた場合、その時点でセクター内に居る人間はそのまま中に隔離され、セクター外の人間は当該セクターへの進入を禁止されるの」

「なんだって……」

「当然よ。管理システムに不具合が生じるということは、管理システムがウイルスをばらまく恐れがあるということだもの」


 管理システムは管轄セクター内の住人の情報処理器官――脳を『サポート』している。しかし、それは言い換えれば『管理システムはいつでも住人の脳を支配できる』という意味でもある、とXは説明した。


「ああ、俺は、どうすれば……」


 力なく首を前に垂れるCIEL。彼の脳裏には『ある人物』の姿がちらついていた。


「そうね――方法がないわけではないわよ」

「本当か!」

「ええ。付いてきて」


 Xが路地の中へと入っていく。いくつもの分かれ道を、何の迷いもなく早足で抜けてゆくX。行き交う人々も、それに交じる動物たちも、彼らのために道を空ける。そして。


「この中よ」

「ここ、か?」


 CIELが案内されたのは、ある古びた家の前。門は崩れ、窓枠は外れ落ちている。疑うような眼差しのCIELをよそに、家の中へと入るX。


「各セクターには、何らかの理由でポータルが使用できなくなった場合でも、特定の存在だけは移動できるように、抜け道が用意されているの」


 とん、とん。Xは足で床を鳴らした。すると、床のホログラムの一部が消え、スライドドアのように開く――地下へと続く階段だ。


「こんな通路があったなんて……よし、行こう」


 二人が階段を降りると、開いていた床は閉じ、再びホログラムで覆われた。


「この通路をまっすぐ行けば、ταχύςに進入できるわ」


 真っ白い通路を進む二人。


「変な場所だな。ここは誰が管理してるんだ? 何のサポートも入ってないぞ」

「誰でもないわよ。この場所はどの管理システムにも感知されていない、空白の領域。唯一、感知できるとすれば、セクター間接続システムのBifröstビフレストくらいかしら」

「ああ、ταχύςを隔離した奴か」


 あともう少しで出口側の階段が見える――というところで、CIELの足が止まった。


「おい、嘘だろ……」


 その視線の先には、七色に輝く透き通った壁が、通路を塞ぐように展開されている。


「こんなところにまでシールドが張られているなんて。ご丁寧なことね」

「丁寧どころじゃないぞ。このシールドは――」


 CIELが絶望にふらつく。


「どうかした?」

Sanctuaryサンクチュアリだ。このシールドは、絶対に破れない……」


 『聖域』と名付けられたこれは、この宇宙に存在するいかなるものでも破壊できない、万物を拒絶する盾。ゆえに、このシールドを破壊することは不可能。それは彼自身が一番よく分かっていた。なぜなら、このシールドを開発したのは、セクターταχύςの管理者、AIONなのだから。


「くそ、開け、開け!」


 CIELは何度もシールドを殴るが、そのたびにシールドは、こん、と軽い音を返すだけだ。


「なんで、どうしてだよ……」


 息を切らし、肩で呼吸をするCIEL。微かに両腕が震えているのが見える。それが痛みによるものなのか、怒りによるものなのか、あるいは別の何かによるものなのかは分からない。


「ねえ、あなたはどうしてそこまでするの?」


 ふいに、Xが問う。


「この様子だと、ταχύςは『滅亡処理』をされるでしょう。けれど、もし全てが抹消されても、神の力によって環境は即座に再生されるし、消失した『魂』もSAMSARAのデータベース上から完全に復元される。つまり、全てが元通りになるのよ。そこに何の問題があるというの?」


 セクターに修復不能な障害が発生した際、そのセクターは周囲の空間ごと切り離され、別宇宙に転送――廃棄処分される。そして、廃棄されたものは転送時に生じる強い重力と摩擦により、完全に粉砕され、跡形もなく消え去る。それが『滅亡処理』だ。


「セクターの異常なら、管理システムの判断に任せればいい。管理システムの異常なら、それを管理する神の判断に任せればいい。人間の意志など、神の理論の前では無意味なのだから」


 Xは感情を含めずに言う。


「いや、駄目だ。それが神の判断だろうと、人間は『来るべき時』のためにEARTHに居るんだぞ。それに、同じ魂、同じ遺伝子、同じ姿を持っていても、それは本当に本人なのか? 物だって同じだ。自分が大切にしていたものが壊れたからって、全く同じものを手に入れても、それはもう別の個体だろ?」


 CIELの眼差しに、悲しみの色が滲む。


「それは人類の情緒を管理するために与えられたファンタジーよ。確かに人間の力では、別個体と認識されるものしか作れない。けれど、神なら本当に、完全に同一の個体を創り出せる。それが神の力なのよ。それに――」


 Xは腕を組み、天井を見上げた。


「限りなく人間に近づいたアンドロイドは、人間と呼んでも良いのかしら。反対に、限りなくアンドロイドに近づいた人間は、人間と呼んでも良いのかしら。いえ、むしろ私はこう思うわ――初めから、この世界に人間なんて居なかったんじゃないかって」


 その言葉には、虚しさや悲しみのような、例えようのない感情が含まれていた。CIELの視線が揺らぐ。


「私たちが人間だと思っているものは、『自分は人間である』という認識を埋め込まれた、ただの機械なのよ。だって、神は『機械』が何を指すか定義していないでしょう? 私たちが心や魂と呼んでいるものは、所詮は脳という情報処理器官の中で生成される、特有の代謝物。人類に『来るべき時』なんて来ない。なぜなら、『人類』など、初めから存在しないのだから」


 しばらくの間、沈黙が流れる。


「ああ、そうだな。確かにそうだ――」


 CIELが呟く。


「でも、それでいいんじゃないか? 確かに人間は機械かもしれないし、心も魂もただのデータで、何の価値もないかもしれない。それでも、人間は――俺たちは、今こうして生きてるんだ。例え創られた感情だろうと、今ここで生きてる自分だけが本物なんだ。俺は、そう思うよ」


 そう言う彼の眼の奥には、何か輝くものが宿っていた。Xはその輝きを見て、静かに、目の色を変えた。


「そう。分かったわ――CIEL、そこをどいて」


 Xがシールドに向かって走り出す。ぱん。乾いた音が響く。空気が裂ける際に生じる破裂音だ。見ると、Xのパワードスーツが異様に肥大している。パワードスーツが、フレームの筋力をサポートしているのだ。ホログラム・ドレスはいつの間にか解除されていた。


「うわっ」


 どん。音速を超える拳がシールドに突き立てられる。衝撃が空間を歪め、CIELを転ばせた。耳を引き裂くような轟音、駆け抜ける衝撃波。万物を拒絶する盾は、ガラスの軋むような音を立てて震える。そして――


「ふう。確かに、素晴らしい性能を有しているわね。まさしく、Sanctuaryと呼ぶに相応しいものだわ」


 『聖域』は破れた。Xのパワードスーツが、空気の抜けるような音とともに冷却を始める。


「な、なんだって……どういう、ことだ?」

「まあ、細かいことはいいでしょう? それより――行くわよ」

「お、おう!」


 出口へ向かって走り出すCIEL。その後ろ姿を見て、Xはそっと微笑んだ。


「まさか、あの人以外にも存在するなんてね。人間を愛するあまり神性を捨てた、堕天使のような存在が」


 その言葉は誰にも届かず、ひっそりと空中に溶けて消えた。

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