第8話

「うーん……何だか今日も体が怠いわ」


 レインとの秋雨のお茶会から二日が経とうかという頃、私はベッドに横になったまま、手の甲を額に当てた。


 熱がある様子ではないのだが、どうにも具合が悪くて、あのお茶会以来、ベッドから離れられない日々だ。激しい吐き気は収まったのだが、体が重くて仕方がない。


「何かとお忙しくしておられましたので、きっと疲れがでてしまったのでしょう。この機会にゆっくりと静養なさいませ」


 ベッドサイドであれこれと私の世話を焼いてくれているレインが、私を励ますように笑った。お医者様にもかかったが、レインの見解同様「疲労が原因」という曖昧な答えを貰ったばかりで、気休め程度の薬湯を処方してもらっただけだった。

 

 確かに、「狂愛のスノードロップ」の記憶が蘇ってからというもの、ロイル公爵領にレアード伯爵領、ミラー伯爵領とあちこち渡り歩いていたので、疲れがたまったのだと言われても何ら不思議はなかった。


 昔から体は丈夫なつもりでいたのだが、ヤンデレを前にして気を張り詰める日々を過ごしていたこともあって、心身ともに弱っていたのかもしれない。


「レインの言うとおりね……。ごめんなさい、お仕事を増やしてしまって」


「何を仰るのですか。私は、お嬢様のお世話をしている時間が一番幸せです」


 大真面目に言ってのけたレインが何だか面白くて、思わずくすくすと笑ってしまう。


「もう、本当に大袈裟だわ、レインったら——」


 ごく軽い調子で言ったつもりだったのだが、レインがこちらを見る灰色の瞳が僅かに翳っていて、思わず口を噤んでしまった。


「……少しも大袈裟ではありませんよ?」


 翳った瞳のまま、レインは張り付いたような笑みを浮かべる。美少女がこういう顔をすると、怖いものだな、と私もまた引き攣ったような笑みを浮かべてしまった。


 私が倒れてからというもの、レインは時折、こういう表情で私のことを見るのだ。私の中のヤンデレセンサーが、あの灰色の瞳に宿るのは、執着かそれに近しい感情だと告げている。


 ……私が体調を崩しているから、彼女に余計な心配をかけてしまっているのかもしれないわね。

 

 もともと過保護なくらいに私を世話してくれるレインなのだ。今まで丈夫だっただけに、突然体調を崩してしまった私のことをそれはもう案じてくれているのだろう。


 結局、レインにお義兄様への想いを告げることも叶わぬまま、二日前のお茶会は終わってしまった。早いところ体調を整えてレインと向き合いたいところだ。


「……暇つぶしに、何か本でもお持ちいたしましょうか?」


「そうね……お願いしようかしら」


 周期的にそろそろルシア様からの手紙が来てもおかしくない頃だったが、レインがその話題を出さないところを見ると、どうやらまだ届いていないようだ。ルシア様と殿下の恋模様を伺って元気を貰おうと思っていたのに、少し残念だ。


 本を読むのは好きだが、この国で流行っている恋愛小説は純愛で輝かしいものばかりで、ヤンデレ好きな私としては少々眩しすぎる代物だった。それならばいっそ、お伽噺でも読んでいた方が気が楽かもしれない。


 幸い、公爵邸にある蔵書は膨大だ。長年この屋敷で暮らしている私でも、未だ読んだことの無い本がたくさんあった。退屈することはないだろう。


 だが、レインの提案は、突如響いたノック音で中断されることとなる。


 このリズムはお義兄様だ。レインが流れるような仕草でお義兄様を迎えに行くと、屋敷内で過ごすに相応しいラフなシャツ姿のお義兄様が入室してきた。


 正直、具合が悪くて弱っている姿を好きな人に見られるのは恥ずかしいが、私を心配して来てくれている彼を追い出すわけにはいかない。何より、私だって彼に会えて嬉しいのだ。


「……調子はどうだ?」


 お義兄様はベッドサイドに歩み寄ると、微笑むように私の顔を覗き込んだ。弱っている体には、お義兄様の端整な顔立ちが一層美しく見えてしまう。


「あまり変わりませんけれど……ご心配には及びませんわ。お医者様も、疲れがたまっているだけと仰っていましたもの」


 お義兄様の指先が、撫でるように私の前髪に触れる。その触れ合いがくすぐったくて、何だか頬が緩んでしまった。


「いい機会だ、しばらく休むといい」


 お義兄様ははっとするほど美しい笑みを浮かべて私を見下ろしていた。どこか満たされたようなその表情からしても、お義兄様にしては珍しいほどに機嫌がいい。

 

 ……その割には、瞳の翳りが気にかかるところだけれど。


 私が倒れてからというもの、お義兄様はこうして微笑みを見せてくださることが多いのだが、レインとは比較にならない翳りを瞳に宿していた。


 お義兄様の美しい紺碧の瞳は大好きだが、何かを切望するような、絡めとられるような目で見られると、何だか息苦しくてつい視線を逸らしてしまいがちになる。


 今も、顔を背けても尚、横顔にお義兄様の視線が刺さっていた。

 

 強い執着を肌で感じ、息を呑むようにして耐えていると、彼の指が私の髪を梳き、頬を撫で、感触を確かめるように唇に触れるのが分かった。


「あ、あの……お義兄様……?」


 二人きりの時はまだしも、今はレインの目もあるのだ。まるで恋人にするような手つきで触れられると、恥ずかしくてたまらなくなってしまう。


 ちらりとお義兄様を見上げれば、彼は恍惚とも憐みともとれる複雑な眼差しで私を見下ろしていた。目に焼き付くほどに鮮烈なその表情には、隠しようのない病みが内包されている。


「エルは本当に愛らしいな。この温もりも、感触も、潤んだ目も、困ったようなその表情も、何もかもが愛くるしい」


 お義兄様の口から紡がれたとは到底思えない甘さを帯びた言葉に、私の心臓は、ときめきというよりは、恐怖に近い何かを感じて早鐘を打っていた。


 ……どう考えても、このところのお義兄様の様子はおかしいわ。普段ならば絶対に、こんな言葉は口になさらないもの。


 お義兄様が私の顔の横に手をついて、僅かに身を乗り出す。ベッドに座るような体勢のようだが、顔にかかる彼の影に、私はただ目を瞠ることしか出来なかった。


「……怯えているのか?」


 言葉とは裏腹に楽しそうに問いかけるお義兄様が何とも不穏で、笑い返すこともできなかった。


「そんな……こと、ありませんわ、お義兄様」


「そうだよな。俺はただ、エルを慈しんでいるだけなのに……優しいエルが怯えるなんて、そんなひどいことするはずないよな?」


 それにしても、とお義兄様は溜息交じりに私の頬を撫で、私の耳元に顔を寄せた。


 愛おしいはずの触れ合いなのに、撫でられた頬から全身にぞわりと寒気が走り抜ける。


「……エル、いつまで俺をそう呼ぶつもりだ? まだ義妹でいられるとでも思っているのか?」


 吐息と共に紡がれる言葉は、脳の奥深くを溶かしていくような、歪んだ熱を帯びていた。

 

 脈が速い。何か言うべきだと分かっているのに、最早隠すこともしなくなったお義兄様の病みの前では、言葉も声も奪い去られてしまう。


 お義兄様が耳元から顔を離し、今一度私の頬を撫でた。意味ありげな笑みと共に、翳った紺碧の瞳に私だけを映し出している。


「……あまり俺を困らせないでくれ。エルは『いい子』だから、どうすればいいのか分かるよな?」


 優しい口調だが、半ば脅迫のようにも聞こえるのは私の気のせいではないだろう。お義兄様の圧倒的な病みを前に、僅かに身を震わせながら、私は声を絞り出した。


「……ルーク、さま?」


 要は名前で呼べということなのだろうと思ったのだが、違っただろうか。恐る恐るお義兄様の表情を窺ってみる。


 お義兄様は、ひどく満たされたような表情で微笑んでおられた。どうやら、これで正解だったらしい。


「これからはそう呼べ」


 お義兄様は私の手を取ると、そっと手のひらに口付けながら、横目で私を捉え、意味ありげに微笑んだ。あまりに色気のあるその姿に、ただでさえ具合が悪いと言うのに眩暈がしそうだ。


 ……それにしても、お義兄様のこの病みは一体どういう訳なのかしら。


 夜会の直前まで私を避けていたのはむしろお義兄様のほうで、口付けを交わした辺りまでは、この上なく順調で病むところなどなかったはずなのに。


 何だか、レインと話し合って、正々堂々とお義兄様にアプローチする、なんていう可愛い段階はとうに過ぎ去っているような気がして、胸騒ぎがした。


 ……私、もしかして、どこかで何かを間違えてしまった?


 こういうとき、いっそ鈍感であれたらどれだけ良かったか。相手の病みと執着に人一倍目ざといあまりに、悶々と悩む羽目になる。


 だが、何かしらの対策を始めるにしてもまずは、体調を整えてからだろう。レインについてもお義兄様についても、何をするにしたって私が元気でないことには話が始まらない。


 そっと薄手の毛布を口元まで手繰り寄せて、そこはかとなく漂い始めた不穏な空気を誤魔化すように、ぎゅっと目を瞑る。


 早く、早く体調が元通りになりますように、と誰ともなしに祈りながら、私は二人の執着の眼差しから逃れるように、夢に沈み込んだのだった。

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