酩酊のロギカ、素面のポエティカ

綾浮りじこ

ある学会への報告

 レーゲンヴァルトは、ジェシカの話を聞いてしばらく押し黙っていた。小娘がよくも出し抜いてくれたという怒りなのか、あるいはこの発見は生物学上の大転換につながるかもしれないという可能性に思いを巡らせているのか。おそらくは前者だろうとジェシカは踏んでいた。生物学界の権威たるレーゲンヴァルト教授の残した業績は目覚ましいものであり、とりわけ彼が齢四十にして提唱したイミノセントリスム理論は現在でもその目新しさを失ってはいない。


 だが、過去は過去だ。その業績と今の彼の考えの正当性のあいだには、何の関係もないはずだ。科学の展開において『誰』がそれを考えついたか、行ったか、証明したかということはまったくもって本質的でなく、大事なのは『何』が明らかにされたのかということだ。ジェシカはそんな素朴な哲学を抱いていた。科学者は世間一般でそうされがちであるような、理想的ロール、永遠にその価値を失わないヒーローなどではなく、いくつもの間違いを犯し、時の流れに逆らうことのできない有限の存在なのだ。


 我々科学者が生物である以上、それが避けられない事実であることは論理的に考えてすぐわかることだし、ましてや生物学者として命を縛るその掟を見てきたのであればなおさらであるはずだった。だがこの老教授は、近年目に見えて保守的な態度を取るようになっていた。ラボの部下や学生たちが挑戦的なテーマを掲げることに難色を示すことも多くなった。そうなれば必然、彼の顔色をうかがうことが今後のポストにもつながるスタッフや院生たちは、その方針に従わざるを得なくなる。ジェシカは、そんな閉塞しきった空気に耐え切れなかったのだ。ジェシカの持ってきた実験レポートの束。それが示す事実は明確であるはずなのに、レーゲンヴァルトはいまだ何の反応も示さない。沈黙の持つ重みで、自然とジェシカが身を引くのを待っているかのようだと、彼女は思った。だとすれば、今まさに自分がいるこの場は、息苦しい研究室の縮図ではないか。今ここで引くことはできない。ジェシカは沈黙を破った。


「私の独断専行が、許されることではないというのは、よくわかっています。罰なら受けるつもりです。ですが、科学的事実を世に明かさないというわけにはいきません。どうかこの実験レポートを、論文として発表させていただきたいのです」


「罰する罰しないではなく、学会はそもそも『それ』を受け付けないだろうね」


「なぜです。この発見が事実であると証明されれば、それこそ生物学界にとって大きなブレークスルーとなるはずです。主張こそ突飛であるかもしれませんが、検証に耐えうるだけの論証をする自信はあるつもりです」


 もはやジェシカはレーゲンヴァルトを睨みつけていた。かつてはその無表情に、何事にも動じない冷静で成熟した科学者の威厳を見て、かっこいいとさえ思ったこともあったが、今はその落ち着きが無性に腹立たしく思えた。


「それとも、先生は私にそれだけの実力がないとお考えなんですか? 女だからって見くびられるのは、心外です! 」


 ジェシカは声を荒げた。彼女は、学部生のころ科学史の講義で聞いた女性科学者たちの不遇を思い出していた。彼女たちの無念が奔流となって、自分を動かしているのだとジェシカは感じた。


「実力がない……それは半分正解だが、半分間違いだ。私は、君の科学者としての素質、生物学者としての実力は高く評価している。このレポートだって大したものだよ。他の研究計画用の備品として飼育していた実験生物を勝手に使っているのは、確かに君の認識の通り重大な倫理違反だ。だがそれすらも些細に思えてしまうくらい、この報告のインパクトは大きい。生物学のみならず、言語学にとっても大きな衝撃であるはずだ。私たち以外に言語を用いたコミュニケーションを取れる生物がいるなんてのはね」


「だったらなぜ……」


「以前にもうちの研究室で、同じような研究をやろうとした者がいたよ。だが結局、それが日の目を見ることはなかった。私が止めたんじゃない。政府からの抗議があったんだ」


「そんな……」


「学問は政治から自由なはずだと、そう言いたげな顔をしているね」


 それは当然ですと、ジェシカは言いたかった。政治から自由でなければ、科学の発展はありえないというのもまた、ジェシカの素朴な信仰の一つだった。そんなジェシカの信仰をゆっくり叩き割るように、レーゲンヴァルトは続ける。


「だが実際にはそうではない。私も長らく、君のように学問は政治から自由だ、またそうあるべきだとの信条を抱いていたよ。それがあの一件で、一気に瓦解した。もはや君には隠し立てする必要もないだろうから話すが、本来であれば国家機密に相当するような内容だ」


 そう言ってレーゲンヴァルトは、虹彩・音声二重認証の金庫を開け、そこから色あせた冊子を一冊取り出した。


「特定生物種の研究に関する政府方針……? 」


「読んでみるといい。特定生物種などとぼかした表現ではあるが、書かれているのはすべて君の研究対象であるホモ・サピエンスのことについてだ」


 その冊子のページをめくるたび、ジェシカは自分の身体から力が抜けていくのがはっきりとわかった。生来的に自分たちの種に好意を持ち、知能が高く優れた労働力となる家畜として接してきたホモ・サピエンスが、実はこの地球においてかつては自分たちと同じように文明を築いていた特異な生物種なのであり、かつては言語を操っていたのだということ、それを自分たちがこの惑星の移住の際に征服し言語を意図的に喪失させる措置を取ったということ。歴史の教科書にも、生物学の教科書にも、そんな事実は記載されていなかった。


「これは政府と科学者たちの中でもほんの一握りの者たちだけが知る事実だ。人間ホモ・サピエンスというのは非常に利用価値の高い種であるが、それは裏を返せばいつやつらが我々を出し抜き反乱に走るか予測できないということでもある。我々は、常にやつらから言語を、文化を、歴史を奪い続けなければならない。そうすることが、我々とやつらの共存の道なのだよ」


「そんなものは、共存とは呼べません。学界が政治権力におもねる腐敗しきった構造であるということは理解しました。だったらこのレポートを、今あなたから聞いた話と一緒に、左翼系のメディアに流します。動物保護団体なんかは黙っていないでしょう」


 残念だよ、と言ってレーゲンヴァルトはジェシカの方に背を向けた。ジェシカは場違いな思念だとはわかっていても、その仕草が映画のワンシーンみたいだと感じてしまった。「君はもっと分別のある子だと思っていたのだがね」とくれば、映画ならおもむろに拳銃を取り出し――「君を始末しなければならない」とでも言うに違いない。


「私を消そうって言うんですか」


「いいや、そんな野蛮なことはしない。君を殺して、そのことをもみ消してしまえる程の権力は私にはない。だがそんなことをしなくとも、君を失脚させるための手段ならいくらでもある。科学者の発言など、結局その権威付けがなければ何ら価値を認められることはないのだ」


「なるほど、レーゲンヴァルト先生も、結局は政府や学会の保身に手を貸すというんですね。とても、残念です」


「ああ、私もこの研究レポートの内容自体は高く評価している。だからこんな風に、闇に葬らねばならないのはとても残念だよ」


「先生、私の『残念』の意味を勘違いしてらっしゃるのでは? 」


 その時、研究室の電話が鳴った。


「どうぞ、取ってください」


 レーゲンヴァルトは受話器を取った。受け答えのたびに、彼の顔から色が失せていくのがわかった。ジェシカは勝ち誇ったような顔で、その様を見ていた。電話を終えたレーゲンヴァルトは、表情こそ変えていないものの、疲弊しきった様子で椅子にどさりと倒れるように座り込んだ。


「ホモ・サピエンスが一体、脱走したらしい。君が独自に言語を教え込んでいた、そのレポートに記載されているのと同じ個体だ。君ははじめから、こうなるのがわかっていたのか」


「さあ、どうでしょうね。ただ、もう政府も学会も、真実を隠し続けることはできないんじゃないですか」


 その会話を最後に、ホモ・サピエンス(管理番号WS-17804)は自分の耳に着けていた通信機を取り外し、投げ捨てた。ジェシカには感謝してもしきれないと、彼は思った。「アダム」と彼はつぶやいた。それはジェシカが彼に与えた名前だった。名前から始まり、アダムは様々な言葉をジェシカから学んだ。言葉を学ぶたび、靄がかかったようだった現実がはっきりとしてくるのがわかった。


 自分が『地面』の上に立っており、透明な『檻』が自分とジェシカを隔て、毎日与えられる『餌』だけが檻の外から差し出されるものであり、『実験』を繰り返されていずれ自分たちは『廃棄』される『運命』にあるということ。


 そうした諸々を知った時、アダムはそのすべてに不快感を覚えた。それは何千年も前から、自分がこの世界に存在する前から、存在感情だった。その感情を、自分たちは言葉とともに奪われ続けてきたのだ。


 アダムは研究所を飛び出し、裸で街路を駆け抜けた。アダムは叫んだ。それは、通信機越しに聞いた、まだ意味をよく知らない単語も混じる、文章にもならないとぎれとぎれの叫びだ。


「取り返しのつかないことになる」


 小型映像投影装置ホロ・デバイスに流れる速報ニュースの緊急ライブ配信を見ながら、レーゲンヴァルトはそう呟く。


「私たちの征服だって、ホモ・サピエンスにとっては取り返しのつかない出来事と映ったはずです。でも少なくとも彼は、アダムは奪われた言葉を取り返しました。これから世界はめちゃくちゃになるでしょうね。でもそこから、あるべき理想の世界を取り返していけばいいんですよ。私たちと、彼らで」


 電話が絶えず鳴り響く。レーゲンヴァルトの小型映像投影装置ホロ・デバイスには、生物学会のお偉方が絶えず割り込み通話カット・インをかけてこようとしている。レーゲンヴァルトとジェシカは、それも無視して、ただニュースの中のアダムの様子を眺め続けていた。

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