第7話

 翌日は、昨日とは打って変わって秋雨の降るどんよりとした天気だった。窓に打ち付ける雨粒を眺めていると、自然とレインと出会った日のことを思い出してしまう。


 天気は悪いが、今日のお茶も窓辺のテーブルに用意してもらうことにした。雨音が何だか心地よかったのだ。

 

「本日は王国の南部で流行しているというハーブティーをご用意いたしました。少々風味が強いですが、のんびりしたい気分の時にはぴったりだそうです」


 レインは無駄のない動きでティーセットを用意してくれていた。一緒に出されたお菓子は、蜂蜜を練り固めた飴に近い甘味だった。ハーブティーにはぴったりかもしれない。


「ありがとう、レイン」


 礼を述べれば、彼女はいつものように慎ましやかな笑みを浮かべた。天使のような愛らしい笑みは、秋雨のせいで薄暗い室内の中でも陽だまりのように明るい。


 彼女を前にすると、どうしたって緊張する。それは全て、私が固めた決意によるものなのだと分かっていた。


 今日、私はレインにはっきりとお義兄様への想いを告げよう。


 恐らくお義兄様を慕っているであろうレインに、「私もお義兄様が好きなのよ」と伝えるのは何だか心苦しいが、このまま公爵令嬢の立場を利用してお義兄様を奪ったと思われるよりはずっとマシだ。


 だが、レインのことだ。私がお義兄様への想いを明らかにすれば、彼女は身を引くと言い出すかもしれない。


 それならばいっそ悪役令嬢らしく「私のためにお義兄様から身を引いてくださる?」ときっぱり言うべきなのだろうか。その方がレインは気が楽だろうか。


 今日彼女に切り出すことは決意したものの、言葉選びにはどうにも迷ってしまう。ひとまずハーブティーでも飲んで心を落ち着けようか、と考えたところで、ふとレインの方へ視線を送った。


「……良かったらレインも一緒にお茶をしない? 少し、お話したいこともあるし」


 レインと最後に一緒にお茶をしたのはいつだろう。彼女は屋敷にやってきて、やせ細っていた体に血色が戻ってきた辺りからメイドとして懸命に働き始めていたため、彼女と対等にお茶が出来たのは、本当に短い間のことだった気がする。


 もっと休んでいなさい、というお父様の忠告も無視して、レインは必死にメイドとしての知識を携えていった。文字の読み書きから、私の世話をするために必要な技術、私の交友関係の把握まで実に多岐にわたったというのに、レインは文句ひとつ零さず黙々とこなしたのだ。


「私も、ですか……?」


 レインは灰色の瞳を瞠るようにして私を見つめた後、どうしてか気まずそうに視線を泳がせた。


「その……ありがたいお誘いですが、私はあまり、ハーブティーが得意ではなくて……」


「そうだったの? じゃあ、一緒にお菓子を食べるだけでもいいわ。ね、そこに座ってくれる?」


 甘えるように強請れば、レインはおずおずと私の向かい側の席に座った。テーブルを挟んで向き合うような形だ。


「ふふ、ハーブティーは好みがあるものね。私は昔から好きだけれど、苦手な人はずっと苦手だって言うし——」


 と、そこまで言いかけて、ふと、十年前のレインとのお茶会の記憶が蘇った。あの日も確か、私たちのテーブルにはハーブティーが出されていた気がする。


 ……あの時、レインは確か、ペパーミントの香りが好きだと言って、美味しそうに飲んでいなかったかしら?


 今、目の前で湯気を立たせているハーブティーからも、清々しいミントの香りがする。記憶によれば、レインの好物のはずなのに。


「お嬢様?」


 突然口を噤んだ私を不思議に思ったのか、レインが小首をかしげてこちらを見ている。これには慌てて笑みを取り繕った。


「いえ、何でもないのよ。申し訳ないけれど、私だけお茶をいただくわね」


 レインに一言断ってハーブティーを口に運べば、確かに普通のハーブティーよりも爽快感が強い気がした。私としては好ましいが、人によっては癖がありすぎて苦手に思うかもしれない。


 ハーブティーが好きなレインが、これを苦手に思ったとしても不思議はなかった。爽快感が強すぎて苦みのような味が残るあたりも、人を選びそうだ。


 苦みを誤魔化すように蜂蜜を固めた甘味を口に運べば、程よい甘さが口いっぱいに広がって、幸福感を味わった。思わず頬が緩む。


 レインは、そんな私の様子を、どこか泣きそうな微笑みで見守っていた。先ほどから視線を合わせようとしないことといい、今日のレインは何だか少し変だ。

 

「……何か嫌なことでもあった?」


「え?」


 私の問いかけに、レインはきょとんとしたように目を瞬かせる。そんな仕草もいちいち愛らしい辺り、彼女はれっきとしたヒロインなのだな、と思い知らされた。


「今日のレインの笑い方、少し変に思えたから……。余計なお世話だったらごめんなさい」


「あ……」


 レインは自身の頬に触れるようにして、またしても視線を彷徨わせた。私と面と向かうと気まずいことでもあるのだろうか。


 ……ある、のよね。私も。


 まさに私が話そうとしているお義兄様に纏わることで、レインも何か思っていることがあるのかもしれない。このところのレインは私とお義兄様の間にあったことに気づいているような素振りであったし、想い人と自分が仕えている令嬢が恋仲かもしれないだなんて、穏やかな気持ちではいられないのだろう。


 そんなレインに向かって今からお義兄様への想いを口にするのは、やっぱり躊躇われた。だが、このまま有耶無耶になって、レインとの関係が気まずくなるよりは、はっきり自分の気持ちを話しておきたい。


 気分を落ち着かせるように、また一口ハーブティーを口に運ぶ。鼻を抜ける爽快感も、今は心を軽くさせてくれるまでの効果は無かった。


「……申し訳ありません。ただ、秋雨とハーブティーの組み合わせは、どうしたってお嬢様と出会った頃のことを思い出してしまいますので……少しだけ、感傷的な気分になっていたのかもしれません」


「ふふ、レインも覚えていてくれてたの? あの頃も楽しかったわよね。あなたもまだ畏まった口調ではなかったし……」


 メイドらしい言葉遣いを覚えるまでのレインは、どちらかと言えば路地裏育ちらしく乱暴な言葉遣いをすることが多かった。もちろん私を悪く言うようなことはなかったけれど、当時の私からしてみれば、彼女の言葉遣いは何だか新鮮に思えたものだ。


「あれは……どうかお忘れください。思い返す度、恐れ多くて胃が痛くなります」


「大袈裟ね。昔のように話してくれたっていいのよ?」


「御冗談を」


 苦笑交じりに視線を逸らすレインは、いつもの調子を戻してきたようにも見えて少し安心した。


「レインもお菓子を召し上がって? とっても美味しいわ」


「はい、いただきます」


 レインは白い指先で蜂蜜を固めた甘味を摘まみ、そっと口に運んだ。甘いものが好きなのはお互い様だ。


「シンプルだけれど、とっても美味しいわよね。今度はあれが食べたいわ。メレンゲを焼き固めたやつ!」


「承知しました。料理長に伝えておきますね」


 普段の私たちらしい、何気ない会話だ。どちらからともなく、くすくすと笑い合う穏やかなひと時を過ごした後、不意に、雨音だけが響く沈黙が訪れる。


 そろそろ、切り出すべきだろう。結局相応しい言葉選びも定まらないままに、ここまで来てしまった。だが、覚悟を決めなければ。


 そう思っていた矢先、レインが窺うように口を開いた。


「それで、お嬢様、お話というのは……」


 私から誘ったというのに、レインに切り出させてしまった。ぎりぎりまで揺らぐ自分を情けなく思いながらも、私はいつの間にかほとんど飲み干してしまったハーブティーのティーカップを置いて、真っ直ぐにレインを見つめる。


 彼女の灰色の瞳は、雨空の窓辺で見つめると青みががって見えて、レインという名にふさわしく、雨粒のように涼やかだった。


 一度だけ深呼吸をして、私はそっと口を開く。


「あのね、レイン。私、あなたに伝えておきたいことが——」


 意を決して口を開いたその瞬間、突然、私は強い吐き気に襲われた。今すぐ戻してしまうほどではないが、姿勢を保つには辛すぎるものだった。


「っ……」


 思わず手で口元を抑える。必死に吐き気を抑えようとするせいか、冷や汗が額を伝い、動悸が激しくなっていくのが分かった。ふわふわと目の前の視界が揺らぐ。


 ……駄目だわ、座っていられない。


 気づけば私は椅子から崩れ落ちるようにして、床に座り込んでいた。寒いのか暑いのかもよく分からず、ただただ抗いがたい吐き気と眩暈にぎゅっと目を閉じて耐える。


「お嬢様……」


 すぐ傍にレインが駆け寄ってきてくれる気配を感じたが、私の耳には彼女の言葉はまともに届いていなかった。恐らく何か話しかけてくれているのだろうけれど、答えるのはおろか満足に理解することもできない。


 折角、レインとお話をしようとしたのに。尋常ではない気持ち悪さの中で、唯一残っていたその思考すらも、いつしか眩暈に溶けていった。


 歪む視界の中で最後に見たのは、泣きそうな顔で笑うレインの姿だけだった。

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