第6話 帰れる?
家の周りの草が、美羽の背丈を越えるほどに伸びてきた。草を刈ることをしないので、外で仕事をしていると美羽は、草に囲まれて方向すら見失う。一度戻れなくなり沢に落ちたことがあって以来、美羽の仕事はもっぱら室内でアクセサリーを作ることになった。アクセサリーの材料は、狼に姿を変えたシュウが、一晩かけて仕入れてくる。
一人で家にいることに不安はあったが、狼の姿をとったシュウが一晩かかる場所。ついて行く自信のない美羽は、黙って待つしかなかった。
その夜も、美羽は一人で待っていた。戸締りなどない家、不安を隠せずに部屋の隅に座り込む。今夜は、空に月はいない。
気がついたら、美羽は闇の中にいた。自分の指先すら見えないような闇の中。誰もいない。月も星も、空にいない。怖い。一人は、怖い。不意に、病院でみた母の顔が脳裏に浮かぶ。一人になってしまったのだと、突き付けられた。置いていかないで、一人にしないで。必死に叫びたかったが、言葉は出てこなかった。ただ、涙だけがとめどなく頬を伝う。見えない両手で顔を覆って声にならない声で何度も叫ぶ。
「ごめんね、美羽。」
暖かい腕に抱きとられる感覚に顔を上げれば、母がそこにいる。ふれた腕は暖かく、小さな頃に抱かれたそのままの腕。美羽は母が消えないように、必死でしがみついた。
「ごめんね、美羽。一人にして、ごめんね」
声が聞こえたと思ったら、暖かかった腕はかき消えてしまった。
暖かかった腕と一緒に、闇も消えた。
空気は澄み、水が流れる音が聞こえる。アップルティーの香りが部屋一杯に広がっている。
ああ、シュウの家だ。でも、窓の外の木々は白い帽子をかぶり、背の高い草は跡形もなく消えて、真っ白な世界が広がっている。キッチンでは、髪の長い女性がゆったりと紅茶を入れている。
「はじめまして、美羽さん」
紅茶を手に振り返ったのは、シュウの母。なぜわかるのか、と不思議に思うこともなかった。
シュウの母は、美羽に良く見えるように、ゆっくりと紅茶を入れる。恐怖は微塵もなかったが、さっきと同じように声が出ない。
「シュウを、お願いね」
笑った顔、優しげな灰色の瞳は、シュウとよく似ている。
「おい!おい!大丈夫か?」
目をあけると色を無くしたシュウの顔。いつの間に帰ってきたのだろう。
「お帰り、なさい」
今度は、声が出た。シュウが音を立てて息をついた。
「寝ていたのか……」
いつの間にか、床で眠ってしまったらしい。体中が痛い。シュウの手を借りて、ゆっくりと起き上がる。支えてくれる手が、ひどく冷たい。
「ごめんね、心配かけて」
「ああ」
いつもより少し不機嫌な顔で、朝食の支度をしてくれる。
「紅茶、私が入れるよ」
「ああ」
一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに場所を譲ってくれた。夢の中で女性がしていたのを真似て、リンゴを切って湯通し、紅茶をいれた。カップを手渡すと、シュウが目を丸くしている。
「母さんと、良く似ている。味も」
「昨夜、教えてもらったの」
昨日見た夢の話をすると、真剣に聞いてくれた。
「アンタが寝ていた場所、な。母さんが、倒れた場所なんだ」
それで、あんなに驚いていたのか。美羽は、もう一度謝った。
「アンタが還る方法、可能性が、見つかった」
アップルティーを呑み終えたシュウが呟いた。
「アンタが来たのは、霧の深い満月の夜。少なくともこっちはそうだった。過去に、この世界に迷い込んだものは、みんな満月の夜に深い霧と共にきている。そして、還る時も満月の夜。深い霧と共に居なくなっている。この世界から、隣の世界に行ってしまった者も同じ。だから、アンタの場合も満月の夜、霧が出たら還れる、かもしれない」
「満月の、夜」
「そう。もし、満月の夜に霧が出たら、霧の中にいれば、還れる、かもしれない」
還る、この世界でシュウの庇護を離れて、母のいない自分の世界に。
友人は待っていてくれるだろう。憧れだった高校だって、合格した。いつかハンドメイドのお店をやりたいね、と笑った母、二人の夢。第一、自分が帰らなければ、母のお墓はどうなるのだろう。
でも、還っても、一人だ。誰も居ない家で、毎日、一人。
言葉にできない思いが、頬を伝う。
「アンタが還りたいと思うなら、なにも言わずに還っても構わない。この世界にいるのなら、アンタは俺の妹だ。ここにいればいい」
鋭く、真直ぐな視線が美羽を射抜く。シュウは、美羽の覚悟が決まれば、それを受け入れてくれる。
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