2

 ガスマスクのかかった扉を開けると、部屋には光が一瞬満ちてすぐに静まり、ぼくがこの軌道に無事に連結できたことを教えてくれる。入ってすぐ、正面には机があり、白いソファがあり、人が座っている。課外活動棟団体連絡室4というのがこの部屋の名前で、でもぼくたちの間では単に「BOX棟の部室」と呼んでいるし、呼ばれていたし、これからもきっと呼ばれ続ける場所だ。

 不意に人が立ち上がる。ぼくの方に向き直る。指が拳銃の形に握られていた。

 BANG!!

 底の抜けるような浮遊感。

「さあ、闘いコミュニケーションの始まりだ――」

 なんだこれは――。

 上下左右の空間が一瞬で色を失う。グレースケールの世界が拡がる。その世界を一息で、どこから滲み出したか認識できない黒色が染め上げていく。気がつくと、ぼくは暗闇の中に浮かんでいる。

「そんな……」

「さあ、キミはどう出る?」

 笑っている。顔すら見えない暗闇にも関わらず、そうとわかった。とても楽しそうだ。相手はこの状況を楽しんでいる。余裕がある、ということだ。相手にとって有利な状況、ということだ。

 光点が灯る。小さな光点が遠近感の失われたこの環境で唯一遠くにあるものだと認識できる。しかし、すぐにその認識が誤ったものであることに気がつく。

 火球の直撃で左腕が吹き飛んだ。

 衝撃にバランスを崩して視界の中をめまぐるしく光点が行き過ぎる。ぐるぐる回転しながらぼくは相手を探す――いた。背後にいくつもの光点を従え、笑っている。足元に壁を創出、着地、即座に跳躍。遅れて背後で足場が光点の直撃を受けて爆散する。ぼくは爆風をも自身の勢いに変換し、一直線に相手に向かう。同時に虚空から左腕を復元する。その左手には銀河も切り裂く超微細振動ブレードだ。

 距離感は失われている。永劫とも一瞬ともつかない時間で相手に辿り着く。ブレードを横薙ぎに叩きつける。目前で人影がまっぷたつになる。

 しかし、手応えはない。

 ――空蝉。

 背後を振り返る。すぐそばにいる。光り輝く火球を両手でそっと支えるように持っている。するりと火球が長い指の間を伝ってひらめき、ぼくの眼前で弾けた。

 暗闇がまばゆい光の渦に剥ぎ取られ、ばらばらと崩れていく。

 YOU LOSE.

 古典的な勝敗を示す書き文字が砕け散り、没入型フルダイブ遊戯空間はすぐに収束した。視覚のみならず五感をインターセプトするタイプのゲームはその場で異世界を構築することができる。だからぼくが立っているのは、さきほどとなんら変わることのない部室だ。

 正面にいる相手は肩をすくめて、笑っている。

「ゲームは得意じゃないみたいだね」

「な、一体なんですか? わけわかんないんですけど?」

「ふふ、いやいや、ここは文芸部だからね。隣室のEスポーツ研究会と間違えたのではないかなと思ってね――ようこそ、総合文芸部に」

 貼り付いたような笑顔。演出された柔らかさ。胡散臭さよりもまず、空虚さが先に立つ。出会い頭にゲームをふっかけてきたのは、この部屋を占有している総合文芸部、その初代部長だ。この軌道における「初代部長」、井乃原衛いのはらまもるという人物だ。ぼくが、彼/彼女に会うのはこれが初めてのことだった。ということは、この軌道にも初めて接続する、ということになるのだな、と理解する。

「ボクは井乃原。井乃原衛だ。君は誰かな?」

 鷹揚にうなずきながら井乃原衛はソファを勧めてくる。

 そんな仕草に思わず苦笑しながら、促されるままソファに浅く腰かける。

 どうやらぼくは入部希望者と思われているようだ。

 井乃原衛はゆっくりと歩を進めると、背後に立つ。ソファの背凭れに手を置き、何かふむふむとうなずき、問うてきた。

「好きな小説は? 最近読んだ本は? 小説は書く? 書くとしたらどんな小説を? これがうちの冊子なんだけど、ほら、これ、これがボクが書いたやつ。どう? ぜひ読んで感想を教えてよ。次に来た時に訊くからさ。あ、これは無料配布だからどうぞ持って行って。他にはこれとこれもおもしろいよ」

 もちろんこれは、擬似的に井乃原衛の発言を圧縮したものだ。ぼくとの会話はもう少し悠長に、そしてどこかどうしようもなく気怠げに行われた。そういうことになっている。典型として行われる通過儀礼なんてものは、そういうものだ。どこの軌道でも似たようなものなのだ。

 ぼくは当り障りのない言葉を並べながら、井乃原衛を観察する。明るい、緑色のジャージを着ている。漢字キャラクターと同様に、学生の間で再流行の兆しを見せている、古典服クラシックのひとつだ。

 ぼくの芳しくない反応に対して、井乃原衛は袖を腕まくりし、ひとしきりうなずき、さらに言葉を重ねる。

「――そうか、そうなんだね。確かに女の子は重要だ。この部には現在百名の部員が所属している。もちろん名前だけの部員もいる。最初の頃は楽しんで部室にやってきていたが、部内の、しかしプライベートな恋愛問題のために疎遠になってしまったものもいる。講義やアルバイトが忙しくなったものもいる。他のサークル活動が楽しい、という場合もあるだろう。私はなるべく彼らひとりひとりと一対一で会話し、慰留を説く。成功することもあれば失敗することもある。その結果の百人だ。数がひとつの指標となるならば、これほど口当たりのいいものはないと自負しているよ。もちろん文芸サークルに入るような人間がこういった数を気にすることは稀だろうね。重要なのは対外的な問題に際して、これが非常に使いやすいということなんだ」

 そういうものなのですか、とぼくは聞き続けている。

「そうさ、数は確かなものだからね。客観的に評価されづらい文芸の、それも学生サークルのやっていることだ。機関誌のDLダウンロード数がいくらいくらでどれくらいの期間で何PVページビューを叩き出してどうのように改変され拡散したのか、活動している部員はいくらで、仲の良い教授は誰と誰で――というのはとてもわかりやすく、効果的なんだよ。もちろん、これは伝統だ。受け継がれてきたものだ。きっとこれからもそうあるだろうし、そうあって欲しいとは思うけどね」

 そこには乾いた言葉しかなかった。本当にそう思っているのかどうかはわからなかったが、そう思い込もうとしている、そういう虚ろな信念のようなものが、井乃原衛の目には確かにあった。

 誰かに似ているな、と思い、それもそうか、と得心する。ぼくたちの依頼人に似ているのだ。

 ここでようやく本来の仕事に立ち戻ることにする。もちろん相手の話を一方的に聞いていることで、それを答えとすることも可能ではあるのだけれど、そうやって納得してくれた依頼人など今までにはいなかったし、今回の依頼人もきっとそういうタイプの人間だろう。ホモ・サピエンスは恒星間航行が可能になってもそういうところは一切変化しなかったし、変化しなかったからこそカルダシェフの文明階梯、そのステージⅢほどのエネルギーを得ても滅びることなく存続しているのではないのか、というのがぼくたちの共通認識だった。

 ぼくは仕事に戻る。だから、問いかける。

「あの、それでですね――」

「いやいや、ちょっと待って」

 さえぎられた。

「まだこのサークルの紹介が終わっていないよ」

「はぁ、そうですか」

 うん、とうなずき、井乃原衛は部室を歩き回る。どうやら丁寧に備品を紹介してくれるらしい。

 やはり目につくのは整然と並んだ本棚データシェルフだろう。青い背の文庫と、とっくの昔に廃刊になった古雑誌が几帳面に表示されている。誰の選書によるものなかはわからないが、相応のコストがきちんと割かれている、そのことだけはわかった。

「総合文芸部は、何もないところから始まったわけではない」

 その瞬間、井乃原衛の声に優越感が滲んだ。

 とても些細な変化だった。

 ただ不思議と嫌な感じはしなかった。

「元々ここの部室は三つのサークルがシェアしていたのだけれど、それがひとつにまとまって総合文芸部となったんだ。もちろん今でも部内では根っこの深い派閥争いがあるみたいだけれど、正直言ってボクにはそんなこと関係ないからね」

 井乃原衛は落ち着きなく歩き回りながら、窓に近づく。

 BOX棟の裏手には屋内プールがある。昼下がりの陽光を、屋内プールが部室へとまだらに投影している。

 からり、と井乃原衛は窓を開放して、まだらに新しい変化を呼び込むと、叫ぶ。

「くっだらねぇーっ!」

 くるりと向き直り、気持ちのいい笑顔で言葉を継いでいく。

「そんなことやってる暇があったら小説書けよなーってほんとマジで思うわけですよ。パワーゲームに根回し、部会オープンセッションのための準備会シークレットセッション広告先スポンサーへの営業――ほんっとマジ何やっちゃってんでしょうね。そうは思わない?」

「はあ」

「ふむ、初めて部室に来た人にここまで言うのかって思ってる?」

「あ、いや、そんな」

 正直に言えば、行動が読み切れなかった。検索対象に問われることも、あまりいい兆候とは言えなかった。他の軌道ではこのようなことはなかったと記憶しているが、単独で接続しているいまのぼくには仲間の援助は受けられない。

その弱気を受けてか、本隊へと無意識のうちに接続しようとしている自分を認識する――しかし、できない。わけがわからなかった。いまのぼくには、ぼくたちが蓄積したデータベースにアクセスする術がなかった。

 思わず、振り向く。

 すると扉がなかった。この部室に入るために使用したチャンネルがなくなり、元々そこにあったかのように、すました顔をして本棚データシェルフがそびえている。本来開いているはずのチャンネルが、根こそぎまっ平らになってしまっている。

 ――そんな馬鹿な、じゃあぼくはどうやってここまで来たんだ?

 気がつくと、孤立無援の状態になっている。

 こんなことは初めてだった。普段通りの、簡単な仕事の、そのひとつではなかったのか。

 ――おかしい、どういうことなのだ。

「どうした、大丈夫か? 顔色がよくないようだが」

「あ、はい、大丈夫です」

 全然大丈夫ではなかった。

 井乃原衛を睨む。

 むろんある程度は単独で行動できるだけの情報はある。そのための対処の仕方も、機能も備え付けられてはいる。いまはそれで切り抜けなければならない。そういうことなのだ。本隊は常にモニタを怠ることはない。この状況の変化にいちはやく気づいて対処してくれるはずだ。だから、ぼくはいまできることを、やるだけだ。本来の仕事に戻らなければならない。

「でもなんか空気がこもっている気がするので、窓を開けてもいいですか?」

 おそらく扉の消失は井乃原衛が行ったのだろう。消去法だ。ここにはぼくと井乃原衛しかいない。そういう軌道として構築されているからだ。

 構わないよ、と井乃原衛はうなずく。

 ぼくは井乃原衛の横を通り過ぎ、窓に近づく。

 窓を開ける。

 風が吹き込む。

 少し冷たく、強い風だ。匂いはしない。でも春の風だ。桜の花びらが眼前を行き過ぎる。しかし窓の外には手を伸ばさない。届かないからではない。まず間違いなく弾かれてしまうからだ。

 ここから脱出するのは、まだ先の話だ。

 一度、大きく息を吸い込み、井乃原衛に向き直る。

「井乃原衛さんは部長さんなんですよね」

「そうだが?」

「さっき言ったみたいなこと、部会セッションで挙げてみればいいじゃないですか」

「誰が?」

「え、いや、井乃原さんが」

「なんで?」

「不満に思ってらっしゃるんでしょう、さっき言ったこと」

 ああ、と井乃原衛はうなずく。

「いや、いいんだ、さっきのことは忘れてほしい」

「いや、でも」

 井乃原衛にとって重要なことでなければ、あそこまで声をあげることはなかったのではないか。

 だからぼくは、問いかけへの糸口としてさきほどの話を蒸し返したのだ。

「その点に関しては本当にいいんだ。しょうがない。本来ならボクは新歓活動にも関わることはできない。象徴としての部長だからね。でも今日は本当にタイミングが良かった。部室に忘れ物をしたんだよ。するとどうだい、部室の前で入部希望者が待っているじゃないか」

 井乃原衛はウィンクしてみせる。

「やっぱりボクはこういうふうに見知らずの人と話すのが好きなんだなって思うよ。いまの役割に就任してからずっと――自分だけが置いてけぼりを食らっているような気がするし、誰かがどこかで自分を指さして笑っているような気がするんだ」

 笑っているのは自分自身ではないのか、と井乃原衛の顔を見て思う。本心では決して笑ってなどいない、そういう笑顔だ。

「あとね、何もかも人ごとのように聞こえるんだよね」

 どうしたらいいんだろうね、と井乃原衛は変わらず笑顔だ。

「本当なら当事者であるべきなのに、どうしてか蚊帳の外だ」

 いったい井乃原衛は何の話をしているのだろうか。

「ねえそうだ、きみも同じような孤独を感じているんだろう?」

 どきりとした。

 ぼくのことを何か知っているのではないか。

 この軌道は、群にして個である検索代行者ぼくたちのことを検索対象に知られている。

 そういう軌道なのだろうか。

 であるならば扉の消失も検索対象による介入であると考えられ、依頼人はこういう趣向をお好みであるということだ。そういう部分は事前にぼくたちには知らされない。ぼくたちのリアクションすらも含めて、依頼人は今回の軌道をお求めということなのだろう。

 気がついたことが顔に出ないよう、努めて笑顔で応える。

「そうなんですかね」

「そういうものだよ。いやこの孤独はもっと根源的な問題だと思うんだ。もちろん人間関係という表層的な側面が大きいとは思う。でもそこに今どき面と向かった(フィジカルな)会話が重要だなんて変だとは思わないかい。恒星間でもタイムラグなしに会話できるボクらがいまさらフィクションに耽溺するのだってそうだし、争いがいまだ絶えることがないのだってそうさ。

 ――好奇心だよ。好奇心を活性させるためにボクたちは孤独を感じる必要がある。外に出ていくことによってしか、あるいは内側に潜ることでしかこの孤独をあやすことはできないんだ。あらゆる意味でコミュニケーションを行い、己の孤独と向き合い、癒すこと。それが人類に生まれながらにして科せられた、行動原理なんだ」

 驚いた。こんな検索対象は初めてだった。依頼人とはまったく異なる人物像。語ることにきちんと自分なりの意味を見出している。それがどうしてあんな問いかけを行うことになるんだろうか。

「だからボクはキミのことが知りたいな。どうボクに影響してくるのか楽しみだよ」

 井乃原衛が初めて意味のある笑みを顔に浮かべ近づいてくる。

「でもそれだったら、やっぱりちゃんとサークル運営に部長として関わったほうが、いろいろな人と影響しあえるのではないんですか?」

「うーん、確かにそれはそうなんだけれどね。でもだいたいその影響そのものが常にいいものばかりとは限らないだろう」

「そうなんですか」

「そうなんだよ」

 これは人から聞いた話なのだけれど、と井乃原衛は断り、話し始める。

「――あるサークルの部長はかなりがんばっていたらしいんだよ。サークル運営をね。彼はやっぱり男の子だから同性よりも異性の目を気にした。好きな女の子がいたんだね。彼女のために運営をがんばった。とにかくがんばったんだよ。サークルの部員も増えたし、活動内容も充実していった。部室で連日連夜の会議も行われて大規模サークルとしてこれからって時だった、……らしいんだよ。そんなある日、その部長は意中の女の子に呼び出された。当然、部長はまさかを考える。いやいや待て、そんなことはありえない、でも――自分のがんばりを褒めてくれる、労ってくれるのではないか、そう期待した部長はいそいそと待ち合わせ場所に向かった。するとそこには意中の彼女がいた。しかし彼女以外にも、彼女の所属しているグループの女子たち数人が部長を待ち構えていた。どうやら意中の彼女は彼女のグループの代表として、部長を呼び出した、そういうことのようだった。少し宛が外れた部長はそれでも努めて平静に彼女の言葉を待った。彼女は部を辞めると言った。部長のやっていることについていけない。私達がいたいサークルではなくなった。だから辞めます、と」

 井乃原衛はこちらをうかがうと皮肉げに口を歪めて続ける。

「教訓じみているとは思わないかね。意中の女の子のためにサークル運営をがんばった。するとそのがんばりが図らずとも、彼女のサークル内での居場所を奪ってしまった。そうしてかの部長は失恋したわけだ」

 ぼくは井乃原衛の顔を見ていられなかった。たかが検索代行者風情でも、それぐらいの分別はわきまえている。

「だからサークル運営というアプローチは正直、もういいんだよ。まだボクには小説があるからね」

 諦念が込められた言葉だった。しかしはっとするような力強さがあった。井乃原衛の目には確かに情熱の光があった。まばゆい光だった。依頼人には失われた輝きだ。

「だから、小説さえ書ければそれでいいんだよ」

 小説を書かなければこの部活にいるべきではない、と暗に言っているも同然だった。

 これでは色々とやりにくいのではないか、と関係ないことを心配してしまう。

 だからこそ象徴の初代部長なのだろうな。口も手も出すことができず、清潔な檻の中でぎゃんぎゃんと鳴くだけだ。

しかし、抑圧が人の創造を促すと聞く。人生がうまくいっている人間がフィクションを避難場所にすることはない。

その意味で確かに井乃原衛は部員に期待されているのかもしれない。

 創造――こと小説を書く、その一点において。そして井乃原衛もそれに無自覚ではないのだろう。でなければこれほどのエッジを維持できないはずだ。

 しかし、と思う。いま考えるべきはこの場のイニシアチブを取り戻し、目的を達成して無事に帰還することだ。逆に言えば、それさえできれば何をしてもいいということだ。

 閉じ込められているということもあるが、不思議とぼくはこの井乃原衛というキャラクターを嫌いになれないでいる。そこには安易な共感とは異なる、井乃原衛の言葉を借りればもっと根源的な問題があるように思うのだ。

ぼくと井乃原衛はこの軌道において、まったく同格なのだ。合わせ鏡の存在と言っていいだろう。本来、ぼくの役割は検索代行者、つまり問いかける側であり、井乃原衛は検索対象、問いかけに対して回答する側として設定される。本来であればそのはずだ。

 役割に自覚的であるか、そうでないのか。

 ぼくと井乃原衛を区別する要素はそう設定されているはずだ。しかしいまの自分はどうだ。本隊から切り離され検索代行者としての優位性をあっさりと失い、あまつさえ検索対象の言動にふりまわされている。

 おそらく、このぼくの状態すらもこの軌道の試みのひとつであるのだろう。どうやら井乃原衛は、よりぼくに近い存在としてこの軌道では設定されている。そのことがおそらく重要な――。

「さっきから何をぶつぶつ言っているのかな?」

 井乃原衛が苦笑しつつ訊いてきた。

「ぼくと井乃原さんの違いについて考えていました」

 ほう、と井乃原衛は興味深そうに笑う。

「それで何かわかったのかね?」

 ええ、とぼくはうなずく。

「ぼくは、それ以外のことができないのでいまの役割を担っています。そういう風にできているし、そのことを知っています。そこに感情は介在していません」

 それで、と井乃原衛は続きを促す。

「井乃原さんはかなり自覚的に初代部長を、自分の役割を演じてらっしゃいますよね。演じるということはつまり、そこには隠された本来の井乃原さんの感情がどこかにしまわれている、抑圧されて存在するのではないかと思うんですね」

「それで」

「本当は、小説を書くことについてどう思ってらっしゃるんですか?」

 ぼくの、ぼくたちの依頼人はこう言っていた。

「もう充分、説明しただろう。さあ、いいから、もう早く行ってくれ。ここでぐだっていても、小説を書けるやつは書けてるし、デビューしてる奴はでデビューしてる。どんなにつまらないと思ったものでも流通に乗っている時点でもう負けてるんだよ……くそ、なんでおれが、検索代行者エージェントに頼らなきゃいけないんだ……」

 うつむき、両手で頭を抱え依頼人はそのような意味の言葉をつぶやいていた。指の間から焦点の定まらない瞳がのぞく。往時の輝きは年齢を経て、暗い鋭さに変わっていた。ただそれでも彼は書こうとしている。だからこそぼくたちに依頼したのだ。藁にもすがる思いで、くすぶりから脱出する、画期的な方法を得んために。

 井乃原衛は獰猛な笑みを浮かべて、答える。この発言が、今回の軌道における回答と成りうるのだろうか。

「ふふっ、不思議な質問だね……うーん。何も、何も思わないかな。小説は何か思ったことを書くようなものじゃないからね」

「そうなんですか」

「小説を書くことそのものが、とても迂遠な行為だからね。何かを伝えたかったらもっと簡便な方法がいくらでもあるさ。それを使えばいい」

「じゃあ、どうして小説を書くんですか?」

 そう、質問するならそういうことを訊かなければ、と井乃原衛はウィンクしてみせる。

霊感インスピレーション――己の内側から湧き上がってくるものに突き動かされて、なんて答えられればいいのだけれど、それは一握りの天才か、創作について何もわかっていない人間の言葉だと思う。ボクはそのどちらでもない、創作する凡夫だ。だから、わかることがある」

 謙遜しているようでその実、虚栄に近い誇りがそこにはあった。

「どうして書こうと思うのか、そのことを問い続け、考え続けることが重要だってことさ」

 井乃原衛は言葉を続ける。

「だから、書こうと思うことそのものが、ひとつの才能なんだ。――きっと何かあるはずだ、その先に奇跡はないかもしれないが、それと似たものがあるはずだ、と信じることはできる。そして、信じていなければ決して小説は書けやしないんだ」

 言葉とは裏腹に、井乃原衛は淡々と言葉を重ねていく。

「もしわからなくなったら確かめればいい。自分の好きなものが何だったのか振り返ってみればいい。自分の先を走っていく人たちと自分の距離を何度でも測り直してみればいいんだ」

 こんなところでいいかな、と井乃原衛はどこか辛そうな顔でそう言った。

「はい、わかりました」

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