第4問
不意に激しく打ちつける雨音が聞こえてきた。
私はベッドの上から首だけを傾けて窓越しに空を眺める。
大粒の雨が窓を叩いていた。
朝見た天気予報では雨は明日の未明からだと言っていたが、どうやら外れたようだ。予定より早く降り出したのかもしれないし、夏のゲリラ豪雨かもしれない。
私は見ていたテレビを止めて、目を閉じ雨音に耳を傾けた。
雨が好きだった。
湿った、重い空気。他の音を飲み込む、激しくも単調な雨音による擬似的な静寂。夜の黒い闇とは少し違った青とも灰色とも言えない薄暗い世界の色。その全てが好きだった。
後、何度雨の日を過ごすことができるだろう。今日が最後になるかもしれない。そんなことを考えながらもう一度窓から空を見る。雨に彩られた世界を心に焼き付ける。
私はもうすぐ死ぬ。
私は数ヶ月前からターミナルケアを目的に病院の個室にいた。
初めて死を宣告され、余命を告げられたとき、特に感慨はなかった。
私は四十歳で家族はいない。果たすべき人生の目的もなく、安寧に過ぎる日々を一人で生きていた。
そんな生活に不満はなかった。しかし何か焦りのようなものは感じていた。
目的のない人生はゴールのない持久走に似ていた。
私は人生という荒野の中、一人当てもなく走っていた。
だから私にとって死の宣告はむしろ救いだったのかもしれない。
死は明確なゴールだった。
死の宣告を受けてから私は、ゴールに向かってまっすぐに生きることができた。
何の焦燥も感じることはなかった。残りの人生はわずかなのだから楽しむだけでよかった。
幸い私は独身貴族で、お金だけはそれなりに持っていた。
だから病院で個室を借りて、動画配信サービスで大好きな映画や海外ドラマを見るだけの生活を満喫した。
そして初めに告げられた余命を少し過ぎた昨日のことだった。私はある異変に気が付いた。
部屋の隅、ベッドで横になる私が足を向けているほうの窓の横。そこにそれはいた。
それは私にしか見ることのできないちょうど人間くらいの大きさの黒いもや。
それは昨日からずっとそこにいる。医師が部屋に入ってきてもそれは微動だにしないし、看護師が窓のカーテンを開けるため、そこに立ったときも何も起きなかった。
それはただそこにいるだけだ。そこにいてじっと私を見ている。悪意や邪悪な気配などは特に感じないので、たぶんそれは悪い霊ではないだろう。
そうなると考えられるのは死神だ。それは私の死を待つ死神に違いない。死んだ私の魂を死後の世界へと導くために遣わされた神聖な存在。
私はそんなふうに考えて、それを気にしないことにした。
だから私は今日もテレビを見る。
今見ているのは海外ドラマによくある、刑事と特別な力を持った人物がバディを組むサスペンス。
よくある設定ではあるが、この作品はちょっととんがっている。ダメ刑事とダメ刑事を助けるために孫が未来から送ってきた刑事型ロボットのコンビで、刑事型ロボットが様々な未来の道具を使って、ダメ刑事が事件を解決するのを手伝うのだ。
もちろんダメ刑事は眼鏡で、射撃の腕だけは超一流。刑事型ロボットはお腹のポケットから、名前を叫びながら未来の道具を取り出す。
訴えられないのが不思議なレベルの作品だ。
ただストーリーは秀逸で、個性豊かなキャラクターたちが織り成す物語に毎話感動させられる。
死ぬまでにこのドラマを最後まで見るのが私の今の目標だ。
1シーズンが20話で全5シーズン。ファイナルシーズンだけは10話。今見ているのが2シーズンの12話なので先はまだ長い。
死神が現れたということは、いよいよ私の死は目前に迫っているのだろうから急がないといけない。
そして12話が終わって、エンディングを飛ばし次の話を見ようとリモコンを操作していたときだった。部屋にドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
私はテレビを止めて、返事をした。
ドアを開け、一人の男が入ってくる。
見知らぬ男だった。医師や看護師でもない。
しかし私には一目で何者かがわかった。男は修行僧に違いない。頭には藁でできた傘のような帽子。無精髭をはやし袈裟を着て、手には何かじゃらじゃらしたわっかのいっぱいついた杖まで装備している。
男は私のベッドの前まで来ると、顎の下の紐を解き帽子を脱ぐ。年齢は私と同じくらいだろうか、男はとても精悍な顔立ちをしていた。
そして男は言った。
「あなたはそれが見えていますか?」
それとはもちろんあの黒いもや……死神のことだろう。男が杖を向ける先にそれはいた。
「はい」
私は頷いた。
「あなたはそれが怖くないのですか?」
「はい。私はもう自分の死を受け入れています。それが私を死の国へと誘うのであれば、従うだけです」
「なるほど。あなたはそれを天国へ導く死神のようなものだとお考えなのですね」
「はい」
「残念ながら、それはそのようなものではありません」
「じゃあ、何なのですか?」
「見たところ、それから強い力は感じません。それはあなたを死に至らしめる悪霊ではないでしょう。それは天へと昇る道にさまよった魂です」
「どういうことですか?」
「詳しく説明しましょう。椅子をお借りしてもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ、座ってください」
「ありがとうございます」
そう言って椅子に座ると、男は話しを続けた。
「人が死ぬと、天へと至る道が開きます。それは光の柱、天へと続くエレベーターのようなものであると言われています。それによって死者の魂は天へと導かれるのです。ただそのシステムには少し欠陥があるのです。そのエレベーターに乗ることができる魂は一つだけで、その一つが今死んだ者の魂に限定されていないという点です。だからもしあなたが亡くなって、天への道が開かれてもその道を行くのがあなたの魂ではなく、そこにいる魂でもいいということなのです」
「……!」
驚きで声も出ない。男が言っていることが真実である確証はないが、それでも辻褄の合う説明だった。
「それはそういうものです。あなたの死を待ち、あなたに成り代わって天へ至ろうとしている死者の魂の成れの果てです」
「いったいどうしてそんなことに?」
「先ほども言ったように、このシステムには少し欠陥があります。災害や事故、戦争などで多くの死がいっぺんに訪れたとき、天への道が死者の数に合わず魂があぶれることや、死者があまりに強い感情で現世に執着すると、その魂を天へと運ぶことなく道が閉じてしまうようなこともあるのです。そうして現世に取り残されてしまった魂こそがそれ、霊と呼ばれるものの正体なのです」
男の話に耳を傾けながら私はそれへと視線を向ける。こんな話をしているにもかかわらず、それは何も変わらずそこにいた。
「霊は一様に天に至ることを望んでいます。だから霊は死の香りのするところに集まります。それで病院などには霊が多いのです。そしてもう一つ。悪霊などと呼ばれるものはその霊自体が特別なのではなく、場所が原因です。悪霊の現れるような場所は魂に力を与えるような力場で、そこに集まった霊は力を得て、人を死に至らしめ無理矢理天への道を開こうとします。事故の多い場所や、心霊スポットなどがその類です」
「なるほど……でもそうなると、今そこにいるそれもこの病院で死に、入れ替わられた被害者という可能性もあるんじゃないですか?」
「もちろんです。その可能性は高いでしょう。その点は同情します。しかしだからといって、あなたが入れ替わられていい理由にはなりません」
そう言って男は立ち上がる。そして明るい口調で言葉を続けた。
「ということで、除霊しましょう」
「できるんですか?」
「ええ。もちろんです」
「除霊すると、それはどうなるんですか?」
「流石に私には霊を天へと導くことはできません。だから霧散させます」
「それは被害者でもある霊に対して、あまりにかわいそうでは……」
「いえ、そうでもありません。私も実際に体験したことではないので絶対だと言い切ることこそできませんが、私の知るところによれば天に至った魂は霧散し星に還るそうです。ですから天に昇るという過程を飛ばすだけで、特に問題はないはずです」
「なるほど。そうなんですね」
「はい。ですからあなたが気に病む必要はありません」
「わかりました。ではお願いします」
そう言ってしまってから気付いた。除霊した後、法外な請求を受けるようなことはないだろうか。
男は人の良さそうな顔をしているが、あり得ない話ではない。だから確認する。
「あ! あの……費用とかはどれくらいなんですか?」
「いえいえ……お金なんて取りませんよ。これも修行の一環です」
男は笑顔でそう答えた。
「流石にそういうわけには」
「まぁ、そういった話は霊を祓ってからにしましょう」
そう言って男は大きく息を吸い、霊の方を向く。そして一言。
「滅却せよ」
あまり大きな声ではなかった。しかし力のこもった強い言葉。
その言葉を受けた霊の黒いもやは少しずつ薄くなっていき、もつれた糸がほどけるように霧散した。
「もう……終わったんですか?」
あまりにあっけなかった。
「はい。除霊には成功しました」
「お経とかを唱えるんじゃないんですね」
「実のところ、お経でも聖書の言葉でも何でもいいんです。大切なのは意思を込めて言葉を紡ぐことで、霊を祓おうとか、憑かれている人を助けようという想いこそが重要なんです。悪霊でない霊はとてもおぼろげな存在なので生者の強い意思を込めた言葉で祓うことができるんです」
「それは私なんかでも、できちゃったりはするんですか?」
「無理だと思います。邪念なく一つの想いだけを言葉に乗せて紡ぐことは簡単なことではありません」
「なるほど」
「では最後に仕上げを」
そう言うと男は消臭スプレーを取り出して、霊がいたところに吹きかけた。シュッシュッシュと同じ場所に何度か吹きかけた後、部屋中に吹きかけていく。
フローラルな香りに部屋が包まれる。
「これは霊避けです。盛り塩みたいなものですね」
「特別な、聖水みたいなものが入っているんですか?」
「いえいえ。どこでも売っている普通の除菌もできる消臭スプレーです」
「そんなものが霊に効くんですか?」
「はい。部屋中にスプレーしておけば三日くらいは霊がよってきません。祓うことこそできませんが、霊に直接スプレーすれば悪霊でなければ追い払うくらいはできます」
「どういう原理なんですか?」
「原理は私にもわかりません。ネットで見かけて、試してみたら効果があったので使わせてもらっているだけです」
「ネットでですか……」
こんなところにまで近代化の波が訪れていることに驚いた。
「はい。そもそも盛り塩もなぜ効くのか、確かな原理がわかっているわけではないですからね。私たちは先人の知恵にあやかっているだけです」
「なるほど。本当にありがとうございました。それで謝礼の方は」
「本当はいらないのですが。どうしてもというのであれば……そうですね。この消臭スプレーを置いていきますのでワンコインの五百円で」
「ええ? 流石にそれは……」
「じゃあ、消費税込みで五百五十円にしましょう」
「本当にそれだけでいいんですか?」
「はい。消臭スプレーは二日に一回くらいの頻度でやっておくと安心です。それでは私はこのへんで失礼します……お大事に」
そう言って男は深々と頭を下げて去っていった。
男が去ってしまってから、私は恩人の名前を聞いていないことに気付いた。
しかしそれでよかったのかもしれない。そのこともふくめて、今回の出来事はまるで映画のような体験だった。
私はホラー映画も好きでよく見る。しかし怖い思いをしたいわけでも、グロテスクな映像が見たいわけでもない。
私には面白いホラー映画は上質のSFでもあるという持論があった。つまるところ私がホラー映画に求めるものは辻褄の合うシステムだ。霊にまつわるシステムを解き明かし、解決に導くタイプの映画が私は好きだった。
そう考えると今回の体験はホラーでありながらSFでもあった。霊や死にまつわるシステムを垣間見ることができた。それが面白かった。
先ほどまで霊がいた部屋の隅を見る。もうそこには何も見えなかった。
次に視線を窓の外へと向ける。まだ空は暗いがいつの間にか雨は止んでいた。
雨音も聞こえなくなった静かな病室の中、胸を打つ鼓動を感じた。
私はまだ生きている。
だからドラマの続きを見よう。私はテレビを見上げ、リモコンの再生ボタンを押した。
☆ ☆ ☆
答えは来週です! しかし書いてから気付いたのですが、答えの状況が特殊すぎて正解を導き出すのは難しすぎるかもしれません。答えを読んで、なるほどなくらいの感覚で読んでもらえたら幸いです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます