第28話 家出②

 電車に乗ること約十分。

 俺たちは海沿いのとある駅に降りた。

 駅内は夏休みだというのに意外にも閑散としていて、利用客も思っていたより少ない。

 それほど自動車やバスといった交通手段が発達したことを自らの目で実感しながらも改札口を抜けると、海を挟んだ対岸沿いには少し大きな山が見え、潮の香りがほんのりと漂う。

 さざ波の音と海鳥の鳴き声を微かに聞きながら、真夏の暑い日差しを受け、俺たちは駅舎を出ると、優樹菜に片手を引かれながら、ずいずいとどこかへ連れていかれる。


「お、おい優樹菜? 一体どこに連れて行くんだ?」


 電車に乗っているときも行き先は伝えず、ずっと窓の外を見ていた。

 せめて、行き場所くらいは教えて欲しい。

 優樹菜は俺の方に顔だけ振り向かせる。


「もう見えてますよ」

「見えてる?」


 何が? と思った瞬間、優樹菜があれですと言わんばかりにある建物を指差す。

 俺はその方向を辿りながら見て行くと……


「水族館?」


 優樹菜は立ち止まると、俺の手を解放する。


「はい。実は私、家族と一緒に水族館へ行ったことがないんです。物心が着く前はどうだったのかわかりませんが、少なくとも物心着いてからは一度も……」


 背中を向けられているため、優樹菜が今どんな表情をしているのかは確認できない。

 が、優樹菜の背中はなぜか心なしか小さく見え、声のトーンもいつもより低く感じた。

 きっと今は見せられないくらいに沈んだ表情をしているのだろう。

 優樹菜の家庭はとても過酷なものだった。

 辛いときも母さんは仕事で家を空ける毎日で、相談相手すらいなかった。

 そのことを考えると、なんだか胸の奥が苦しく感じてしまう。

 俺は、そっと優樹菜の隣に近づくと、力が抜けきった手を強く握りしめた。


「大丈夫だ。今は俺という兄がいて、同時に彼氏もいる。兄と彼氏で行く水族館なんて滅多にないことだと思わないか?」


 そう言って、優しく微笑んで見せると、優樹菜はクスッと小さく吹き出す。


「たしかにそうですね。通常の兄と彼氏であったら、気まずくなりますしね」

「そうだぞ。俺たちの特別な関係だからこそ、兄と彼氏が成り立つわけだ」


 特殊な関係と言えば、そうなんだろう。

 兄妹で付き合っている家庭なんて、全世界探しても滅多にない。

 俺は優樹菜の手を引っ張って突き進む。先ほどとは立場が真逆だ。

 そして、数分かけて歩き、水族館の入り口をくぐると、大勢の人で大いに賑わっていた。

 主に小さな子どもを連れた客が多い。まぁ、当たり前と言えばそうだろうな。

 水族館に行く人って、大体が小さな子ども連れやカップルが多い。

 小学生ならまだしも中高生、大学生、社会人で一人または友人同士で来ることはほぼほぼないに等しい。

 来場客で混雑している中で、入場料を支払い終えた俺たちは手を繋いだまま、床に貼られている矢印通りに前へ進んで行く。

 エスカレーターに乗り、薄暗い地下へと向かうと、まず最初に現れたのは壁一面に広がっている大水槽だ。


「うわぁ……」


 優樹菜は大水槽を目に、思わず感嘆な声を漏らす。


「すごいだろ? ここの大水槽は日本一なんだぞ?」


 本当のところは知らん。日本一じゃないかもしれない。

 が、俺の中ではそう思っている。なにせ、水槽の中には無数の魚が自然体のまま優雅に泳ぎ回り、マグロやエイ、イワシの群などがとても美しく見える。特にこの水族館の一番の見どころと言ってもいい全長約五メートルほどのジンベエザメもいる。こんな巨大な生き物をガラス面一枚を隔てて間近で観察できるところはそうそうないだろう。

 優樹菜は目をキラキラさせながら、幾分か魚たちを眺めている。

 その様子はまるで幼児とさほど変わらない。


「そろそろ別のところに移動するか?」

「うん!」


 それからというもの海のトンネルを通って、下から魚を観察したり、普段お目にかかることすら難しい海底生物が展示されている水槽を見たりと、さまざまな海の生物を目に焼き付けるほど見て、いろいろなフロアを周った。

 正直、水族館なんて行ってもつまらないと当初は思っていたが、案外楽しいものだな。

 俺が以前、水族館に訪れたのは十年くらい前だっただろうか? 小学校へ進学する前か後かに親父から連れて行ってもらったけな……。

 あの頃の記憶は、薄くてほとんど残っていないが、やはり大水槽を悠々に泳ぐジンベエザメとイルカショーが印象的だった。

 ……だからかもしれない。

 俺自身も各フロアを周り、多種多様な生物を見て、とても新鮮に思えた。

 優樹菜という好きな人と一緒に来れたということもあるが、あまり記憶にないから楽しめた……そうに違いない。

 最後のフロアを周り終え、そろそろ出ようかと思った時、イルカショーが開演するアナウンスが館内に流れた。


「イルカショーだってよ。見に行くか?」


 俺はそう訊くと、優樹菜は目をキラキラさせながら何度もコクンコクンと頷いてみせる。


「イルカ……テレビでしか見たことがないです」

「そっか。まぁそうだろうな。基本イルカを目にするところって水族館しかないもんな」


 もちろん海の海岸でも目にすることはできるが、あまりそのような機会がない。

 そもそもイルカは陸地近くには現れにくいしな。知らんけど。

 俺たちは一旦、外に出て、イルカショーが行われる会場へと向かう。

 その会場にたどり着くやいなや、観客で席は満席。座れなかった人たちは後ろで立って見る形になっている。

 立ったままで見るのも、結構辛いような気がするが、ふと隣を見ると、優樹菜は期待と興奮で満ち溢れた表情をしていて、いまかいまかと待ちわびている。

 こんな顔をされてはまた後で見ようだなんて、さすがに言えない。

 ――ここは我慢するか……。

 先ほどまで歩き回っていたせいもあって、足腰に鈍い痛みを感じながらも、トレーナーの入場とともに約二十分間のイルカショーが開演した。

 それにしても……俺って、足腰めちゃくちゃ弱いんだな……。まだ若い年なのに……。

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