11.引っ越しと挨拶

 週末土曜日の朝、私が家でまったり、のんびり、だらけていたときのこと。ふと外が騒がしくなっていることに気づいた。聞こえてくるのは知らない男の人とこのアパートの大家さん──千恵美ちえみさんの話し声。二人はかなり親しげな様子で雑談の花を咲かせている。


「千恵美さんの親戚か誰かでも来たのかな?」


 お気に入りのマグカップ片手に興味本位で家の窓から覗き見しようとしたその瞬間、窓の外から聞き覚えのある名前が聞こえてきた。


「伊織君! 久しぶりね、私のこと覚えている?」

「お久しぶりです、千恵美おばさん。昔によく遊んでもらいましたよね」

「そうそう、覚えててくれたのね。それにしても随分と大きくなったわね」

「そうですね、もう何年も経ってますから」


 聞き覚えがあるのは名前だけじゃない。普段と違い敬語であるが声も確かに聞き覚えがある。というかこの声は桜田だった。思わず飲み物を吹き出しそうになるが必死に堪える。それよりもなんで桜田がここに、と考えたところですぐに先日のことが思い出された。


「そういえば引っ越すとかなんとか言ってたっけ」


 確か彼は私の住んでいるアパートの一階に引っ越すと言っていた。恐らく今日がその日なのだろう。それにしてもいきなりやってくるとはなんと心臓に悪い男か。


「じゃあ姉さん、伊織のことは頼んだよ。僕はもう行くからね」

「言われなくても分かってるよ、浩司。くれぐれも気をつけるんだよ」


 千恵美さんの声に答える浩司と呼ばれた男は短く返事をすると一人車に乗り込む。それから車のエンジン音が辺りに鳴り響き、少しするとそのエンジン音も遠くに小さく聞こえるだけのものとなった。


「大きい荷物は大体運んだと思うけど、後は大丈夫かしらね?」

「はい、大丈夫です。ご迷惑お掛けしました」


 千恵美さんの言葉に桜田は一言だけ返事をするとそれから自分の部屋にでも入ったようで私の部屋からは彼の姿が見えなくなった。

 彼を見届けた私は一旦窓から離れて近くにあった椅子に座る。


「それにしても今日引っ越すなら連絡くらいしてくれたっていいじゃない」


 わざわざ連絡先まで教えたのにこれでは全く意味がない。何のために私の連絡先を教えたというのか。

 いや別に連絡してきて欲しいとかそういうことじゃない。ただ単純に連絡先の教え損だという話である。


 そんなことを思っていた矢先、私の携帯からメッセージアプリの通知音が鳴り響いた。誰からかは大体予想出来るので特に驚きはしない。寧ろ今かよと心の中で悪態をついていたくらいだ。

 一応誰からの通知かを確認するため携帯のメッセージアプリを開くと案の定、送られてきたメッセージはあの男からのものだった。


『引っ越しが終わった』


 メッセージはたったそれだけで反応に困ってしまう。一体どう返せばいいのか。『あっ、そうですか』とでも返せば良いのか。

 しばらく無駄に考えていると次なるメッセージが届く。


『今から挨拶に行く』

「えっ!? 今から?」


 突然の訪問を知らせる内容に思わず声に出して驚くと、その声に合わせてインターホンの音が部屋で鳴り響いた。メッセージのタイミング的にあの男で間違いないだろう。

 だが今は出ることが出来ない。髪はボサボサ、服だってまだ部屋着のままなのだ。急いで外出用の服に着替えて髪を整える。約五分で全ての準備を終わらせ玄関のドアを開けるとそこにはあの男ではなく、笑顔の千恵美さんがいた。


「随分と遅いと思ったけどもしかして寝てたのかしら? 起こしてしまってごめんなさいね」

「いえ、大丈夫です。それより何か用事ですか?」

「そうそう用事があるのよ。ちょっと待っててね」


 なんだか嫌な予感がするのは気のせいだろうか。一抹の不安と共に玄関先で待機すること三十秒、再び千恵美さんが戻ってくると彼女の隣にはあの男がいた。


「紹介するわね。この子が私の甥っ子の伊織君よ。確か花蓮ちゃんと同い年なのよ。今日ここに引っ越してきて色々分からないこともあると思うから色々フォローしてあげてね」


 嫌な予感は気のせいじゃなかった。まさかこの男の面倒を見ることになるなんて。断りたいが千恵美さんの手前断れない。


「よろしく、有栖川」

「うん、よろしくね。桜田君」


 挨拶をしあう私達を見て千恵美さんはニヤニヤと何かを疑うような笑みを浮かべる。


「もしかして二人は知り合い? それに随分と親しげに……!? もしかして二人は恋人同士とか? あらやだ、だとしたら私はお邪魔だったかしらね」

「違いますよ、千恵美さん。彼とは友達というか、ただのクラスメイトです」

「そう?」


 うふふとまだ完全に興味を失っていない様子を見る限り、私の言葉は千恵美さんに届いていないのだろう。

 それにしてもこの無表情男と恋人同士に見えるなど私に対する侮辱だ。表面上では笑顔を浮かべていたものの、内心で黒い何かが渦巻く。


「じゃあ私はもう行くわね」


 そんな私の内心など知らないであろう千恵美さんはそれから『あとは若い二人でごゆっくり』とだけ言い残し、にこやかな笑みを浮かべて去っていく。

 彼女が去った後に桜田の方を見ると彼は尚、無表情だった。


「なんで私に加勢してくれなかったの?」


 そんな彼の無表情にイラッときて、思わず何故千恵美さんにかけられた疑いを一緒に晴らしてくれなかったのか理由を問い詰めると桜田は諦めたような表情でポツリと呟いた。


「おばさんにあれ以上何を言っても無駄だったからな。それに否定すればするほどあの人は疑ってくる。何も否定しないのが一番被害がない」


 親戚だから知っているとでも言いたいのだろうか。そんなことを言われては何も言い返せない。


「……それなら仕方ないかもね」

「そうだ、仕方ない」


 とここで小さな疑問が頭の中に浮かぶ。


「そういえば千恵美さんと桜田君って親戚なんだよね?」

「そうだが」

「なんでここに引っ越すことになったの?」


 先程浮かんだ疑問を桜田にぶつけると彼は何でもないことのように答えた。


「ああ、それは単純に親の転勤だ」


 転勤、なるほどそういう事情だったか。わざわざここに引っ越してきたのも親戚が管理しているからなのだろう。


「でも一緒に行こうとは思わなかったの? わざわざ一人暮らしなんて」


 そう、わざわざ一人暮らしをしてまでここに引っ越してきた理由が分からない。人には話せない何か特別な事情があるのかと思ったが桜田は無表情のまま口を開く。


「それは有栖川と会えなくなるからな」


 もしかしたら私はとんでもないことを聞いてしまったのかもしれない。

 咄嗟に告白ですか? と聞き返しそうになるが彼に限ってそんなことはないだろうとすぐに思いとどまる。だがそれでも、誰がどう聞いても彼の言葉は告白と呼ばれる類いのものだった。

 そんなことを無表情で言えるとはこの男の神経はもしかしたらどうにかしているのかもしれない。だが私はそれを言葉にして相手に伝えることはしなかった。代わりに努めて笑顔で一言だけ返事をする。


「そっか」


 そんな私の返事に桜田の眉が一瞬だけピクリと動いたような気がしたが、きっと気のせいだろう。

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