王立図書館の王子様
澄み渡る夏の青空の下、今日もレアード伯爵邸の庭では甲高い金属音が響き渡る。
「大分身のこなしが軽やかになって来たな、アンジェラ」
凛とした口調でお話になるのは、他でもない、私のお母様だ。長い赤銀色の髪を一つにまとめ、伯爵夫人らしからぬ挑戦的な笑みを口元に浮かべている。
お母様は、この王国ハルスウェルで初めて公に認められた貴族出身の女性騎士だ。今でこそ騎士としての活動は控えているが、私やお兄様が生まれる前はお父様と共に騎士としてあちこちを駆け回っていたという。
今はこうして、お母様は私に剣の稽古をつけてくださっているのだ。だが、残念ながら私にお父様やお母様のような剣の才はなく、私が身に付けられた技術と言えば、せいぜい護身術に毛が生えた程度のものだった。
どちらかと言えば、私は室内に籠って本を読んでいるほうが好きだ。お父様もお母様も、私のその性質に理解を示してくださっているため、無理に剣術を教え込むそぶりは見せないのだが、運動がてらこうして週に何度かはお母様に稽古をつけてもらっているのだ。
「今日はこのくらいにしよう。日差しも強いからね」
「ありがとうございました、お母様」
二人でほとんど同時に礼をして、稽古を終わらせる。今日もいい運動になった。
「……また、いつもみたいに図書館に行くのかい?」
顔を上げるなり悪戯っぽい微笑みを浮かべるお母様と目が合ってしまい、少しだけ気恥ずかしさを覚える。私の行動などすっかりお見通しらしい。
「ええ、行ってまります」
「勤勉で何よりだ。暗くなる前に戻っておいで」
「……はい、お母様」
慎ましく礼をするも、心の中で苦々しい想いを覚える。
……ごめんなさい、お母様。このところ私が図書館に通い詰める理由は、本のためではないのです!
「では、行って参りますわね!」
などと言いつつも、このまま図書館へ行くわけにはいかない。
大急ぎで汗を流して、綺麗に支度をしてからようやく出発なのだ。
お父様が収める領地、ここレアード伯爵領には王立図書館がある。隣接するロイル公爵領や王都からの訪問客も大勢訪れる、大きな図書館だ。
その図書館の片隅で、ある素敵な殿方を見つけてしまったのだ。恐らくは、私と同年代の十代半ばくらいの少年だった。
品の良い藍色の髪に、宝石のような美しさの紺碧の瞳を持つ彼に、私は一目で心を奪われてしまった。同年代の少年とは思えぬ大人びた知的な雰囲気と、怖いくらいの整った目鼻立ち。彼はいつも決まって図書館の一番人気のない閲覧室で本を読んでいて、読書中の横顔は冷たささえ思わせる美しさでありながら、言葉を交わせば柔らかな表情を見せるのだ。
平民と同じような服装で図書館を訪れているが、彼の居佇まい、ちょっとした仕草で、彼が貴族令息であることは殆ど間違いなかった。夏の間だけ、避暑目的で王都からやって来ているのかもしれない。
実を言うと、彼の名前もまだ知らない。言葉を交わしたと言ったって、つい二週間ほど前に一言二言話しただけで、きっと彼は私の存在なんて認識していないに違いなかった。
でも、今日こそは、勇気を振り絞って話しかけてみようと決めたのだ。貴族令息ならば婚約者がいても不思議はないし、横恋慕するような真似はしたくない。
好きな人の心を射止めるならば、正々堂々正攻法で挑みたかった。
湯浴みをして汗はしっかり流してきたし、お母様譲りの赤銀色の髪もメイドに綺麗に巻いてもらった。薄くおしろいもはたいて、健康的に見えるような淡い赤の紅も引いた。
美男美女夫婦と名高いお父様とお母様の娘なのよ、私は間違いなく可愛いわ!
怯みそうになる自分を大袈裟な言葉で奮い立たせ、いつも彼がいる閲覧室を目指した。彼が読んでいる本は日によってさまざまだが、今日はどんな物語に目を通しているのだろうか。
どこか浮足立つような心地で広い閲覧室にそっと足を踏み込んだその瞬間、不意に、可憐な声が耳に届いた。
「ランスは本当に本が好きね」
くすくすと笑うような、軽やかな声。そうか、彼はランスという名前なのか、と彼の名前を知ることが出来たのを嬉しく思いながら、ぱっと顔を上げれば、私が想い慕う彼の隣で、美しい少女が微笑んでいた。
陽の光にきらきらと輝く長い銀髪に、菫を思わせる薄紫の瞳。どこからどう見ても貴族令嬢と言った見目のその美少女は、彼とやけに親し気な雰囲気だ。
「この図書館には面白い本がたくさんありますから」
甘く優しい響き彼の声に、銀髪の少女はふう、と大袈裟な溜息をついた。
「もう、たまには私と遊んでくれてもいいんじゃない? 近くにあるお花畑が今とっても美しいのですって」
あざとさすら思わせる甘えるような少女の笑みに、彼はしばらく思い悩むようなそぶりを見せたのち、溜息交じりに了承する。
「わかりました、いいですよ。……父上の許可が下りれば、ですが」
「その辺は大丈夫よ。こういう時はね、まずはお母様におねだりするの。お母様を味方につけてしまえばこちらのものよ。大体どんな要求でも通るわ。お母様のおねだりに、お父様が逆らえないって知ってるでしょう?」
「間違いありませんね」
途中から、二人の会話は碌に頭に入ってこなかった。音声として認識はしているけれど、まるで内容を理解しようとしていない。
……そう、よね。あれだけ素敵な方だもの。こんな美しい婚約者がいても少しも不思議じゃないわ。
今日こそは、意気込んで特別にお洒落をしてきた自分が途端に惨めに思えて、気づけば私は閲覧室から引き返していた。これ以上、親し気な二人の姿を見ていられない。
恋をしたと言うには、あまりに一方的で、始まってすらいなかったと言うべき想いかもしれないけれど、それでも確かに、言いようのない喪失感に心を搔き乱された。
淡い夢を見せてもらえただけ、幸せだったと思うべきかもしれない。このまま私はレアード伯爵令嬢として、お父様が定めた然るべき殿方の元へ嫁いで、貴族令嬢としての義務を果たすべきだ。
薄くはたいた白粉を溶かすような一粒の涙が、頬を伝った。今日はとてもじゃないが、本を読む気分にはなれない。お母様に言いつけられた門限よりずっと早かったけれど、私は傷心のまま、レアード伯爵邸に戻ったのだった。
お父様から、「お前に客人だよ」と告げられたのは、それから一週間後のことだった。
お友だちとの約束は、特になかったはずだ。不思議に思いながらお父様と共にお客様の待つ応接間に向かえば、見慣れた室内に、あろうことか彼の姿があった。今日は貴族令息らしい深い紺の上着を羽織っている。
彼の傍には彼にそっくりな藍色の髪の女性と、彼の紺碧の瞳を思わせる冷たい眼差しの男性が佇んでいた。距離の近さからしてご夫婦だとは思うが、随分と若々しく美しい二人だ。
「久しぶりに会えて嬉しいですよ。私のお嬢様」
お母様が悪戯っぽく笑いながら藍色の髪の女性の手の甲に口付け、すぐさま銀髪の男性に間に割って入られていた。あっさり女性と引き離されてしまったお母様を見て、お父様が呆れたような溜息をつく。
「シャノン、いい加減にエレノア様の騎士ぶるのはやめろ。今やルーク殿が当主なんだぞ。ロイル公爵家とレアード伯爵家の関係に影響があったらどうする」
「その辺はお前がどうにかすればいいだろう」
お父様とお母様は、二人でお話になるときはよくこういう話し方をなさる。一見険悪そうに思えるものだが、その実はとても仲が良いことを知っているので、傍から見ている分にも少しも不安ではなかった。
それにしても、お母様が「私のお嬢様」と呼ぶということは、お母様が唯一お仕えしたことのある公爵令嬢とは、この藍色の髪の淑女のことなのだろうか。想像していたよりも少しだけ気が強そうにも思えるけれど、鮮烈という言葉の良く似合う美女だった。
「アンジェラ嬢」
不意に私の初恋の相手であるランス様がソファーから立ち上がると、ゆっくりと私の前に歩み寄ってきた。その所作もいちいち綺麗な人だ。本が良く似合う、知的で優し気な王子様、という表現が相応しい。
それにしても、彼がどうしてここに、と不思議に思っていると、お父様が軽く咳払いをして私に事情を説明してくださった。
「アン、こちらの方々はロイル公爵家の御当主夫妻とそのご令息のランス殿だ。今日はお前の……お前とランス殿の婚約の打診にわざわざ来てくださったんだよ」
「わ、私と、ランス様の……?」
そんな夢みたいなことがあるだろうか。私はランス様と一言二言しか言葉を交わしたことがないのに。
ひとまずドレスを摘まんで公爵家の方々に挨拶をしながらも、悶々と考えこんでしまった。
どうやらお父様とお母様とロイル公爵夫妻は顔なじみのようだから、政略的な意味で組まれた縁談かもしれないが、私にとってはあまりに都合が良すぎて、すぐには信じられない話だった。
……でも、ランス様には、あの銀髪の美しいレディがいらっしゃるのに。
ロイル公爵夫妻は、それをご存知ないのだろうか。夢のような心地でありながらも、どこかもやもやとしてしまうような、不思議な感覚に苛まれる。
ちらりとランス様を見やれば、彼は柔らかな紺碧の瞳で私を見つめていた。まるで大切なものを愛でるかのような、甘さを孕んだその視線に、ますますどうしていいか分からなくなる。
「……ごめんなさいね、アンジェラ嬢。あまりにも急なお話で」
視線を彷徨わせた先でロイル公爵夫人と視線が合うと、夫人は整った眉を下げて申し訳なさそうに切り出した。
「何というか……その……ランスは旦那様によく似ているから、ちょっとだけあなたのことが心配だけれど、何かあったら言って頂戴ね」
「エル……」
ロイル公爵が軽く諫めるように夫人を見つめる。思わず溜息が零れそうなほどの公爵の美貌は、確かにランス様とよく似ている気がした。
しかし、夫人の言葉の意味はそれだけではない気がして、軽く小首をかしげていると、お母様が深い紅の瞳を彷徨わせながら引き攣った笑みで説明してくださった。
「……要はとても愛情深い方々なんだよ」
それはとても素敵なことだ。確かに公爵は夫人を守るようにぴったりと寄り添っているし、絶世の美女と謳われるお母様に見惚れるような素振りも一切見せない。これだけ美しく、色気の漂う公爵ならば、周りの女性が愛人でもいいから、と迫ってきそうなものなのに、公爵の目には夫人しか映っていないように見えた。
それはお父様も同じで、やはり、一途な殿方というのは素敵だわ、とどことなく満ち足りた想いを覚えると、お母様たちは退室する素振りを見せた。
「私たちは少し公爵夫妻と話をしてくるよ。ランス様に良く挨拶をしておきなさい」
「え……お母様? 待って、まだ、心の準備が……」
私の呼び止めも空しく、お父様とお母様、公爵夫妻は応接間から出て行ってしまった。残されたのは私とランス様、そして部屋の隅で空気のように控えるメイドが一人だけだった。
メイドは私を見守っているだけなので、会話に入ってくることはない。実質ランス様と二人きりになってしまったのだ。
ついこの間まで遠巻きに眺めることで精一杯だった初恋の相手が、今、こうして私の婚約者候補として目の前にいらっしゃるなんて。
何をお話すればいいだろう。心臓が暴れて早鐘を打つばかりで、少しも落ち着いた気持ちになれない。
置時計の秒針の音だけが響く静寂の中で、先に口を開いたのはランス様だった。
「……突然の訪問をお許しください、アンジェラ嬢。改めて……僕はロイル公爵家のランスと申します」
恭しく礼をしながら彼はそっと私の手を取ると、挨拶代わりの口付けを手の甲に落とした。そのくすぐったいような触れ合いに、ますます頬が熱くなってしまう。
「あ……私は、レアード伯爵家のアンジェラと申します。もう、ご存知のこととは思いますが……」
あれだけ叩き込まれた淑女としての挨拶も、初恋の人を前にするとどうにもたどたどしくなってしまう。どうせならお母様のように余裕たっぷりな笑みを浮かべたかった。
「はい、知っていますよ。……あなたのことは何でも、ね」
ランス様は私の手を握ったまま、すり寄せるように指を絡めてきた。絹の手袋越しとはいえ、私からしてみれば刺激の強い触れ合いに、何も言えなくなってしまう。
……こ、婚約者ってすごいわ。こんな風に手を繋ぐのね。
何だかどぎまぎとした心地のまま、恐る恐るランス様に倣って彼の手を握り返すと、彼は幸福に酔いしれるような甘い甘い笑みを浮かべた。
「嬉しいですよ、アンジェラ嬢。あなたから手を握り返してくれるなんて……僕がこの触れ合いをどれだけ夢見たことか」
まるで私のことを知っていたかのような口ぶりだ。驚いて軽く目を瞠り、問いかけようとすれば、握っていない方の彼の手の人差し指が、そっと私の唇に触れるように当てられる。
「……アンジェラ嬢のこと、ずっと気になっていたんですよ。ちらちらとこちらの様子を窺うあなたの姿が愛らしくて、会えるのをいつも楽しみにしていたのですが……どうして、一週間前から来なくなったんですか?」
最後の問いかけは、どうしてかひどく冷たい響きを伴っていた。よく分からない寒気に身を震わせ、思わず俯いてしまう。脳裏をよぎるのは、あの銀髪の美少女のことだ。
「……僕に興味を無くしたんですか? それとも、他に想い慕う誰かが出来たとか?」
ランス様の指が、責めるように私の頬を撫でる。私は慌てて首を横に振った。
「そんなこと、ありませんわ! 私が好きなのは、最初からランス様だけ……」
と、そこまで言って口を噤んでしまった。一目惚れだなんて言ったら、気味悪がられないだろうか。
だが、私の返答にランス様は安堵を思わせる溜息をつくと、私の頬に手を添えてそっと上向かせた。
「その言葉を聞けて良かった。……必要とあらばこの手を血に染める覚悟は決めていたんですが、案外平穏なまま望みをかなえられそうで良かったです」
血に染める、とは随分物騒だ。だが、知的なランス様が仰ると、何かの比喩かとも思えてきて、不思議と厭う気持ちは湧き起こらない。
「……ランス様の望みって?」
彼の手が私の赤銀色の髪を梳く心地よさに軽く目を細めながら問いかければ、彼は何てことの無いように告げた。
「あなたを手に入れることですよ。アンジェラ嬢。……いや、他の皆さんと同じようにアンと呼んでも?」
「そ、それは構いませんが……」
私を手に入れることが望みだなんて。夢だとしても幸せすぎる展開ばかりが続いて、ふわふわとした心地になる。
だが、このまま流されてはいけない。なぜか翳ったような彼の紺碧の瞳を見上げ、決心する。
本当のことを聞くのは怖いけれど、彼と婚約するならば、これだけははっきりさせておかなくちゃ。
「……あなたには、他に大切な方がいらっしゃるのでは? もしそうならば、仰ってください。あなたの婚約者になるのならば、あなたの恋人のことは知っておきたいですもの」
「恋人……?」
ランス様は怪訝そうに眉を顰める。まるで心当たりがないと言った素振りに拍子抜けしてしまうが、私は畳みかけるように続けた。
「っ……銀の髪が美しい、あのレディのことです。一週間ほど前に、王立図書館の閲覧室でお話なさっていたでしょう?」
そこまで詳細に語ると、彼はようやく見当がついたようだった。やがて口元におもしろがるような笑みを浮かべ、そっと私の頭を撫でる。
「あれは、僕の姉のローズマリーですよ。僕の父によく似た銀の髪だったでしょう? 薄紫の瞳は母によく似ています」
「あ……」
言われてみれば確かにそうだ。あの美少女は、公爵夫妻の色彩を受け継いでいた。それに、公爵夫人ととてもよく似ている気がする。
私は、ランス様のお姉様に嫉妬していたという訳か。早とちりもいいところだ。愚かな勘違いをしてしまったのが恥ずかしくて、穴があったら入りたい想いだ。
「それにしても、アンは僕に恋人がいてもいい、と思っていたのですか?」
和やかな雰囲気から一転、穏やかな口調の中に鋭さが混じる。そうかと思えば、ずい、とランス様が一歩詰めよって来た。
お気を悪くされただろうか、とぎゅっと目を瞑り、思わず心の中の想いをそのまま口に出してしまった。
「それはっ……もちろん、嫌ですけれど……ロイル公爵家のような裕福な家門であれば、愛人の一人や二人囲うことも容易いでしょうし……将来的にそうなるならば、今から覚悟を決めておきたいと思ったのです」
いまいち要領を得ない話し方に自分自身嫌気が差す。目を瞑ったままランス様の反応を待っていると、不意に両手を掴まれ、そのまま額に柔らかいものが触れる。
「っ……」
突然のことに慌てて目を開けば、すぐ目の前でランス様が直視するのを躊躇うほどの甘い笑みを浮かべていた。遅れて、額に口付けられたのかもしれないと気づいて、顔が燃えるように熱くなる。
「無用な心配です。今もこの先も、僕にはアンだけですから」
あまりにも甘すぎるその言葉に、思わず眩暈を覚えて私はぽすんと、ソファーに座り込んでしまった。
一体何がどうなっているのだろう。私の初恋の王子様が、こんな風に熱烈に愛を囁いてくるなんて。
「大丈夫ですか? アン」
心配そうに整った眉を下げるランス様を見上げ、私はこれから一体どうなってしまうのだろうと、期待と不安の入り混じった戸惑いを覚える。
私が彼の深くどこか歪んだ愛の重さを思い知ることになるのは、これからもう少しだけ先のお話だ。
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