第226話 修羅と修羅(5)

「そうですか……でも、今あるご返済の期限もとっくに過ぎているのですが……」

 真音子は、にこやかに微笑む。

 でも、目が冷たい。


「あれは誰?」

 アルテラは、小声でそっとビン子の耳に問いかけた。

「借金取り」

 ビン子は小声でつぶやいた。

「普通、病院まで取り立てにくる?」

 あきれるアルテラ。

「何か?」

 真音子の視線がアルテラを貫いた。

「何でもありませーん」

 とっさに両手を振るアルテラは、肩をすぼめた。

「こわっ……」


「でも……大事に至らなくて本当によかった。私がもっと早く……」


 そう、森でハチビーに襲われる瞬間、もっと早く駆けつけていれば、タカト様は入院することはなかったかもしれない。

 そう、スグルとセレスティーノが部屋に乱入する際も、もっと早く、タマホイホイを取り除いていれば、タカト様を危険にさらすことがなかったかもしれない。

 私はタカト様の足を引っ張る……

 タカト様は、いつも、他人のために自分の命をおかけになられる。

 それもいとも簡単に。

 あなたの命はそんなに軽くはないのです……

 あの時からずっと、真音子の心はタカト様とご一緒なのです。

 そういう真音子は少々涙ぐんでいた。


「どうした?」と聞くタカト。

「本当によかったですね」

 真音子はさっと目頭を手で拭き顔をあげた。窓から差し込む日差しを背に微笑む真音子。

 借金取りでなければ男のハートは鷲掴みされたことだっただろう。


「あんたさっきから何なのよ! 私のダーリンになれなれしく話しかけないでよ!」

 不機嫌そうなアルテラが真音子に怒鳴った。

「いえ、あなたのタカト様ではありませんわ。その内、タカト様のお体は私のものになりますので」

 真音子は手の甲で口を押えて高らかに笑った。


 ――えっ……マジで俺の体、売られちゃう?

 タカトの足の上にかけられたシーツを掴む手に力がこもる。うつむく瞳がくるくると泳ぐ。

 ――いや……さすがに臓器売買はまずいでしょ!

 タカトは懇願するように、そーっと真音子の様子を伺った。

 真音子の目が怖い。

 タカトは、おのが人生を諦めた。

 ――出来れば、かわいい女の子に移植して下さい……いや、やっぱり、せめてオッパイもみたい……


「あなたこそ、タカト様のなんなんですの?」

 真音子の瞳がアルテラをにらむ。その視線の鋭いことといったらこの上ない。

 まさに修羅場。なぜ、修羅場になっているのか、マジで分からないが、とにかく修羅場である。

 二匹の修羅が、タカトを挟みにらみ合っている。

 修羅と修羅。

 まさに一触即発のこの状況。


 ――あかん……マジで俺死んだかも……アイナちゃんのムフフな本、あれだけでも何とかしたかったなぁ……

 タカトの体がカタカタと震えた。


「私は、ダーリンと将来を誓い合った仲なのよ!」

 アルテラがタカトの腕を胸に押し付けた。


「それは! 本当ですの!」

 真音子がタカトをにらみつける。

 二匹の修羅から発せられる死の恐怖で包まれたタカトには、もう声が届いていない。

 小刻みに震えるタカトの頭が、かすかに上下に揺れ動く。それは、何度もうなずくかのように。


「そんな!」

 真音子は口に手を当て目を丸くする。そして、一瞬、気を失ったのか、めまいでふらふらっと崩れ落ちそうになった。

 しかし、そこは借金取りの真音子。

 一気に気勢を立て直す。

「ふん! まだ、婚約。婚約破棄だってあり得ますわ!」

 アルテラを指さし挑発する。


「婚約破棄なんてありえないわよ!」

 アルテラは、右手でアッカンベーとバカにする。


「ははは、語るに落ちましたわね。あなたの指には今だに婚約指輪すらしていない!おそらくそれは虚言!妄想!自己満足!」


 はっと我に返るアルテラ

 ――しまった!

 確かに、婚約指輪は右指にはついていない。これでは、婚約しているという証明ができやしない!


「ダーリン! 婚前旅行の温泉に参りましょ! そこで既成事実を!」

 アルテラはタカトの腕を引っ張った。


「ふしだらな! それはなりません! ならば、私もまいります!」

 真音子も負けじとタカトの腕を引っ張った。


「なんであんたがついてくるのよ!」

「私がタカト様の童貞を死守します!」

「えっ! タカトって童貞なの?」

「そんなことも知りませんの! 今までの人生で、タカト様は、もてた事がありませんのよ!」

「もしかして、タカトってビン子ちゃん以外の女の子と話したことないとか?」

「当たり前ですわ! だからこそ、安心して見ていられたというのに! このバカ公女が!」


 二人の女の中で揺れ動くタカト。

 俺はなんでこんなことになったのだろう。

 しかも、コイツら俺の黒歴史を、ベラベラと大声でバラしやがって。


 だんだんとムカついてくるタカト。

「俺……温泉に行くなんて言ってないし……」

 ついつい口走ってしまった。

 いらぬことを言わねばいいのに……

 不用意にもついつい心の声が出てしまったのだ。


「なんですって! なら病院代払いなさいよ!」

「なんやてワレ! 借金返してからモノ言わんかい!」


「ビン子ちゃん、助けて……」

 タカトはとっさにビン子に助けを求めた。しかし、ビン子の姿はすでにない。必死に目でビン子の姿を探し求めた。


 えっ⁉

 ビン子は、今まさに、抜き足さし足で、ドアからそっと出ようとしていた。


 ――お前だけ逃げるんかい!

 タカトの目がビン子を止める。


 プルプルと首を振るビン子。


 ――逃がさん! 死んでも逃がさん! 地獄の底まで道連れや!

 タカトの目が怒りに燃える。

「ビン子が行くというのなら……」


 痛恨の一撃!

 ビン子はタカトを恨んだ。今なぜ、その言葉を発するのか。廊下まで、あと一歩のこの状況で!

 アホか!


 しかし、時、既に遅かった。二匹の修羅の冷たい視線が、ゆっくりと動く。修羅の不気味な眼光の矛先はビン子へと向けられた。


 ビン子はとっさに恐怖する。

 いかにして逃げようか……この際、タカトを見殺しにすることは致し方ない。

 あと一歩。この一歩を踏み出す時間さえ稼げれば、私は助かる。

 ビン子は思考を巡らせた。


「私がいると……お邪魔かなって……」

 よし! これならいける!

 ビン子は自由な廊下へとつながる、あと一歩へと足を引き上げた。


「あなた! 妹でしょ! 連帯責任よ!」

「何! 逃げとんや! このスケが!」


 ひっ!

 あぁぁ……無情。ビン子の思いとは裏腹に、二匹の修羅は許してくれない。

 ビビるビン子は、タカトを見つめた。

 ――タカト、助けて


 何かタカトとビン子の心が、今、結ばれたような気がしたのは気のせいだろうか?

 アイコタクトを取る二人はうなずいた。息をあわせてピッタリと。


「温泉! 行かせていただきます!」

「温泉! 行かせていただきます!」


 ベッドの上で涙目でほほ笑むタカト。


 よかったじゃないか! 両手に花。

 いや……両手に修羅か……

 どちらに転んでもおそらく地獄。


 どうやって逃げよう……だれか、助けて……

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