第六章 エピローグ

第184話 エピローグ

 夜が更けた神民街。

 街灯の明かりが、石畳の上に静かに揺れている。


 夜空に浮かぶ月が、人々が眠る家々の壁をかすかな青白さで化粧する。

 ほのかな安らぎを漂わせる街並みに、黒い穴が口を開けていた。

 その黒い穴の正体は、両側に建物の高い石壁がそびえたつ細い路地。

 表通りにこぼれ落ちる町々の明かりすら届かない、暗い世界。

 その路地だけが、全くの異界のように黒くすっぽりと抜け落ちていた。


 ガシャン!

 暗い路地の奥から、何かがぶつかる音がした。


「まだ、こんなところに隠れていたのか」


 行き止まりになったその路地先に腰が抜けた女が、何かから逃げるように、おびえながら後ずさっていた。

 恐怖でひきつる女の顔へと一つの手の影が伸びる。

 手は女の髪を無造作にわしづかみにした。

 その手は、神民街を警護している守備兵のものであった。

 守備兵が、力任せに女を引きずり起こす。


「いやぁーーー!」

 女の叫び声が、路地に反響する。


「お前はもう、すでに神民じゃないんだよ!」

 髪を掴んだ守備兵は、女を路地奥から引きずり出していく。


 この女は第六の門の元神民であった。

 一般街への移転の日、そう、あの日、惨事が起きた。


 女は今でもはっきりと覚えている。

 あの赤の魔装騎兵の赤い笑みを。

 荒れ狂う人の波の中で、笑いながら剣を振る。

 しかし、その笑みは快楽の海を楽しむかのように、恍惚と溶けていた。

 女の顔に大量に降り注ぐ人魔の血。

 無力な女は、人の流れに流された。

 その流れは、助けを求めるかのように神民街へと逆流していく。


「収容所に送りつけろ」


 女を掴む年配の守備兵は、側にいた若い守備兵に命令した。

 経験年数が少ないのであろうか。

 若い守備兵は、マニュアル通りの手順をおわないことに疑問を呈した。


「人魔検査はしなくていいのですか?」


「上からの命令だよ! 大体、こいつら!逃亡者なのに、いちいちそんなことしてらるか」


 髪を掴まれた女が、年配の守備兵の足元でうなだれている。

 神民街に逃げ込んできてから、どれぐらい時間がったのであろうか。

 女自身、よく分からない。

 しかし、女の服は、黒く汚れ、ところどころ擦り切れていた。

 すでに靴もなくした素足は、傷だらけでかさぶたができていた。

 守備兵たちの目から逃れ、路地の影に隠れドブネズミのように生きてきたのであろう。

 しかし、そこまでして、神民街で生活をしたかったのだろうか。

 いや、おそらく、一般街に出ることもできなかったのであろう。

 守備兵たちに見つかれば、とらえられ人魔収容所に送られてしまう。

 生きるためには、逃げ隠れするしかなかったのである。


 守備兵につかまれた女は、自分の運命が尽きたことを理解し、震えている。

 しかし、その震えは、徐々に大きくなっていく。

 女の口から低いうなり声がとめどもなく湧き出てくる。

 そのうなり声は、震えと共に量を増す。

 恐怖で錯乱でもしたのであろうか。


「どうした。静かにしろ」


 その異変に年配の守備兵は、女の髪を力強く引っ張り上げ、顔を伺おうとした。

 急に静かになる女。

 若い守備兵もまた、女の顔をあげようと、槍先を顎に当てようとした。


 その刹那、女がすっと立ち上がった。

 しかし、守備兵たちは、女が立ちあがったことが一瞬分からなかった。

 全くの予備動作無しのその動き。

 そんな身体能力がこの女にあったというのであろうか。


 ぐわぁ!

 年配の守備兵の悲鳴が響き渡る。

 女が年配の守備兵の首に噛みついた。


 次の瞬間、力強く女の顔が反り返る。

 乱れた髪が女の頭を追っていく。

 それと同時、赤い液体が弧を描く。

 その液体の先にある女の口角からは、収まりきらない首の肉片がはみ出していた。

 振り乱れた女の髪の間から緑色の目が光る。


 うぁぁぁぁぁぁ!


 若い守備兵は尻もちをつき、後ずさる。

 女は、力なくまっすぐに立ち、若い守備兵を見つめる。

 だらんと肩からおちた手が、ゆっくりと振り子のように揺れている。

 その後ろで、首から噴き出す血を懸命に手で押さえる年配の守備兵が、力なく膝をついた。


 若い守備兵は、犬のように四つん這いになりながらも、表通りを目指して逃げた。

 すでに、後ろを振り向く余裕すらない。

 はやく、表通りに!

 そこまでいけば、誰かに助けてもらえる……

 無様な若い守備兵は、とにかく這った。


 悲鳴を聞きつけたのだろうか、路地の入口に複数の人影が見えた。

「助けてくれ! 人魔だ!」

 若い守備兵は人影に叫んだ。

 本来であれば守備兵である自分が、人々を守らなければならない。

 しかし、今は、そんなことはどうでもいい。

 誰でもいいから、助けてくれ。

 願う気持ちで、再び叫んだ。


 緊急事態を察したのであろうか。

 人影たちは、その声にこたえるかのように、路地へと駆け込んだ。

 懸命に走る。

 そして、一斉にかみついた。

 そう、若い守備兵に。


「お前たちも人魔なのか……」

 薄れゆく意識の中で、無数の緑の眼光が光っていた。

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