第35話星空の雫
漆黒の馬に身を委ねて、私はシアンさんと森を移動していた。普段彼が乗っている馬とはまた違う、兵士が乗る馬だ。揺れる度に足が痛むが、シアンさんには悟られたくなかった。あんなに思い切った彼を私は知らない。だからこそ、何と声をかけたら良いかわからなかった。
「怪我人を引っ張り出すなんて、僕は馬鹿だなぁ」
シアンさんが自嘲するように笑った。彼の表情は見えない。
「ありがとう、ございます……」
「そう言うと思った」
少し安心したような笑いに私の心も落ち着き始めた。今まで見たことのない森の表情。私は上空からしか見ていなかったのかもしれない。地を踏みしめる感覚が、体に刻まれていく。
いつからこうしていたのか、わからない。心地よい揺れに起こされる。朝なのか昼なのか、はたまた夕方なのかさえ認識出来なかった。
「あ、起きた?」
腰に布が巻かれていることに気がついた。距離が近い。
「あ、あの。寝ちゃってすみません」
「落ちないように、勝手に結ばせてもらったよ。痛かったらごめん」
「全然痛くないです」
「よかった。そろそろ古城の近くだと思うんだ」
見渡しても、景色はあまり変わっていないように思えた。鳥の声がいつもと違うくらいだ。フォリンの気配もしない。私が漠然とした不安に苛まれていると、シアンさんの声がした。
「ここだよ」
顔を前に向けると所々壁の崩れた城が目の前に現れた。その形はまるで……
「竜みたい」
「竜?」
威厳高い雰囲気は形を変えてもなお、損なわれていなかった。入口はどこにも見当たらない。
「大分、崩れちゃいましたね」
「出るときにゴールドっていう青年が破壊したんだ」
「ジルのお兄ちゃん、ですよね?」
「そうなんだ。他の子は洗脳を解けたんだけど、彼は救えなかった」
その背中が妙に寂しく見えた。
「シアンさんが全力を尽くしたこと、わかります」
「え?」
「だって、私の無茶にも手を伸ばしてくれたんですよ? シアンさんは人の想いに真摯ですから」
彼は少し振り向くと、
「ありがとう」
と言って前を見た。そのまま馬を出す。
「いいんですか? 降りなくて」
背中に声をかけると小さく頭が揺れた。
「いいんだ。生き物の気配はしないからね」
静かに森を進む。湖まで、もう少し。木々の間からオレンジ色の空が見える。もうそろそろ日が沈むのだ。
「エデンに悪いことしちゃったな」
シアンさんからその台詞を聞くのは何回目だろう。
「私、ちょっと悲しかったんです。エデンさんが来てくれなくて」
彼は少し唸ると、前を見たまま語り始めた。
「エデンは本当に良い人なんだ。小さい頃、僕のために薬草を買ってきてくれたり、療養で勉強が遅れていた僕と一緒に学んでくれたりね。だから、きっとナタリアのことを想ってのことだよ」
「ありがとうございます。エデンさんと出会えたのも、元を辿ればシアンさんのおかげ、なんですね」
「あはは、そうだったね。僕が病弱じゃなければエデンも城下に行かなかっただろうから」
心地よいほど他愛ない会話が続く。夜の空気がこの森にも忍び寄っていた。
「あ! 湖が見えましたよ」
「本当だ」
湖には満点の星空が生きていた。シアンさんに肩を借りながら、馬から降りる。そして、水面を覗き込んだ。微かにフォリンの気配がする。
「フォリン! どこなの?」
思わず何度も何度も何度も、叫んでいた――
自分は消えかかっているのに、フォリンは女性に立ち向かってくれた。ダラクサスが朽ちてしまった後だったのに。もっと寄り添ってあげなければいけなかったのに。自責の念に駆られていると、私は甘い香りにすっぽり包まれた。
「ごめん、ナタリアが今にも飛び込んでしまいそうだったから。ほっておけなくて」
すすり泣く声が響く。
「フォリンがいなくなっちゃっていたら、どうしよう」
「見つかるまで、探そう」
彼の顔を見て少しずつ気持ちが楽になっていった。
「ありがとう……ご、ございます」
「さっきみたいに気楽に話していいんだよ。エデンの時のように」
気のせいか彼の声も少し震えていた。
「シアンさんって、本当に優しいんですね」
「そうでもないよ?」
空元気のような声で彼は言う。その時、水面の星空が微かに崩れた。
「あっ」
声と視線が重なる。
「フォリン?」
私を呼ぶ鳴き声が聞こえたような気がした。
「フォリン!」
シアンさんも一緒に呼んでくれる。また、水面が揺れた。今度は鳴き声も気のせいではない。たしかに今、ここにいる。
星空を纏った体が大きな竜の輪郭を成す。間違いなく、フォリンだった。
「こっちにおいで」
私が手を差し伸べると、フォリンは悲しい時の鳴き方をする。
「どうしたの?」
まるで水と一体化してしまったように、湖から先に出られないという様子だ。私の体は吸い込まれるように引き寄せられていく。
「フォリン、駄目だ! ナタリアは今弱ってる。こんなに寒い夜に飛び込んだら、凍え死んでしまうよ」
シアンさんはこれまでにない声音でフォリンに呼びかける。すると、ぽちゃんと音を立てて水面が静まり返った。
「フォリン。あの時、助けてくれてありがとう。私も必ず助けるからね」
次の瞬間。目の前に星屑の噴水が上がった。その掛け合いが嬉しくて、私は思わず手を伸ばす。当然、噴水に届くことはなかったけれど、フォリンの存在がはっきりと感じられた。
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