第4話 OMEN (迫る絶命の足音)
「ああ、また虹だ……今度は何だ?」
デバイスを操作し、速報を表示する。
≪セクター
速報を見た人々がざわつく。
「事故? 犯罪? って何のこと?」
「事故っていうのは、思いもよらず物やフレームが傷つくことだよ。乗り物のサポートが急に切れて壁にぶつかっちゃうとか。犯罪っていうのは――」
「嘘でしょ? そんなこと、あり得ない!」
神により『完美なる世界』が完成し、人類の願いが完全に成就した今、事故や犯罪という概念そのものを知らない者も多い。つまり現代の世界においてそれらの事柄が生じることは、極めて非現実的、すなわち異常なことなのだ。
「大変なことになっているわね。事故や犯罪なんて、もう1000年は見ていないわよ」
「……ど、どういうことだ? ταχύςの管理システムは最新だぞ?」
「最新だからこそ、保証するものが何も無いのよ。『最新』が『最高』であるとは限らないわ」
CIELの顔が青ざめる。
「でも、最新って言っても、中身はEclipseと大して変わらないはずなのに……」
「かつて、ある人間は
動揺を隠しきれないCIELに対し、あくまで冷静沈着なX。
「それにしても、こんな短期間で――いや、それより、早く行かないと!」
「行くって、どこへ?」
「決まってるだろ、ταχύςにだよ!」
そう言って、セクター間を繋ぐポータルへ向かうCIELだが。
≪セクターταχύς …… 移動不可≫
「無駄よ。管理システムに不具合が生じた場合、その時点でセクター内に居る人間はそのまま中に隔離され、セクター外の人間は当該セクターへの進入を禁止されるの」
「なんだって……」
「当然よ。管理システムに不具合が生じるということは、管理システムがウイルスをばらまく恐れがあるということだもの」
管理システムは管轄セクター内の住人の情報処理器官――脳を『サポート』している。しかし、それは言い換えれば『管理システムはいつでも住人の脳を支配できる』という意味でもある、とXは説明した。
「ああ、俺は、どうすれば……」
力なく首を前に垂れるCIEL。彼の脳裏には『ある人物』の姿がちらついていた。
「そうね――方法がないわけではないわよ」
「本当か!」
「ええ。付いてきて」
Xが路地の中へと入っていく。いくつもの分かれ道を、何の迷いもなく早足で抜けてゆくX。行き交う人々も、それに交じる動物たちも、彼らのために道を空ける。そして。
「この中よ」
「ここ、か?」
CIELが案内されたのは、ある古びた家の前。門は崩れ、窓枠は外れ落ちている。疑うような眼差しのCIELをよそに、家の中へと入るX。
「各セクターには、何らかの理由でポータルが使用できなくなった場合でも、特定の存在だけは移動できるように、抜け道が用意されているの」
とん、とん。Xは足で床を鳴らした。すると、床のホログラムの一部が消え、スライドドアのように開く――地下へと続く階段だ。
「こんな通路があったなんて……よし、行こう」
二人が階段を降りると、開いていた床は閉じ、再びホログラムで覆われた。
「この通路をまっすぐ行けば、ταχύςに進入できるわ」
真っ白い通路を進む二人。
「変な場所だな。ここは誰が管理してるんだ? 何のサポートも入ってないぞ」
「誰でもないわよ。この場所はどの管理システムにも感知されていない、空白の領域。唯一、感知できるとすれば、セクター間接続システムの
「ああ、ταχύςを隔離した奴か」
あともう少しで出口側の階段が見える――というところで、CIELの足が止まった。
「おい、嘘だろ……」
その視線の先には、七色に輝く透き通った壁が、通路を塞ぐように展開されている。
「こんなところにまでシールドが張られているなんて。ご丁寧なことね」
「丁寧どころじゃないぞ。このシールドは――」
CIELが絶望にふらつく。
「どうかした?」
「
『聖域』と名付けられたこれは、この宇宙に存在するいかなるものでも破壊できない、万物を拒絶する盾。ゆえに、このシールドを破壊することは不可能。それは彼自身が一番よく分かっていた。なぜなら、このシールドを開発したのは、セクターταχύςの管理者、AIONなのだから。
「くそ、開け、開け!」
CIELは何度もシールドを殴るが、そのたびにシールドは、こん、と軽い音を返すだけだ。
「なんで、どうしてだよ……」
息を切らし、肩で呼吸をするCIEL。微かに両腕が震えているのが見える。それが痛みによるものなのか、怒りによるものなのか、あるいは別の何かによるものなのかは分からない。
「ねえ、あなたはどうしてそこまでするの?」
ふいに、Xが問う。
「この様子だと、ταχύςは『滅亡処理』をされるでしょう。けれど、もし全てが抹消されても、神の力によって環境は即座に再生されるし、消失した『魂』もSAMSARAのデータベース上から完全に復元される。つまり、全てが元通りになるのよ。そこに何の問題があるというの?」
セクターに修復不能な障害が発生した際、そのセクターは周囲の空間ごと切り離され、別宇宙に転送――廃棄処分される。そして、廃棄されたものは転送時に生じる強い重力と摩擦により、完全に粉砕され、跡形もなく消え去る。それが『滅亡処理』だ。
「セクターの異常なら、管理システムの判断に任せればいい。管理システムの異常なら、それを管理する神の判断に任せればいい。人間の意志など、神の理論の前では無意味なのだから」
Xは感情を含めずに言う。
「いや、駄目だ。それが神の判断だろうと、人間は『来るべき時』のためにEARTHに居るんだぞ。それに、同じ魂、同じ遺伝子、同じ姿を持っていても、それは本当に本人なのか? 物だって同じだ。自分が大切にしていたものが壊れたからって、全く同じものを手に入れても、それはもう別の個体だろ?」
CIELの眼差しに、悲しみの色が滲む。
「それは人類の情緒を管理するために与えられたファンタジーよ。確かに人間の力では、別個体と認識されるものしか作れない。けれど、神なら本当に、完全に同一の個体を創り出せる。それが神の力なのよ。それに――」
Xは腕を組み、天井を見上げた。
「限りなく人間に近づいたアンドロイドは、人間と呼んでも良いのかしら。反対に、限りなくアンドロイドに近づいた人間は、人間と呼んでも良いのかしら。いえ、むしろ私はこう思うわ――初めから、この世界に人間なんて居なかったんじゃないかって」
その言葉には、虚しさや悲しみのような、例えようのない感情が含まれていた。CIELの視線が揺らぐ。
「私たちが人間だと思っているものは、『自分は人間である』という認識を埋め込まれた、ただの機械なのよ。だって、神は『機械』が何を指すか定義していないでしょう? 私たちが心や魂と呼んでいるものは、所詮は脳という情報処理器官の中で生成される、特有の代謝物。人類に『来るべき時』なんて来ない。なぜなら、『人類』など、初めから存在しないのだから」
しばらくの間、沈黙が流れる。
「ああ、そうだな。確かにそうだ――」
CIELが呟く。
「でも、それでいいんじゃないか? 確かに人間は機械かもしれないし、心も魂もただのデータで、何の価値もないかもしれない。それでも、人間は――俺たちは、今こうして生きてるんだ。例え創られた感情だろうと、今ここで生きてる自分だけが本物なんだ。俺は、そう思うよ」
そう言う彼の眼の奥には、何か輝くものが宿っていた。Xはその輝きを見て、静かに、目の色を変えた。
「そう。分かったわ――CIEL、そこをどいて」
Xがシールドに向かって走り出す。ぱん。乾いた音が響く。空気が裂ける際に生じる破裂音だ。見ると、Xのパワードスーツが異様に肥大している。パワードスーツが、フレームの筋力をサポートしているのだ。ホログラム・ドレスはいつの間にか解除されていた。
「うわっ」
どん。音速を超える拳がシールドに突き立てられる。衝撃が空間を歪め、CIELを転ばせた。耳を引き裂くような轟音、駆け抜ける衝撃波。万物を拒絶する盾は、ガラスの軋むような音を立てて震える。そして――
「ふう。確かに、素晴らしい性能を有しているわね。まさしく、Sanctuaryと呼ぶに相応しいものだわ」
『聖域』は破れた。Xのパワードスーツが、空気の抜けるような音とともに冷却を始める。
「な、なんだって……どういう、ことだ?」
「まあ、細かいことはいいでしょう? それより――行くわよ」
「お、おう!」
出口へ向かって走り出すCIEL。その後ろ姿を見て、Xはそっと微笑んだ。
「まさか、あの人以外にも存在するなんてね。人間を愛するあまり神性を捨てた、堕天使のような存在が」
その言葉は誰にも届かず、ひっそりと空中に溶けて消えた。
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