番外編 

恋文と紺碧の婚約指輪

 緩やかな軟禁生活に終わりをつげ、鎖から解き放たれた直後。


 私はお義兄様に連れられて、ロイル公爵領の公爵邸を訪れていた。


 お義兄様とレインに盛られた薬のせいで、体調はまだ本調子ではなかったが、公爵邸に向かう道中、二人して恥ずかしくなるくらいに過保護に私を世話してくれたので何ら不便はなかった。


 三日ほどの旅程を経て到着した公爵邸は、数か月前と何ら変わらぬ様相だった。変化と言えば、庭の木々が色づいているくらいだろうか。馴染みの香りを胸一杯に吸い込んで、改めて自由の身であることを喜ばしく思った。


「歩けるのか?」


 屋敷に足を踏み入れるなり、お義兄様が私の肩を抱いたまま様子を窺ってくる。想いが通じ合って三日も経ったせいか、もうほとんどいつも通りのお義兄様だ。少し過保護なのが気になるくらいだろうか。


「平気です。もうずいぶん体も軽くなりましたわ」


 お義兄様とレインを安心させるように笑いかければ、レインは若干気まずそうに視線を逸らした。私に対する罪悪感はまだ完全に消えたわけではないらしい。


「そんな顔をしないで、レイン。私はもう大丈夫よ」


 そっとレインの手を握れば、灰色の瞳を潤ませて私を見つめてくる。しばらくはこの調子だろうな、と思わず苦笑が零れた。


「お嬢様……」


 感極まったようなレインの声にどうしたものか、と頭を悩ませていると、横から伸びてきたお義兄様の手が私とレインの手を引き離した。何も言わないが、牽制するようにレインを見つめている。


 ……まさか、レインと手を繋ぐのもお気に召さないのかしら。


 お義兄様の独占欲は相当なものだろうと覚悟はしていたが、これほどまでとは。


 レインはというと、私に対する態度とは打って変わって、睨むようにお義兄様を見上げていた。


「……前々から思っておりましたが、ルーク様は独占欲が強すぎます。晴れてお嬢様のご婚約者様となられるのならば、もう少し広いお心をお持ちくださいませ」


「エルに纏わりつく虫を排除するのも婚約者の役目だと思うが?」


「あなたがそれを仰るのですか!? ルーク様の方がよっぽど気持ち悪いくらいに纏わりついていたじゃありませんか!」


「結果的にそれも含めてエルは受け入れたんだ。文句は言わせない」


 玄関広間で言い争いを始める二人を前に、私は一人額に手を当てて小さく息をついた。二人のことは大好きだが、これはどうにかならないだろうか。


 二人ともヤンデレの素質があるだけに、適当なことを言えば火に油を注ぐだけだ。リリアーナを相談役に招きたいわ、と現実逃避をするようにミラー伯爵領の美しい海に思いを馳せていると、不意に、私たちの傍の階段の上から落ち着いた声が降って来た。


「突然訪ねてきたと思ったら、随分賑やかじゃないか」


 こつり、と杖をつく音が混じる。ぱっと顔を上げれば、にこやかな笑みを浮かべるお父様が階段から降りてくる真っ最中だった。


「お父様!」


 思わず華やいだ声を上げて、階段を下り切ったお父様の傍に駆け寄る。以前よりいくらか体調もよさそうだ。このところは調子がいいと聞くから、公爵領での療養生活がお父様にはあっているのだろう。


「公爵閣下……」


 お義兄様は姿勢を正して深々と腰を折る。レインも慎ましく礼をしていた。


「よく来てくれたな、ルーク。久しぶりに会えて嬉しいよ」


 お父様は私を抱きしめながら、お義兄様にも柔らかな視線を投げかけて、彼の来訪を歓迎した。


「随分急だったが……何か急ぎの話でもあるのかね?」


 お父様は穏やかな微笑みを崩さずに、私の肩に手を置いて問いかける。お義兄様との結婚の許可を強請りに来たというのに、いざ話を切り出すとなると何だか緊張してしまう。


「その……特別急ぎというわけでもないのですけれどね——」


 と、当たり障りのない切り出し方を模索している最中、不意にお義兄様が私の隣に歩み寄ったかと思うと、床に膝をついてお父様に向かって頭を垂れた。突然のことに、私もお父様も動揺を隠せない。


 だが、私とお父様が何か言う前に、お義兄様が口を開く方が早かった。彼は跪いたまま、普段と何ら変わらぬ調子で淡々と告げる。


「公爵閣下、今日は、結婚の許可をいただきに参りました」


 いきなり本題から斬り込むお義兄様に、思わず目を瞠る。お父様は戸惑いを隠すことも無く、じっとお義兄様を見下ろしている。


「結婚の許可……? ルークのかね? エレノアのかね?」


「どちらも、というべきでしょうか。……本日は、エレノアの婚約者の座を頂戴したく伺ったので」


 躊躇いもなく言い放ったお義兄様は、どこか挑戦的にも見える紺碧の瞳を覗かせてお父様を見上げた。


 ほとんど反射的にお父様が息を呑むのが分かる。まさかこんなところで、結婚の許可を強請られるとは思っていなかったのだろう。


 背後からはレインの溜息が漏れ聞こえてくる。何とも私たちらしい展開に、自然と頬が緩んでしまうのだった。






「結婚の許可とは、また随分急だね」


 お父様の談話室に移動した私たちは、ティーカップの並んだテーブルを挟むようにしてお父様と向かい合っていた。


 ハーブティーを出されなくて良かった、と一人安堵しながら、お父様の反応を窺う。私からもお義兄様との婚約は強請っていたこともあってか、お父様はある程度の落ち着きを見せていた。


「誰かにエレノアを奪われたら、と思うと居てもたってもいられませんので」


 お義兄様は言葉とは裏腹に、あくまでも淡々とした調子で受け答える。普段はここまでのことは言わないだけに聞いているこちらとしては何だかそわそわしてしまうのだが、お父様は面白いものを見るような目で私たちを見ていた。


「愛されているのだね、エレノア」

 

「え、ええ……そうですわね」


 その愛が暴走したあまりに監禁されかけたことは、もちろんお父様には内緒だ。多分、この先もずっと。


「私としては、反対する理由はないのだよ。なにせ、エレノアの可愛らしい手紙で大体のことは察していたからね」


 そう言ってお父様が上着から取り出したのは、この間私がお父様にお送りしたあの手紙だ。お義兄様を慕っていると正直に告白した文面がまざまざと蘇ってきて、お父様を目の前にすると何だか恥ずかしくてならないような気になってしまう。


「……ここに書かれているレディとはちゃんと話はついたのかね?」


 お父様は落ち着いた声で静かに問いかけてくる。お義兄様を慕うもう一人のレディ——結果的には勘違いであったが、レインと話が着くまでは介入しないでほしいと強請ったことを、お父様は覚えていてくださったのだ。


「はい……結局、私の勘違いだったのです。お恥ずかしい限りですわ」


 部屋の隅に控えるレインをちらりと横目で捉えながら、軽く視線を伏せる。勘違いで悶々としていたのかと思うと恥ずかしい。


「そうか。じゃあ、この手紙はルークに見せても構わないね?」


 お父様は片目をつぶって茶目っ気たっぷりに問いかけたかと思うと、私の答えを待たずに手紙をお義兄様に手渡してしまった。


「だ、駄目です! お父様ったらもう! ルーク様、その手紙をこちらに渡してくださいませ!」


 隣に並んで座るお義兄様につかみかかる勢いで手紙を奪おうとするも、あっさりとお義兄様の腕に囚われてしまう。


「エルがこっちに来ればいいだろう」


「そ、そういう問題ではないのですわ!」


 手紙をお義兄様に見られること自体が耐えがたいのだ。目の前でお義兄様への想いを綴った手紙をお義兄様本人に読まれるなんて、拷問に近い。


 だが、お義兄様は銀の睫毛を伏せて早速手紙に目を通しているようで、既に遅いのだと悟った。なかなか緩むことの無いお義兄様の腕から、それでも何とか逃れようともがくも、全ては無駄な抵抗に過ぎなかった。


「っ……」


 お義兄様の視線が、手紙の最後の方へと向けられるのを見て、もう駄目だ、と悟った。頬がかっと熱くなるのが分かる。


「……そうか、この手紙は俺から逃げ出すためのものじゃなかったんだな」


 まさかまだ私の想いを疑っていたのだろうか、といっそ開き直って不貞腐れるようにお義兄様を見上げれば、想像以上に嬉しそうな彼の様子に何も言えなくなってしまう。私を捕らえる腕の力が強まった気がした。


「……この手紙は家宝にする」


「私がさせませんから!」


 思わず反射的に言い返せば、ふっとお義兄様が表情を緩めるのが分かった。


 その笑みに私は弱いのだ。ますます何も言えなくなってしまう。


 お義兄様が慈しむように手の甲で私の頬を撫でるも、彼がやるとどうにも色気が漂うだけに一気に脈が早まった。傍から見れば甘ったるい恋人同士の触れ合いにしか見えないに違いない。


「ル、ルーク様、お父様の前ですから!」


 私の頬を撫でるお義兄様の手を、思わず両手で握って下ろせば、彼は少々不満そうな顔をしたがどうやら私の訴えを聞き届けてくれる気になったらしい。テーブルの向かい側でお父様が軽く咳ばらいをするのが分かる。


「その……何だ、仲睦まじいようで結構だな」


「……どうか今のやり取りは忘れてくださいませ」


 たがいに視線を合わせないまま言葉を交わしたのち、やがてお父様がふっと笑うのが分かった。


「……この機会に、ルークにはこれを渡そうか」


 その言葉と共にお父様が取り出したのは、お義兄様の瞳を思わせる紺碧の布が貼られた小さな箱だった。探るようにその小箱を見ている様子を見る限り、お義兄様に心当たりはないようだ。


「開けてごらん」


 お父様はお義兄様に小箱を手渡して促すと、お義兄様はゆっくり小箱を開いて中身を確認した。途端にお義兄様の瞳が戸惑うように小さく揺れる。


「っ……これは」


 箱の中身は一対の指輪だった。大きさからして、男女で対になるような指輪だろう。紺碧の石がはめ込まれた繊細な銀の指輪で、初めて目にするはずなのに、お義兄様を思わせる不思議な指輪だった。


「君のご両親が着けていた指輪だよ。時が来たら渡そうと思っていたのだが……どうやら今がその時のようだからね」


 お父様は、一瞬だけ懐かしいものを思い出すように目を細めた。今は亡きお義兄様のご両親——お父様にとっては弟夫婦の在りし日の姿を思い返しているのかもしれない。


「ルークさえよければ、それを婚約指輪として使うといい。大きさはいくらでも調整が利くだろう」


 お父様の言葉に、お義兄様は恐る恐ると言った様子で指輪に触れ、その感触を確かめているようだった。お義兄様もまた、遠い日のご両親の姿を思い出しているのだろう。


「ルーク様の色ですのね、この指輪」


 私は隣から手を伸ばして、そっと指輪に触れるお義兄様の手に自らの手を重ねた。ここに来てようやくお義兄様が指輪から視線を上げ、私を射抜く。


「……受け取ってくれるか、エル」


「もちろんです。でも……よろしいのですか? ルーク様にとって、とても大切なものなのに」


「エルに持っていてもらいたい」


 お義兄様は手短にそう告げると、小さいほうの指輪をそっと摘まみ上げ、私の右手の薬指に嵌めた。偶然にもぴたりとはまる大きさで、紺碧の石がきらきらと輝いていた。


「ふふ……ありがとうございます。ルーク様」


 そっと彼の手を握りしめながら、ほど近い距離で見つめ合う。お義兄様の紺碧の瞳が、柔らかく細められるのを見るとますます嬉しくなってしまった。


「エレノアをよろしく頼むよ、ルーク」


 テーブルの向こうで私たちを見守っていたお父様が、どこか寂し気な声音で呟く。どこへお嫁に行くわけでもないのに、私の結婚というだけで元気がなくなるだなんて、溺愛っぷりも相当なものだ。


 お義兄様は珍しく真っ直ぐにお父様を見つめた後に、ごくわずかに微笑んだ。それだけでも彼がお父様の言葉を真摯に受け止めたと察するには充分で、二人の姿を見守りながら私も頬を緩めてしまう。


 今日から私は、お義兄様の婚約者になるのだ。


 その喜びを噛みしめながら、右手の薬指の指輪をそっとなぞった。温もりを帯びたような優しい色合いが、愛おしくてならないような気がした。

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