旦那様と呼んだ夜
「うーん、流石に疲れてしまったわね……」
お義兄様との結婚式の夜。祝福に満ちた宴を楽しんだ後、湯浴みを終えた私はベッドの上に寝転がっていた。レインに香油をつけてもらったばかりの藍色の髪がシーツの上に散らばる。
「式に宴に、慣れないことばかりでしたから、お疲れになるのも無理はありません。何かにつけて纏わりついてくるルーク様の対処も大変だったでしょう」
「レインは相変わらずね」
私たちが結婚しようが、レインのお義兄様へのあたりの強さは健在らしい。それが何とも彼女らしくて、思わずふっと笑みが零れてしまった。灰色の瞳はじっと私を見下ろしている。
「……ですから、もうお眠りになられてもよろしいのでは?」
レインは薄手の毛布を私の身体の上にかけながら、とんとんと一定のリズムで私の肩を叩き始めた。
薄手のネグリジェ越しに伝わるレインの手の温もりと、安らかな夢に誘うような独特のリズムが心地よくて、ほうっと息をつく。これはすぐにでも眠れてしまいそうだ。
「駄目だわ、レイン。これ、本当に眠ってしまいそう……」
「ええ、眠ってしまいましょう! 疲れているのなら仕方ありませんから」
やけに生き生きとしたレインは、ひょっとするとお義兄様を困らせたいのかもしれない。
「ふふ、悪いメイドね、レイン」
思わず悪戯っぽく笑いかければ、レインもまたふっと笑みを零す。
「子守唄でも歌って差し上げましょうか」
大真面目に問いかけてくるレインの手に、私は寝転がったままそっと触れた。温かくて小さな手だ。
「そうね……私に子どもが生まれたら、きっとレインも歌ってあげてね」
私の申し出に、レインは僅かに驚いたように目を瞠ったが、やがてどこかだらしなく頬を緩めた。……まさかとは思うが私に似てきたのだろうか。
「……お嬢様のお子様……絶対に可愛いに決まっておりますね! 私が、お世話させていただいてもよろしいのですか?」
「もちろんよ」
レインならば私たちに負けないくらいの愛情を注いで世話してくれるに違いない。寝転がった状態から体を起こしながら、彼女に向かい合う様に姿勢を正した。
「それはそうと、私はもうお嬢様じゃないわよ」
にっと笑いかければ、レインは一瞬だけ寂し気な表情をしたのちに、僅かに頷いた。
「そうですね……もう、式も挙げられたのですし」
一瞬だけ、幼い日のことを思い返すような目をしたかと思えば、レインは僅かに頬を緩める。
「では、今夜からは奥様と呼ばせていただきます」
些細なことだが、一つ明確な区切りがついたような気がして、不覚にも私も感傷的な気分になってしまった。
レインが私をお嬢様と呼んだ期間は10年ほどだろうか。今日からまた、新たな局面が始まるのだと思うと、今夜は私とレインにとっても特別な夜に違いなかった。
「ええ……そうして頂戴。これからもよろしくね、レイン」
「はい」
レインはベッドサイドから立ち上がると、ヘアブラシで私の髪を整えてくれた。いつもより念入りに梳いてくれている。
「本当に、花の妖精のようなお美しさです。奥様」
「ふふ、ルーク様より先に私を口説いてどうするの?」
「確かに、こんな場面見られたら暇を出されてしまいそうです」
冗談めかして笑うレインは、少し離れたところから目に焼き付けるように私の姿を見つめた。やがて、メイド服を摘まんで慎ましく礼をする。
「……では、私はこれで失礼いたします。素敵な夜になりますように」
「ありがとう、レイン」
静かな足取りで寝室を後にするレインの後姿を見送って、一人息をつく。
いつもならばこれで横になるところだが、今夜ばかりはそういうわけにもいかない。これから起こるであろう出来事を意識すると、途端に一人ぼっちの寝室の静寂が居心地の悪いもののように思えてならなかった。
落ち着きのない仕草で藍色の毛先を編んだり解いたりを繰り返していると、間もなくして寝室のドアがノックされた。
このリズムがお義兄様だ。先ほどから少しずつ早まっていた脈が、どくんと大きく跳ねた気がした。
「っ……は、はい」
上ずった声で返事をしてしまい、ますます頬が熱を帯びる。まだ何も始まっていないと言うのに、今からこの調子では我ながら先が思いやられた。
「……エル」
湯浴みを終えたせいか、まだ僅かに濡れたような輝きを放つ銀髪を直視出来なくて、不自然にお義兄様から目を逸らしてしまう。ぱっと見た限りでは、今までの夜と変わらないシャツ姿だったような気がした。
「あ、いい夜ですわね。ルーク——い、いえ、旦那様」
まともに彼の顔を見られないまま、挨拶を交わす。レインから奥様と呼ばれる身の上になったのだから、今夜からはお義兄様のことは旦那様と呼ぶべきだろうと考えての呼び方だったが、それを受けてなのか、私の傍に歩み寄ってきたお義兄様が動きを止めるのが分かった。
「今……旦那様と呼んだのか……?」
お義兄様——否、旦那様にしては珍しい戸惑うような声に恐る恐る顔を上げてみれば、彼はすぐ傍で私から軽く顔を背けるようにして立ち尽くしていた。薄暗がりの中ではっきりとはしないが、よく見ると耳の端が赤い。
……私に旦那様と呼ばれたことが、そんなに嬉しかったのかしら。
そう思うと、私までますます恥ずかしくなってしまう。お互い目を合わせられないまま、羞恥に耐えるようなもどかしい時間が続いた。
「……もう一度」
たっぷり数十秒の沈黙の後、ぎし、とベッドが軋み、ベッドの縁に並ぶように旦那様が私の隣に腰を下ろしたのが分かった。顔を合わせられなくても、すぐ傍に彼の気配と熱を感じて、心臓が爆発してしまいそうだ。
「もう一度、呼んでみてくれ」
私の肩にかかった髪を指先で梳きながら、旦那様は甘く頼み込んできた。
そんなの、断れるはずもない。断れるはずもないのだが、緊張と恥ずかしさのあまりどうにかなってしまいそうだ。僅かに震える指先をぎゅっと握りしめながら、必死の思いで声を絞り出す。
「……旦、那様」
「……できれば、顔を見せてほしい」
注文の多い旦那様だ。こうなったらもう自棄だ、と半ば開き直りながら、私は意を決して旦那様の方へと体を捻った。
「旦那様」
紺碧の瞳をじっと見上げながら呟けば、彼はしばし茫然とした後に、深く、満足げな溜息をついた。
そのまま軽く瞼を閉じたかと思うと、不意に彼の腕に引き寄せられる。旦那様の優しい香りと石鹸の香りが入り混じって、ますます私を落ち着かない気分にさせた。
「……俺は本当に、エルと結婚したんだな」
大袈裟なほど感慨深く言うものだから、彼の腕の中で思わずくすくすと笑い声を上げてしまった。普段の旦那様からは想像もできないようなご様子だ。
「ふふ……先ほどまでは夢見心地だったとでも?」
微笑みと共に彼を見上げれば、至近距離で目が合った。紺碧の瞳に以前のような翳りはないが、執着のような歪んだ熱は帯びていて、状況が状況なだけに私まで心が乱される。
「そうだな。だから——」
不意に旦那様が身をかがめたかと思うと、そのまま左の耳に口付けられる。くすぐったいような感触から甘い寒気が背筋を抜けて行って、少しだけ逃げ出したいような衝動に駆られるが、彼の腕がそれを許さない。
「――思い知らせてくれるか。これが、夢じゃないって」
熱に浮かされたような声が、脳の奥を溶かすように甘ったるく響いた。聞き慣れたはずの愛しい人の声が、今ばかりは、怖いくらい鮮烈に私の心を射抜く。
間近で二人の視線が絡む。今度は先ほどよりももっと近く、鼻と鼻が触れ合う様な距離で。
「……はい、旦那様」
これが何の同意を示すのかくらい分かっている。だからお返しと言わんばかりに、今度は私からそっと彼の唇に口付けた。触れるだけの、優しいキスだ。
彼は私の拙いキスを笑うような、それでいて幸福に酔いしれるような吐息交じりの笑い声を零したかと思うと、やがて噛みつくように口付けを深めてきた。
「エル」
たった一言、私の名前を呼んだだけなのに、その柔らかな響きは彼の愛を証明するには充分だった。
思わず彼の首の後ろに腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。心配性な彼に、私の愛は深く正しく伝わっているだろうか。
……なんて、無用な心配ね。
幸いにも、それを確かめる時間はたっぷりとある。私たちの夜はまだ、始まったばかりなのだから。
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