第521話 やっと、戻ってきたんだ

 タカトの体は硬直していた。

 ピタリと固まった体はまるで一本の柱のように微動だにしない。

 地面の上に、そそり立つその姿。

 顔面だけで逆立ちをしているその姿。

『スカート覗きマッスル君』の姿勢制御によって、まるで体操選手のように足先がぴんと伸ばされ青空をさしていた。

 ここまでしっかりとした一直線の逆立ち、水族館のアシカ様でもそうそう簡単にできはしない。

 だが、問題は……

 その姿勢を保つために首が90度に折れているのだ。

 普通……人間の首って、後ろに曲げれるのは70度ぐらいが限界のはず……

 ……それが90度って……大丈夫かいな……


 三途の川べりでは、タカトと奪衣婆が組んず解れつくんずほぐれつの大抱擁。

「いややわ! 兄ちゃん! 乙女の肌を見ておいて、タダで帰れると思うてんの?」

「だれが、乙女だ! ババア!」

「何言うてんの! ウチはこう見えても処女やで! 処女!」

「ババアの処女なんて何の価値もないわ!」

「アホいいな! 古いものでも一回りすればアンティーク! その価値は跳ね上がるんや! どないや! 兄ちゃん! 試していかんか?」

「いやだぁぁぁぁぁ! 俺は帰る! 家に帰る! 帰らせてくれぇぇぇぇ!」

 などと、タカトがあの世とこの世の境界で貞操の危機に瀕していることなど、誰も知らなかった。


 ビン子はハリセンでポンポンと自分の肩を叩きながら答えた。

「ここを曲がって登った先が家よ!」

 それを聞いたリンの顔がパッと明るくなった。

 と思ったら、もう、ビン子の目の前から消えていた。


「ミーアお姉ぇぇぇぇぇぇ様ぁァァァァァァァァ!」

 砂埃を巻き上げ、怒涛の勢いで駆け出すリンの姿。

 その瞬発力は突風をも巻き起こす。

 これもリンが持つ『羽風の首飾り』のなせる技!

 おかげで、ビン子の黒髪が、その風圧でサラリと揺れた。

 そのうえ、タカトの体もついに倒れた。

『スカート覗のぞきマッスル君』をしても支えられないほどの風圧?

 イヤイヤ、タカトはリンのちょうど真後ろにいたのだ。

 スリップストリーム!

 そこは、まさに空気の落とし穴。

 風などほとんど当たらない。

 ならなぜ、『スカート覗きマッスル君』は逆立つ姿勢を制御できなかったのだ?

 リンの爆発的な加速を生み出したスタートダッシュ。

 その踏み切られた足の先には、ちょうどタカトの頭頂部が……

 まるで、その頭を踏切板にするかのようにリンの足が蹴り出されていた。

 さすがに、『スカート覗きマッスル君』でも、その爆発的なエネルギーを吸収することはまずもって不可能。

 おかげでタカトの体はくるりと回る。

 タカト君……これは、まだまだ改良の余地ありですね。


 ゴン!

 いまだ三途の川べりで、奪衣婆とくんずほぐれつのバトルの最中のタカト君。

 その後頭部に激しい衝撃が走った。

 何だ?

 後頭部に手をやるタカト。

 後ろを伺うタカトの視線は、一瞬、奪衣婆から離れた。

 隙あり!

 ブチューーーーーーーーーーーー!

 奪衣婆の唇がタカトのほほに吸い付いた。

 チュゥ! チュゥ! チュゥ!

 ギョェェェェェェェェェェェェ!

「何しやがる! このババァあ!」

 ぽっ!

 頬を赤く染める奪衣婆。

 褐色のしなびた肌であっても、赤くなったのがマジで分かった。

 本当にこのババア処女かいな?

 恥じらいで熱くなった頬を押さえるしわくちゃな手。

 ちょっと、カワイイ?

 そんなことあるかい!

 ――チャンス!

 奪衣婆から解き放たれたタカト。

 まるで巨大な蚊にでも吸われたかのように赤く腫れあがった頬を押さえながら走り出す。

 一目散に来た道を駆け戻る!

「あぁ! 待ってや‼ ウチの旦那様!」

「誰が! 旦那様じゃぁぁっぁぁ!」


 ――ミーアお姉さまがそこに!

 駆けるリンの目の前には山小屋のような小さな家が見えた。

 かと思うと、もう、そのドアを思いっきり蹴破った!

 バン!

「ミーアお姉さま!」


 小屋の中は薄暗い。

 朝食のテーブルについていた権蔵とミーアが目を丸くしながら入口の方向を見ていた。

 オイオイ、朝からカチコミか?

 イヤイヤ、こいつは強盗だろ?

 なんだ……ただのメイドだよ……

 逆光の中で立つメイドは、激しく肩で息を切らしていた。

 ミーアの持つスプーンがカランと音を立てて床に落ちた。

「も……もしかして……リンなのか?」


「権蔵じいちゃん、ただいまぁ」

 遅れてビン子がやってくる。

「なんで爺ちゃんが帰ってるんだよ!」

 顔面土まみれのタカトもついてきた。

 どうやら無事、奪衣婆の魔の手から逃れて、この世に帰ってきたようである。

「爺ちゃん、俺にはいつもさぼるなって言ってるだろ! 一体、小門整備の仕事はどうしたんだよ!」 

 ペッペッと口の中に入った泥を吐きながら、ついでに毒を吐きまくる。


 その声を聞いた権蔵は、わなわなと震えだした。

 スプーンを持つ手で目をこする。

 その手を膝に置くと、大きく大きく深呼吸……

 そして、急に立ち上がったかと思うと大きな大きな怒鳴り声をあげた。

「このドアホがぁぁぁぁぁぁぁ! 一体! どこに行ッとんたんじゃぁあぁぁぁ!」


 ひいっぃぃぃいぃ!

 権蔵の怒鳴り声に、瞬時にタカトは頭をすぼめた。

 だが、嫌ではない……

 それどころか、心の中が安堵する……

 ――やっと、戻ってきたんだ……


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