第5話

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 翌日の日曜日は、リーガ・エスパニョーラ(スペインのプロフットボルリーグ)第二十三節、バルサ対ヴァレンスアCFがカンプ・ノウで行われた。神白はマシア(バルサの下部組織の総称)のメンバーに支給されるチケットを使い、観に行った。

 最前列、タッチラインから十メートルもない席で、神白は試合開始を待っていた。そそり立つように存在する観客席はほとんどが埋まっており、スタジアム独特の熱気に包まれている。時折スタンドから、カメラのフラッシュの光が生じていた。

 近くの席には一般客に加えて、ちらほらとマシアの面々の姿が見られた。年齢は様々で、十歳そこそこの少年すらいる。

「二位のルアレとの差は勝点3で、決して首位独走とは言えないバルサ。迎え撃つは三位のヴァレンスア。中国の至宝こと武智ウー・チーを中心に、一筋縄ではいかないと思われる。っとまあ、事前情報を纏めるとこんな感じかな。いかがでしょうか、神白選手。貴方の見立て、私気になる。とてもとっても聞きたいんです」

 隣のエレナは淡々と解説したかと思うと、急に神白へとずいっと身体の向きを変えてきた。マイクでのインタビューをイメージしているのか、軽く握った右拳を神白の胸の高さに持ってきている。神白を凝視する表情は真剣だが、芝居がかった感じも受けた。

 エレナの大きくて澄んだ瞳が見詰めてくる。神白はなんとなく視線を逸らして口を開く。

武智ウー・チーはアジア最高のストライカーだよ。だけどうちのスリートップは世界一だ。中央のメトーはスピードキング、両サイドのロナルディーノとジュミは逆足ウイングでどこからでも撃てる」

 神白は確信を込めた台詞を一度切った。視線の先では、既に入場を済ませた両チームが円陣を組んでいる。

「ディフェンス陣だって見劣りしない。プジャリルのリーダーシップにマラクスのクレバーさ。並のチームじゃシュートすらままならないよ。

 中盤は説明不要、まさに多士済々だ。負傷中のシャルビが戻ってきたら、文字通りの世界最高の陣容──ってなんだよ、その微笑ましい物を見るような目は」

 純粋に疑問な神白は、意識的に抑えた声音で尋ねた。

 エレナは暖かい眼差しで神白を見据えていた。そのままゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

「好きなんだね。サッカーと、バルサと。なんかいいね。私、なんだかほっこり来ちゃったよ」

「そりゃあ俺はフベニールとは言え、バルサの選手だからな。サッカーに懸ける思いは、生え抜きの人にも負ける気はしないよ。見くびらないでもらいたいな」

 神白は即座に断言した。確かな意思を伝えるべくエレナをしかと見つめ返すが、エレナも柔らかい視線を崩さない。

「なんすか二人とも。意味深な視線を交わしちゃって。コーチと選手の色恋沙汰の発覚ってやつ?」

 朗らかな日本語が耳に飛び込んできた。神白は声のした後方に顔を向ける。

 神白のすぐ後ろの席では、黒髪の少年が無邪気な笑顔を見せていた。上下とも、バルサのホーム・ユニフォームを身につけている。

 眉毛は太めで鼻は日本人の平均的な高さである。丸い瞳は大きく、持ち主のバイタリティを示すかのように輝いている。十センチ弱の短髪は天を突いており、滑らかな黄褐色の額が少年の活発な印象を高めている。高校生になったガキ大将という印象を受ける佇まいだった。

「神白くん、この元気男子は何者?」隣のエレナが怪訝な声音で、こそこそと神白に耳打ちしてくる。

(俺のことは知ってたのに、天馬てんまのことは知らないのか?)

 神白は疑問を抱きつつも、頭をフル回転させて言葉を捻り出す。

「これは奇遇だな。誰かと思えば、十六歳にして天下のバルサのフベニールAに所属する神童、天馬侑亮ゆうすけじゃあないか。さすがは『和製ロナルディーノ』の二つ名を持つ天衣無縫の右ウイング、本家本元の研究をすべく、観戦に来たって訳か」

(我ながら演技っぽかったけど、ここまで言っときゃエレナも大丈夫だろ)

 神白が一人、確信していると、天馬はぽかんとした面持ちになった。

「樹センパイ、超不自然っす。いったい誰に説明してんすか。はっ、まさか。ラ・マシア(下部組織の選手寮)にあった古い囲碁盤に触れて、平安時代の棋士に乗っ取られて。今の長台詞はそいつのために……。センパイ、まさかの棋士転向っすか。やべえ、引き留めねえと。早まっちゃあダメっす。オレ、相談に乗りますよ」

 切羽詰まった感じで口走ると、天馬はがたんと立ち上がった。表情は真剣そのものだ。顔の横では、右の拳をぐっと握りこんでいる。

 天馬は座った姿勢でもわかるほど小柄だった。しかししなやかな身体付きはスポーツ選手のそれであり、ふくらはぎの筋肉の盛り上がりからは並外れた運動能力が窺い知れた。

「そんな訳あるか」神白は軽く突っ込みつつ、天馬に笑いかける。

 先日のイスパニョールとの試合後、落ち込む神白に多くの者が慰めの声を掛けた。そんな中でも、最も気を遣ってくれた人が天馬だった。

「豚の頭事件までは樹センパイのプレーはカンペキでしたよ」「アホなファンに全責任があるんすから、センパイは気にせず自分の道をバクシン(驀進)すべきです」

 天馬の力強い激励に、神白はどうにか気持ちを立て直せ始めていた。

「エレナ姉さんもお疲れ様っす。今日はいつも以上に別嬪っすね」

 満面の笑顔とともに天馬は言い放った。嫌みゼロのあっけらかんとした台詞だった。

 エレナは一瞬迷った風だったが、「そうかな、ありがとう。天馬くんも今日も今日とて元気いっぱいだね」と、負けず劣らず明朗に答えた。

 神白が親愛の籠もったエレナの横顔を見ていると、スタジアムの喧噪が一層大きくなった。すぐさまコートに視線を移すと、両チームのメンバーは既にそれぞれの配置に就いていた。

「始まりだね」エレナが小さく呟いた。すぐさま高らかに笛が鳴り、試合開始。

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