虹を見にいこう 第15話「水族館のクラゲ」

なか

Chap.15-1

 空を響かせる轟音。ジャンボジェットの白い機体が灰色の空へ飛び立って行く。

 羽田空港国際線ターミナルの展望デッキで、飛行機の発着を眺めて時間を潰していた僕は、いくつもの機体が行き来する忙しない空を背にして、建物の中へと戻った。上空から吹き寄せる強い風に、扉にはめられた強化ガラスがバタバタと大きな音を立てている。待ち合せ場所である二階の到着ロビーを目指した。


 初めて訪れた羽田空港は、ちょっとした商業施設のようだった。

『EDOHALL』や『はねだ日本橋』、『江戸小径』と言った日本の文化をイメージした名称や装飾のお店、お土産物屋さんや飲食店が五階建ての吹き抜け、広々とした空間に建ち並んでいる。子供連れやカップルで平日から賑わう様子に、飛行機に乗るためではなく、羽田空港へちょっとお買い物気分で遊びに来ている人も多くいるだろうことを思わせた。

 飲食店が並ぶ辺りで、外国の観光客向けか、獅子舞が踊り出ているのに出くわした。急に頭をかじられそうになった僕は「わ!」と声を張り上げてしまい、見物客たちの笑いを誘ってしまった。獅子舞が噛んできた辺りを手でさすりながら、そそくさとその場を退散する。

 長いエスカレーターを乗り継ぎ、二階の到着ロビーまでようやくたどり着く。きょろきょろ辺りを見回した。細長いロビーの中央に人だかりが見える。そこが搭乗者出口のようだった。テレビで見たことがある『歓迎』と書かれたお手製の看板、会社やホテルの名前の書かれたプラカードを持った人たちが待ち構えていた。僕も何か看板を作ってくれば良かっただろうか。

 背伸びをして人々の頭越しに見る搭乗者出口の背面には、分刻みで到着便を知らせる大きな液晶画面があった。目的の飛行機は既に到着しているはずだったので、目を凝らしたが、画面上でお目当ての便名をなかなか見つけられない。ホノルル、上海、バンコクに、シンガポール。はて? ホーチミンてどこの国だっけ? などと首をひねっていると、懐かしい声が耳に届いた。

「おーい、一平くん!」

 人々の合間から、見覚えのある風貌を発見する。

 大きな身体とグリズリーのような獰猛どうもうな熊を思わせる鋭い眼光。だが今は優しい表情を浮かべ、髭だらけの顔をくしゃっとさせていた。リュックサックひとつと、肩から下げたカメラカバンだけ。海外から帰国したとは思えない軽装でこちらに手を上げて歩いて来る。

「源一郎さん、お久しぶりです」

 僕はその場で頭を下げた。

 戦場カメラマンの源一郎さんだった。数日前にメールで帰国することを教えてもらい、たまたま休みだった僕は、みんなを代表して空港まで迎えに来たのだった。

 ニッコリ笑う源一郎さんは、去年タカさんの店の周年パーティーで初めて会った時と全く変わらない様子で、胸の内が暖かくなった。

 駆け寄る僕に右手が差し出される。握手に応えた僕の手を引き寄せるようにして、力強く握り返された。

「元気そうで、良かった」

「源一郎さんこそ」

 と微笑む。

「やー、もう実はクタクタなんだ。今回は急に帰ることにしたから、チケットの手配が難しくてね。ソマリアから一旦陸路でジブチ共和国に出て、ドバイ経由で来たんだよ。この陸路がかなりの悪路でねえ。昔に比べれば治安が良くなったとは言え、なかなかスリル満点のバックパッカーさ」

 そう言う源一郎さんは全然疲れているように見えない。知らない国の名前に目をチカチカさせている僕に、源一郎さんが説明をしてくれる。

「ドバイは聞いたことがあるだろう? アラビア半島を長クツに例えたら、その先っちょの方だよ。ソマリアからの直接便はないからね。ドバイやトルコを経由することになるんだ」

 一生懸命、想像をしようとして世界の大きさに溺れてしまいそうになる。何にせよ長旅だったのには違いない。

「どこかに一旦腰を下ろしましょう」

 そう促して歩き出した僕の背中へ、源一郎さんはさりげなく手を回してきた。

「世界の果てから、君に会いに来たんだ」

 と囁く。びっくりして源一郎さんと距離を取った。

「そ、そんなこと言って、またからかわないでくださいよ。着いたそうそう」

「からかってなんかないさ。本心だ。どこにいたって、一平くんのことを忘れることはなかったのに」

 僕の逃げ腰に源一郎さんが気の毒になるくらいしゅんとした声で答えた。

 とにかくお茶でもしようと、さっき獅子舞に噛まれた『江戸小径』を目指すことにした。向かう道中、ちっこい僕では話をするのにも、源一郎さんを見上げるようになってしまう。

「源一郎さん、ずいぶん荷物が少ないんですね」

「ん、カメラマンは、これ一個あればどこだって行けちゃうんだ」

 肩からかついだカメラバックを軽くポンと叩いた。そのバックの中には使い込まれた一眼レフカメラが入っている。周年の時に、タカさんのお店で見せてもらった。生々しい傷の入った、大事に使いこまれたカメラだった。

「ちょっと格好つけすぎたかな。今回はしばらく日本にいる予定だから、他の荷物は直接送ってしまったんだよ」

 源一郎さんは太い眉を片方だけ上げて見せた。

 ゲイデビューをしていなければ、出会っていない人の筆頭だと思う。日本を離れている間も、僕に宛てて絵葉書を送ってくれた。それは源一郎さん自身が撮影した戦地の町の様子だったり、そこに暮らす人々の姿だった。

「あの、絵葉書、いつもありがとうございます。いろいろ考えるキッカケになって、純粋に惹きつけられるというか……やっぱり源一郎さんの写真は凄いというか。見ているだけでもとにかく良くて……うーん、上手く言葉にできなくて、すみません」

「いやいや、そう言ってもらえるだけで嬉しいよ」

 源一郎さんは満足げな顔をした。

「一平くんに見せたい写真が撮れたときに、送るようにしていたんだ。いい写真が撮れても仕事以外になかなか見せる相手もいなくてね」

「虹の写真が、とても素敵でした。他のも全部良かったのですけど」

「ああ、あの写真か……私も気に入っているよ。あの子、元気にしているだろうか」

 源一郎さんが懐かしそうな表情をする。

 それは雨上がりの瓦礫の町に、大きく虹がかかった様子を撮影したものだった。灰色の空にかかる七色の光を見上げる少女の後ろ姿。その絵葉書をきっかけに、タカさんの故郷の話になったので特に印象に残っていた。

 江戸小径の茶屋で、源一郎さんはアイス抹茶を、僕はほうじ茶ラテを買った。近くのベンチへ腰掛ける。まるで時代劇で見た団子屋のように、赤い布が敷かれていた。

「あの少女が後ろ姿なのは、女性を写真におさめることが、宗教上の理由で好ましくないとされているからなんだ。それが良いことなのか悪いことか、そういう議論とは別にね、写真家はそこに住む人々の思想を尊重しなくてはいけないよ。そうしなければ、そこに生活する人々の本当の姿が撮れないからね。あの国の治安は以前と比べればだいぶマシになった。まだまだ危険な国に変わりはないが、それでも闘争が下火になって、過激な映像や写真を求める報道カメラマンの多くは去ってしまった。でもこれからなんだ、あの国は。あの子が空に見ていたのは、この先の未来だと思ってシャッターを切った。最後まであの地で撮り続けたい。そうすることが写真家としても、価値のあることだと思うんだ」

 熱のこもった口調で、源一郎さんは言った。

「……源一郎さんの話を聞いていると、僕、自分が恥ずかしくなってきます」

 しばらく相槌を打って聞いていた僕は、小さく、声を足元に落とすように言った。

 源一郎さんが写真について話をするとき、その言葉には魔法がかかっているように感じられた。源一郎さんの風貌や声のトーン、経験したことが言葉に滲み出している。同じ事を僕が言ってもきっと説得力がない。魔法は解けやすく、熱は冷めやすいが、源一郎さんの話は、口にした途端色あせてしまうような頼りないものではなかった。

 自分がいかに何も考えず、日常に流されているか。頭をからっぽにして、山手線でぐるぐると巡るような自分とは、全く違う世界をこの人は目にしているのだろう。

「何で一平くんが恥ずかしがることがあるんだい? 年中恥ずかしい思いをしているのは、私の方だよ」

 源一郎さんの声が、またトーンを下げる。

「どこかで銃声が響けば声を殺して震えてしまうし、爆弾が暴発する音に腰が抜けてしまったこともある。それでもカメラをかまえ続けるのは、もう怨念のようなもんだね」

 苦笑いをする源一郎さん。

「それに、自分の身の回りの人たちにそうやってひとつひとつ共感できることの方が、ずっと人として大事なことだよ。一平くんの魅力的なところだ」

 予想外に褒められて、思わず筆の先で首筋を撫でられたように、ムズムズとしてしまう。

「そんな、共感なんてできていないです。僕には手の届かないことをしている人達は、いったいどんな世界を目にしているんだろうって。とにかく凄いと萎縮しちゃうばかりで」

「それが共感てことだと思うけどねえ」

 源一郎さんが笑う。

「だが、一平くんの心配なところでもある」

「心配……ですか?」

「そう、タカのことだよ。普通はあんな病んでいる男を、好きにはならんだろう」

 さらりと言われたので、一瞬何を言われたのか理解できなかった。徐々に言葉の意味が腑に落ちて、カーッと身体に熱を感じた。

「あ、いや……えっと、好きとか嫌いとか、そういうことではなくてですね」

 慌てて早口になってしまう。タカさんへの気持ちを勘づかれていた。絵葉書やメールのやり取りで、近況報告をしていたから自然とタカさんのことには触れていた。だけど、初めて会った時から、きっとこの人には見透かされていたのだと思う。

 観念をして、長めの息をついた。

「リリコさんにも、同じことを言われました」

 メンヘラ男を好きになって大変ねえ、と。

「リリコが? リリコだって、人のこと言えないだろうに。まったく」

 源一郎さんが呆れた声を出す。

「あの、源一郎さんが日本に帰って来たのも、タカさんのことなんですよね?」

「ん、そうだね。まあ、それもあるよ、もちろん」

 曖昧な肯き方をする。

 源一郎さんが帰国した理由は、タカさんが二丁目の店を諦めて沖縄へ帰る、そのことを聞きつけたからだと思う。タカさんは僕やユウキにも、最近になってようやく話してくれた。沖縄に帰り、家庭料理の居酒屋を営みたい。それは以前から、タカさんが時々口にしていたことでもあった。

 タカさんは自分がいなくなっても、引き続きみんなで住めるように、寺井さんにかけ合っておくと言ってくれた。だが、そういう問題ではなかった。タカさんがいなくなれば、きっと僕らのルームシェアは続かない。

 源一郎さんに連絡をしたのは、リリコさんか寺井さんだろう。源一郎さんも店の開店時に協力をしたひとり。タカさんの古い友人として心配になったのだと思う。

 しばらく会話のないまま、空港に響く飛行機の発着を知らせるアナウンスに耳を傾けていた。空港というのは不思議な場所だと思う。人を感傷的な気分にさせる。出会いや別れ、たくさんの人達のいろんな思いがこの場所に降り積もっているからだろうか。

「そうだ、気分転換できるところへ行かないかい?」

 気を取り直したように、源一郎さんが言った。

「気分転換……ですか」

「羽田空港へ帰った時に、いつも行く場所があるんだ。ここからそう遠くない。一回くらいデートしてくれたってバチは当たらないだろう。どうかな?」

 デートという言葉に、思わず飲んでいたほうじ茶ラテを吹き出しそうになった。鼻の奥がツーンとして、せる仕草の僕に、源一郎さんは声を出して笑った。


Chap.15-2へ続く

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