藤吉史恵は自ら掘った穴に転げ落ちた
昼食後の教室は、春の暖かな日差しに包まれていた。充満する空気を可視化できるとしたら、それはもこもこの毛皮に包まれた羊の形をしているに違いない。
猛烈な眠気の中、
それにしても眠い。枕どころか椅子が一つあれば即座に眠りにつけそうだ。とはいえそういうわけにもいかないので歩いているのである。
お昼後の歴史の授業、わかる、君たちが眠いのはわかるよと史恵は生徒たちに少しだけ同情しているが、嫌われたくないからといって目的から逃げてはならない。若き歴史教師として、なめられてはならない。
手をパンパンと叩きながら声を張り上げた。
「はい皆さん、瞳を閉じて夢を見るのではなく、現実を見ましょう。今先生が読んだところはテストに出ますよ」
注意をジョークで中和させた小粋な指導。東京に住んでいた時、先輩から学んだものだ。「これを言うとみんな笑うのよ、必ず」とその先輩は言っていたが、結果はまさかの無反応。先輩の姿が脳内でガラガラと崩れ落ちた。
同じジョークを連続で言うほど精神力が強い人間はいない。もちろん史恵も例外ではない。咳払いを一つして、真面目に喝を入れようとしたところ、生徒が質問をしてきた。
「先生、質問です」
「な、なんでしょう」
「さっき先生、『源義経と藤原
がくんと史恵の口が開いた。眠くて覚えていないが、そんなことを私は言ったのか。
「あ、ああそうですか。じゃあ教科書を読みながら、もう一度、ゆっくりやりましょうね」
気丈にも振り絞った声が震えている。
藤吉史恵28歳独身、現在の職業は
そして、その中身は完全に腐りきっていた。10年ほど前にBLの知識と妄想を栄養素として取り込んでから、脳みそがぽこぽこと発酵を続けているのだ。原因はスマートフォンのゲームである。
史恵は激しく後悔した。いくら眠くてぼーっとしていたとはいえ、古の武将同士のちちくりあい、しかも妄想を早口で生徒に語ってしまうとは一生の不覚。今ここで、先程自分が口にしたカップルうんぬんに突っ込まれると何かが色々と崩れ落ちる気がする。それこそ先輩の姿が崩れ落ちたように。
気を取り直して授業を再会しようとしたところ、実に絶妙なタイミングで生徒の手が上がった。
「先生はBL好きなんですか?」
女子生徒が真っ直ぐな質問をしてきた。ド直球の豪腕ストレート内角高めである。まさしく腐女子としての踏み絵を突きつけられた
「今は授業中ですので、関係ないことは」
「わかりました。じゃあ後で教えてください」
砕け散ったバットを手に呆然としていたところだというのに、相手はもう次の投球モーションに入っている。
「ですが、頼朝のジェラシーというのがわかりません。頼朝はなにしろ義経を殺したかったんですよね?」
ノーモーションでさっきよりも速い球を投げてきた。カミソリのようなシュートを避けきれず、脇腹へ直撃。
「それは解釈のとりようですね。先生はそう思います。では次に」
「教科書には、泰衡は父の
デッドボールでもゲーム続行。なんだ君は。昼にすっぽんの首切って生き血でも飲んだのか、女子高生が。勉強熱心なのはいいことだが、今だけは見逃してはもらえないだろうか。
「ず、ずいぶん熱心ですね」
「あ、さっきテストに出ると言われましたので」
「ですよね」
はい、確かに言いましたねと史恵は小声でモゴモゴとつぶやいた。その直後に終業を告げるチャイムが鳴り響き、なんとか一命はとりとめたと安堵した瞬間。
「で、先生、BL好きなんですか?」
女子生徒のキラキラした目が悪意のないことを告げている。授業は終わったが、試合はまだ始まったばかりだった。
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