繰り返す悪夢

 ベッドの軋む音と、女のがり声が聞こえてきた。薄い壁に隔てられた、薄暗い宿屋の一室。隣の部屋からその音と声は聞こえてきているようだ。

 その瞬間、俺は理解する。


(ああ、またあの夢か……)


 毎晩毎晩味わった悪夢のような現実。それから解放されたはずなのに、今度は悪夢となって、俺の夢の中で再現されるようになった。見る回数はそれほど多くないけれど、何日かに一回、眠りが浅い場合や寝不足が続いた時に見る。

 その悪夢では、まるで呪いなのかと思うような時間が続いていた。

 肉と肉の打ち当たる音、幼馴染シエルの嬌声、熱い吐息の漏れる音と彼を求めるような言葉……そんなものが、ずっと隣の部屋から聞こえてくる。

 部屋から出ようとしても無駄だ。部屋は外から施錠されている。これも、再現されていた。そう、実際にこれを経験した時も、外から施錠されていて、逃げる事は許されなかった。勇者マルスは、俺にこの音と声を聴かせたかったのだろう。

 俺が眠る事を許されたのは、彼らの行為が終わった後だった。


『ほら、もっと幼馴染にお前の声を聞かせてやれよ』


 そんな勇者マルスの声が聴こえ、肉のうち当たる音が早くなると同時に、シエルの声が大きくなる。きっとわざとこちらの壁の方に向かせたのだろう。その時の彼女の声は、ずっと一緒にいたのに、これまでに聞いた事もないような声だった。

 その声を聞きたくなくて、彼女と過ごした時間を思い出したくなくて、耳を塞ぐ。しかし、夢だからだろうか。どれだけ耳を塞いでも、頭の中に直接彼女の声が流れ込んでくる。あの時に味わった屈辱と悔しさと絶望感が、胸の中を満たしていった。


(もうこの夢を見ても、何ともないはずなんだけどな……)


 震える手で自分の髪の毛を掴んで瞳を閉じる。今はここにいない、銀髪の少女の事だけを思い浮かべて、頭の中に流れてくる幼馴染の嬌声を遮断しようと試みた。

 しかし、夢の中だからか、この時の俺がまだ彼女と出会ってなかったからなのかはわからないが、上手く思い浮かべられない。

 角があって、翼があって、宝石みたいにキラキラ光る紫紺の瞳があって、真っ白い肌で……こうして単語として思い浮かべる事はできるのに、肝心の姿がぼんやりとしていて、思い浮かべられない。


『ほら、そんなんじゃアレクに届かないぞ!』


 マルスのそんな言葉と、それを嫌がりつつも受け入れているシエルの声が聞こえてきた。

 嫌と言っている割に快楽に喜んでいるとしか思えない幼馴染の声に、うっすらと頭に浮かんでいた銀髪の少女が掻き消された。

 どす黒い怒りと悲しみが全身に溢れ返ってきて、誰を怨んでいいのかわからなくなる。奪うマルスなのか、そんなマルスに良いようにされているシエルなのか、はたまたそれを打ち崩す力を持たない弱い自分なのか。

 ただただ強い怒りと悲しみと苦しさに心が満たされていく。自らの感情までも、あの時と同じ様に再現されているようだった。


(いつになったらこの夢は見なくなるんだよ!)


 復讐すれば、勇者から全てを奪えば、この夢は見なくなるだろうか。解放されるのだろうか。

 悪夢と言っても、所詮は夢だ。目が覚めて、最愛の人を見れば知らない間に忘れてしまっている。しかし、忘れた頃にこうしてまた夢となって現れてくるからたちが悪い。

 目が覚めれば最愛の人が隣にいるはずなのに。早く目覚めてその人を見たいのに、薄暗い宿屋から一切動けない。


(ティリス、どこだよ……!)


 自分が与えた名を呼んだ。彼女を呼ぶ事でこの悪夢に耐え忍ぶしかなかった。

 会いたい。早く会いたい。早くここから救い出してくれ、ティリス──そう念じた瞬間だった。

 開かなかった部屋の扉がいきなりばたんと開かれた。部屋の外から光が流れ込んできて、扉の前には一人の女の子が立っていた。光が逆光となっていて、その姿が確認できない。確認できないけれど、うっすらと角と翼のシルエットが見えて、一気に心が安堵で満たされていくのを感じた。

 そこに立っていたのは──。


「──ク様! アレク様!」


 慌てた女の声と肩をぐらぐら揺すられる感覚で、一気に意識が現実へと戻されるのを感じた。

 ゆっくりと瞳を開けてみると、心配そうにこちらを覗き込む紫紺の瞳、さらさらと流れる銀髪、真っ白な肌、山羊みたいな角が同時に視界に入ってきた。もちろん、俺の最愛の人だ。


「アレク様、よかった……大丈夫ですか?」


 銀髪の美しい少女は、ほっと安堵したように微笑みかけてくれた。布を出して、俺の額の汗を拭いてくれている。


「悪い……ありがとう。俺、またうなされてた?」


 馬車の外からは、まだ光が差し込んでいない。気温の低さから、おそらく今は夜明け前だろう。

 俺は大きく息を吐いて、ティリスの胸にとんと額を当てた。

 夢とわかっていても、あの空間はきつい。夢じゃないのかと不安になってきてしまうのだ。だからこうして、現実に戻ってきて、目の前にティリスがいてくれる事で心底安心する。


「はい……またあの夢ですか?」

「ああ」


 ティリスが迷ったように俺の頭をよしよしと撫でてくれる。ドス黒い気持ちで溢れていた腹の中が、すぅっと落ち着いていくのを感じた。

 彼女といれば幸せのはずなのに。身を寄せ合って眠りに落ちて、幸せだったはずなのに。またこの夢でそれまでの幸福感が帳消しにされてしまった。

 何度かこの夢でうなされている事が続き、ティリスが心配していたので、夢の内容を彼女に一度話した。それから、俺が少しでもうなされていると、いつもこうして起こしてくれるようになったのだ。

 この悪夢は、ふと忘れた頃に蘇ってくる。おそらく、俺の中にある劣等感や過去の傷が生み出している夢で……これを忘れるな、と誰かが訴えかけているのだ。それはきっと、あの宿屋で毎夜を聞かされて狂いそうな程苦しんでいた俺からのメッセージなのだと思う。この苦しみと屈辱を忘れるな、と。

 おそらく……勇者マルスへの報復を終えるまで、あの時の俺は満足してくれないのだろう。


「アレク様、横になって下さい」


 ティリスが頭を撫でるのをやめると、困ったように笑ってそう言った。


「え? ああ、わかった」


 言われた通りに横になると、ティリスも一緒に毛布を被って横になり、俺の頭を自分の胸にそっと抱え込んでくれた。彼女の体温と柔らかさ、甘い香りに包まれて、一気に心が安らいでいくのを感じる。


「夜明けまでまだもう少しあります。もし眠れそうでしたら、眠って下さい。私がこうしていますから」


 きっともう夢は見ません、とティリスは頭を撫でながら言ってくれた。


「もし夢を見ても、夢の中まで私が助けに行きます。だから、安心して眠って下さい」


 ──さっきも助けに来てくれたよ。

 そう言おうと思ったけれど、それよりも前に意識が遠のいて行った。

 優しい声と匂いに包まれて、ティリスの胸に抱かれて眠るこの瞬間こそ、今の俺の救いなのかもしれない。

 遠のく意識の中で、ふとそう思うのだった。

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