権力を持つ者、奪おうとする者 Ⅲ

「――姫様、お待たせ致しました。どうぞ」


 エマがいでくれた紅茶のカップに口をつけてから、リディアは再び口を開いた。


「うん、美味しい。――でも、女性の皇帝はもう何代も誕生していないのよ。わたしが即位すれば、八〇年ぶりになるんですって」


「だったら、尚更リディアは死ぬわけにいかないよな」


「ええ……」


 自分は死ぬわけにいかない。そしてデニスも、ジョンも、カルロス王子も死なせたくない。


 まして、カルロスはスラバット王国という国の未来を背負っているのだ。彼が死ぬことはすなわち、国が滅びることを意味する。


 そのためにも、ジョンが護衛の任務を遂行すいこうし無事に戻ってきてくれることを、リディアもデニスもせつに願っているのだが……。


「ジョン、大丈夫かしら……?」


 南の方角ほうがくにある窓の向こうを眺めながら、リディアはもう一人の大切な幼なじみの身を案じていた。



****



 ――父・イヴァン皇帝とともに午前の謁見を済ませたリディアは、部屋に戻ろうとしているところを大臣に呼び止められた。


「姫様。午後は昼食も兼ねて、レムルの城下町へ視察に行くので同行してほしい、と陛下が仰っておりました」


「お父さまが? ――そういえば、謁見が終わってすぐにお部屋へお戻りになったわね」


 いつもなら、謁見が終わってもしばらくは玉座の間に残るのに。リディアもそれは不思議に思っていた。


 彼女もこの一,二年は、父の視察によく同行するようになった。そのため、今日の父の頼みも大して疑問に思わなかったのだが。


「それがですね、姫様。……サルディーノ様も、その視察に同行されたいと仰られましてですね……」


「何ですって!? それで……、お父さまもそれを了承なさったの?」


 彼はリディア(もしくはイヴァン皇帝、最悪の場合は父娘おやこ二人とも)の暗殺を画策かくさくしているかもしれない要注意人物なのだ。そのことを、父も知っているはずなのに……。


「はい。だからこそ、姫様に同行してほしいのだと陛下は仰っておりました」


(お父さまは、あの男のけの皮をがそうとしているのかもしれないわ)


 父がむざむざ殺されに行くわけがない。ならば、サルディーノをめようとしているのではないかと、リディアは察した。


 どうでもいいが、「サルディーノが同行したがっている」と言った時の言い方といい、大臣もあの男が危険だと知っているのだろうか?


「――分かりました。それじゃあ、デニスにも同行してもらうわ。着替える必要はないのね?」


「はい。おしものはそのままでよろしいかと存じます」


 リディアは少し心配になった。いつものお忍びの姿ならともかく、ドレスのままでは剣を隠し持つことができないのである。


 こうなるともう、デニスだけが頼りだ。


「デニス、わたしのこと、しっかり守ってちょうだいね」


 彼女は側に控えている恋人に、そっと囁いた。デニスもしっかりと頷く。


「ああ、分かってるって」


 リディアはその返事に安心しつつも、一抹いちまつの不安を拭いきれなかった。


(デニス、お願いだから死なないで)


「しっかり守って」と言っておきながら、そんなことを願うのは矛盾むじゅんしている。けれど、矛盾していると分かっていても、愛している人には死んでほしくない。


 愛とは、時に矛盾を伴うものなのかもしれない。



「――姫様、陛下が参られました」



 大臣の声で、リディアはハッとした。一階奥から、侍従や兵士をズラズラ連れた父が歩いてくる。その風格は、堂々たるものだ。


「君主とはこうあるべきだ」というお手本のように、リディアには見えた。


 そしてその集団の中には、スラバット王国の宰相・サルディーノの姿もある。


 彼がどのような思惑おもわくで、この視察に同行したいと言い出したのか定かではないため、油断ならない。が、逆に言えば、彼もイヴァン皇帝の本当の狙いを知らないのだ。それは父娘にとって、かえって好都合だとも言える。


「リディアよ、大臣から聞いているな? 今日これからの視察には、このサルディーノどのも同行する。よいな?」


「ええ、伺っておりますわ。――お父さま、ちょっとよろしいですか?」


 リディアは後半部分を小声で言い、父をサルディーノの視界に入らない死角しかくさそった。


「お父さまはもしかして、あの男を嵌めようとなさっているのではございませんか?」


 娘の問いかけに、イヴァンは「ああ、その通りだ」と頷く。


「やっぱり……、そうでしたの。それを聞いて、わたしも安心致しました。お父さまが、わざわざ命を奪われるためだけに、危険人物を同行させるはずがありませんものね」


「うむ。あの男が帝国の未来を握ろうとしているのを知っていながら、何も策をこうじぬわけにはいかぬからな」


「そうですわね……」


 リディアは父の言葉に舌を巻いた。サルディーノもなかなかの策士だと思っていたが、父はそのさらに上をいく策士のようだ。


(そうでなきゃ、この巨大な帝国を治める皇帝なんて務まらないわよね)


 今はどの国とも戦争状態にはないレーセル帝国だが、領地内ではあちらこちらで内紛ないふんが起きており、皇帝はそれを収めに行かなければならないのだ。いかに上手くいさかいを収拾しゅうしゅうするかは、皇帝の策にかかっている。


「デニスが同行するのなら、そなたも安心であろう? 案ずるな。誰一人死にはせぬ」


「……はい」


 父の言葉が、リディアにはとても心強かった。何も怯えることはない。


「では、参ろうか」


「はい!」


 父親に促されたリディアは待たせていたデニス、サルディーノや兵士達と合流し、城下町の視察に向かったのだった。



****



 ――この日の視察は、やっぱりいつもと違っていた。


 まず、サルディーノという異国の要人が同行していることからして異様である。こういう機会はめったにない。


 そして、その要人が帝国の実権を掌握しょうあくするために、皇帝父娘の命を狙っているらしいという妙な緊張感が、一行いっこうを支配していた。


 一行の中でも一番ピリピリしていたのは、デニスを始めとする近衛軍団である。サルディーノが直接手を下す可能性は低いため、必ず町のどこかに刺客を紛れ込ませているはずだ。――そう思い、彼らは行く先々さきざきで目を光らせていた。


 そろそろ夕暮れが近い。けれど、ここにきてまだ、サルディーノ側に動きはない。


(彼が何か企んでいると思ったのは、ただの思い過ごしだったのかしら……?)


 リディアの頭を、そんな考えがよぎったその時――。


 何か、キラリと光るものが彼女の視界に入った。その次の瞬間。



「リディア、危ない!」



(え……!?)


 リディアを抱きかかえるようにして庇ったデニスが、右腕を押さえてうずくまる。その腕からは流血しており、彼女の後ろにある木には、小ぶりの短剣が刺さっている。


 そこでリディアは初めて、自分の嫌な予感が現実になったのだと察した。


 デニスが庇ってくれなければ、自分は危うく殺されるところだったのだ、と。


「デニス! ……大丈夫!?」


「大丈夫だ、リディア。こんなの、ただのかすり傷だって……てて」


 泣き出しそうな顔で心配するリディアに、デニスは強がって見せる。けれど、彼女が受けた精神的ダメージは、デニスの予想をはるかに上回っていたのだ。

 大切な人を傷付けられた。彼の出血した右腕を凝視していたリディアの中で、何かがプツンと切れる。



「貸して」



 感情を押し殺した、有無うむを言わさぬ口調で彼女は言い、デニスの腰から提がっている鞘から剣を抜いた。そのまま、切っ先を真っすぐサルディーノに突きつける。


 その所作しょさこそ静かで美しいが、うちにはただならぬ怒りを秘めており、刃を向けられた異国の宰相はその恐ろしさにすくみ上がった。


「……あなたが命じたのでしょう? 『皇女を亡きものにしろ』と」


 リディアは穏やかに問う。けれど、静かな怒りほど恐ろしいものはない。


「いや、わ……私は知らん! 私は、何も」


「嘘よ! わたしは、カルロス王子から聞いたもの! あなたが、この帝国の実権まで奪おうとしているって。そのために、わたしが邪魔になったのでしょう!? わたしがカルロス王子との縁談を断ったから、急きょ計画を変更したのでしょう!?」


 言いのがれしようと試みるサルディーノを遮り、リディアは畳みかけた。


 彼女はもはや、冷静さを失っていた。



「サルディーノ・アドレ! わたしはあなたを決してゆるさない!」



「ダメだ、リディア!」


「リディア、やめぬか!」


 怒りで我を忘れているリディアの耳には、愛する男の声も、父の制止する声も届かなかった。剣の腕がすぐれている彼女は、このままではサルディーノを殺してしまいかねない。


 ――と、その時。



「もういいですよ、姫様。さ、剣を置いて下さい」

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