第2話

「お嬢様、大変お美しいですよ」


 王都の屋敷に戻ってから二週間ほどが経ったある日、私はある夜会に向けての準備を整えていた。


 今はドレッサーの前に座って、レインに髪を整えてもらったところだ。藍色の髪が複雑に編み込まれ、以前ルシア様から頂いた紺碧の髪飾りで留めてある。レインの手先の器用さが窺える出来栄えだった。


 鏡を覗き込めば、普段より時間をかけて施されたお化粧の完成度に溜息が零れてしまった。品の良い赤い口紅に、ほんのり色づいた頬、目元にも薄い赤が乗せられていて、我ながら良く似合っている。淡い色合いよりもこういった印象的な色遣いの方が、この外見を引き立てる気がしていた。


「ふふ、今日も素敵に支度をしてくれてありがとう」


 あとはアクセサリーをつければ終わりだろうか、と思いながら首元に手を当てる。襟ぐりの深いデザインのドレスなので、何かしら首元に飾ったほうが締まるだろう。

 

 そう思いながら、私は三日前ほどから左の首筋に浮き出た赤い痕にそっと指先を触れさせた。ものすごく目立つわけではないが、気にならないと言えば嘘になる。


「うーん、虫にでも刺されちゃったのかしら。夏も終わりだと言うのに……」


 秋めいてきた今日この頃だが、暑さが完全に引いたわけではないので、窓を開けていることはよくある。夏の名残の虫に刺されてしまったのかもしれない。


「ええ、とっても悪い虫のせいです。眠るお嬢様に纏わりついている様子でしたので、私が追い払っておきました」

 

 レインは鏡越しに笑いかけた。やけに清々しい笑顔を若干不思議に思うが、私もつられるようにして小首をかしげながら小さく笑う。


 確かに三日ほど前、ソファーで眠ってしまっていたことがある。どうやらあの時に刺されたようだ。


「ありがとう、レイン。虫はあまり得意ではないから追い払ってくれて助かるわ」


 蝶々などは見る分には綺麗と思うこともあるが、触るのはどう頑張っても無理だ。考えただけで身震いしてしまう。


「……この痕を隠せるような装飾品はあったかしら?」


 鏡越しにレインに問いかければ、彼女は曖昧な笑みを浮かべてちらりと私室の扉を見やった。


「はい、そろそろ来ると思うのですが……」

 

 何か新しい装飾品を持ってきてもらう手筈になっていただろうか。レインの視線を辿るようにして私室の扉を見つめていると、タイミングを見計らったかのようにノックの音が響き渡った。


 すっかり聞きなれたこのリズムは、紛れもなくお義兄様のものだ。


 レインは軽やかな足取りで扉を開けに行ったかと思うと、夜会に向かう礼服姿のお義兄様と何やら話し込んでいた。会話の内容は聞こえないが、お義兄様にしては言葉数が多いことは分かる。何より、二人の空気はどことなく親し気だった。


 実は王都の屋敷に戻ってからというもの、お義兄様とレインがこうして話し込んでいる場面を度々目にしているのだ。


 レインにお義兄様と何を話していたのか訊いてみても「他愛もない内容でございます」とはぐらかされるばかりだった。


 それを少しだけ面白くないと思う自分がいることを認識しながらも、決断の時は迫られてるのかもしれない、と相変わらず思い悩む日々なのだ。


 そう、この「狂愛のスノードロップ」の世界で未だ結ばれていないのは、お義兄様とレインだけなのだから。


 順番から言っても、既に二人の恋物語が動き出していても不思議はない。決定的な出来事が起こっていないだけで、少しずつ距離が縮まっている段階なのかもしれないのだから。


「狂愛のスノードロップ」におけるルークは、初めこそこうして二人で親しく話すだけだったはずが、徐々にレインへの束縛を強めていった。最終的にはレインが他の人間と話すのを厭うて、彼女を地下牢に閉じ込めてしまうくらいには。


 もっとも、レインを地下牢に閉じ込める引き金となるのは、エレノアがレインを虐めている光景をルークが目の当たりにすることなのだが、どうしたものかと頭を悩ませる。


 作中の展開通りなら、レインを虐めた時点で私はお義兄様に殺されることになるのだ。それを機に二人の物語は一気に進むことになるのだが、果たして今のお義兄様が私を殺すだろうか、という疑問は残る。


 あれだけ甘く、私に親切にしてくださるお義兄様なのだ。私が少し痛みを訴えるだけでお医者様を呼ぶ始末なのに、彼が彼の手で私を傷つけるなんてとても想像できない。


 だが、まあ、彼は「狂愛のスノードロップ」の中でもトップクラスのヤンデレだから、一般的な価値観や常識で考えない方がいいのは確かだ。レインへの想いに狂えば、私のこと何てどうでもよくなったって不思議はない。


 そこまで考えて、何だか自嘲気味な笑みが零れてしまった。


 私はお義兄様とレインの恋を応援するのかどうか、それすら決めかねている現状だ。尊いヤンデレカップルは見たいけれど、心の中にひっそりと芽生えたこの想いを、自ら殺してしまってもいいのだろうか。


 ふと、私は自分が纏っているドレスに視線を落とした。今日のドレスは、深い紺碧の生地に銀糸の刺繍が入った、とても品の良いものだ。一見地味にも思える色合いかもしれないが、エレノアの美貌を存分に引き立てていて、清廉な華やかさのあるドレスだった。


 紺碧に銀糸、それを自ら選んだ自分に思わず笑ってしまった。特別意識して選んだわけでもないのに、お義兄様にまつわる色を纏っているなんて。お義兄様の存在は、想像よりずっと深く、私の心に根付いているらしい。


「狂愛のスノードロップ」最後のヤンデレカップルを応援するか、芽生えつつあるこの想いのままにぶつかるか。


 未だふらふらと迷い続ける、優柔不断な自分が嫌になる。そうこうしているうちに、二人の物語はどんどん進んでいってしまうかもしれないのに。


 はあ、と小さく溜息をつくと、レインがお義兄様を連れて私の許へやって来た。随分長いこと話し込んでいたらしい。


「エル」


 夜会に出向くための礼装姿のお義兄様は、今日も今日とて目を瞠るほどのお美しさだ。銀髪を片側だけ上げているせいか、冷たささえ思わせる紺碧の瞳がより印象付けられる。陽だまりよりは月の光が似合う、怪しげな色気も醸し出していた。


 見目だけは散々褒められる私だから、お義兄様のお隣に並んでも見劣りはしないはずなのだが、お義兄様のどこか陰鬱さすら思わせる仄暗い雰囲気に呑まれてしまいそうだ。


「お義兄様、御機嫌よう。今夜も素晴らしいお美しさですのね」


 挨拶を交えながらドレッサーの前の椅子から立ち上がろうとしたが、さりげなくお義兄様の手に止められる。不思議に思い、椅子の上に座り直せば、お義兄様が跪くようにして私に細長い小箱を差し出した。


「……これを今夜の夜会に着けていけ」


 繊細な花模様の細工が施された小箱は、王都で人気の装飾品を扱う工房のものだった。近頃はあまりの人気に、高いお金を払ってもなかなか入手できないという噂も聞いたことがある。


「開けてみてもよろしいですか?」


 窺うようにお義兄様を見つめれば、紺碧の瞳はただ私を見つめ返すだけだった。いかにもお義兄様らしい反応だ。無言は肯定の証なのだろう。


 お義兄様の見守られながらそっと小箱を開けてみれば、中には見事な細工のチョーカーが収められていた。


 深い紺碧の細長いベルベット生地に、細やかなレースがあしらわれており、向かって右側に大ぶりのリボンが付いている。光の加減によってベルベットの生地がきらきらと輝くことからしても、銀糸が細やかに刺繍されているのだろう。リボンの中心には銀に輝く宝石が縫い留められていて、品の良い華やかさを演出していた。


 刺繍の見事さからしても、宝石の大きさからしても、相当値が張るものだと分かる。何の記念日でもないのに贈られるには、少々気後れする品物だ。


「……こんな素敵なものを、よろしいのですか?」


 思わず目を瞬かせながらお義兄様に問いかければ、彼は小箱からそっとチョーカーを取り出して私の背後に回った。そのままそっと首の後ろでチョーカーを止めてくれる。


「……良かった、隠れるな」


 お義兄様は背後からそっとチョーカーのリボン部分に触れた。先ほどまで私が気にしていた赤い痕はリボンですっかり隠されてしまっている。


「まさか……これのためにわざわざ?」


 私はそっとリボンの下に隠れた肌に指を這わせ、鏡越しにお義兄様を見つめた。彼の紺碧の瞳が珍しく揺れる。


「まあ……そうなるな」


 謝罪の気持ちも込めてだが、とよく分からないことを呟いていらっしゃったが、これには思わず椅子から立ち上がり、お義兄様に抱きつくようにして声を上げてしまった。


「嬉しい! お義兄様は本当にお優しいのですね! 些細な傷のために、こんなにも素敵なチョーカーを贈ってくださるなんて……」

 

 お義兄様の前で首筋のこの傷を気にしたことはなかったはずなのに。


 大した観察眼だ、と心の底から感心してしまう。何より、彼が私がこの傷を気にしているだろうと考えて、贈り物まで用意してくれたその親切が嬉しかった。


 お義兄様はしばらく私を見下ろしていたが、いたたまれないとでもいう風に視線を逸らしてしまった。

 

「……レインの助言があってのことだ」


「レインの?」


 お義兄様と距離を詰めたまま、レインを見やれば、彼女は小さく微笑んで見せた。相変わらず天使のような笑みだ。


 首筋に虫刺されがあることに気づいて、さりげなくお義兄様を頼ってくれたのだろうか。


 レインの細かな配慮を嬉しく思いながらも、こんな些細なことを相談できる程度には、レインとお義兄様の距離は縮まりつつあるのだと言うことを実感させられて、ちくりと胸が痛んだ。


「……ありがとう、レイン。おかげで思いきり夜会を楽しめそうよ。虫に刺されてしまっただけとはいえ、ちょっぴり気になっていたもの」


 再び首元のリボンに触れれば、お義兄様が何とも複雑そうな表情で私を見下ろした。


「……虫、か」


「ええ、お昼寝をしているときに刺されちゃったようなのです。レインが追い払ってくれたみたいなのですけれど」


 首の傷の訳を説明すれば、ますますお義兄様は私から視線を逸らしてしまった。そのまま私の肩に手を置き、そっと距離を取ると、どこか恨めしそうにレインを睨む。


「レイン……お前な……」


「私はありのままをお話しただけですよ? 悪い虫が纏わりついていたので、追い払っておきました、と」


 くすくすと笑いながらお義兄様を見つめるレインはいつになく楽しそうで、お義兄様もお義兄様で、ますます彼女を睨む眼光を鋭くしていた。


 お義兄様が睨みを利かせるということは、それだけ心を許している証である。作中のルークとレインとは少し雰囲気が違うものの、どこか楽しそうな二人の姿に、表面上は微笑みを取り繕いつつも、やはり内心ちくちくと胸が痛んだ。

 

 本当に、いつの間に二人はここまで仲良くなったのだろう。私が見ていなかっただけで、以前からこのようなやり取りはあったのだろうか。


 想像するだけで、面白くないような気分になってしまった。残念ながら私は鈍感で可愛いヒロインではないので、この感情を何というのか知っている。

 

 嫉妬だ。お義兄様とレインが仲良くするたびに、小さな黒い感情が澱の様に心の奥に溜まっていくのだ。


 それはきっと、私がお義兄様に惹かれている何よりの証なのだろう。薄々勘付いていた想いが、少しずつ明確な輪郭を得ようとしている気がしてどうにも苦しかった。


「……支度はもういいのか?」


 不意にお義兄様が私を振り返ったことで、はっと我に返った。置時計を見やれば、そろそろ出立してもいい時間だ。


「ええ、このチョーカーで完成です」


「なら、そろそろ向かおう」


 その言葉とお義兄様は私の手を差し伸べようとして、一瞬躊躇うように手を震わせた。


 実は、このところのお義兄様の違和感は、レインとの親密さだけではない。時折こうして、私に触れることを躊躇うようなそぶりも見せるのだ。


 一体、どういう心境の変化なのだろう。どこか気だるそうに再び私に差し出されたお義兄様の手を見て、物寂しさを感じつつも、一度だけ深呼吸をする。

 

 考えるべきことが山とあるのは分かっているのだが、取りあえず今夜は気持ちを切り替えなければ。

 

 私は満面の笑みを浮かべて、そっとお義兄様の手に自らの手を重ねる。これから始まる夜会に思いを馳せるだけで、誰ともなしに拝みたくなる気持ちだ。

 

 ……なぜなら今夜は、シャノンとハドリーの婚約発表の夜会なんですもの!!


 二人がオートレッド子爵家とレアード家の確執を乗り越えて婚約を結んだことに対する感慨はさることながら、シャノンのドレス姿がどれだけ美しいか、考えただけで眩暈がしそうだ。余すところなくこの目に焼き付けなければならない。


 そう一人意気込んでいると、私の手を取ったお義兄様がふっと笑うのが分かった。


「今夜のお義兄様は何だかご機嫌がよろしいのですわね」


 お義兄様に導かれるようにして、屋敷の前に留めてある馬車へ向かう。


 お義兄様も、シャノンやハドリーに会えるのが嬉しいのだろうか。ルシア様と王太子殿下もおいでになると聞いているから、あるいは久しぶりにご友人に会えるのを楽しみにしているのかもしれない。


 なんて、色々と考えていたのに、続くお義兄様の言葉は予想外のものだった。


「……お前が楽しそうにしているからな」

 

 何でもないことのように呟いて、お義兄様は先に馬車に乗り込んで私に手を差し出した。今は特別微笑んでおられないけれど、それでも私を慈しむような感情が伝わってくる。

 

 ずるい。あっさりとそんなことを言ってのけるなんて。


 僅かに頬が熱を帯びるのを感じながら、そっとお義兄様の手を取った。絹の手袋越しに伝わる温もりに、力強く引き寄せられる。


「……顔が赤いな」


 馬車の中で至近距離でお義兄様に指摘され、余計に顔が熱くなった。ぷい、とお義兄様から視線を逸らしながら、誤魔化すような言葉を口にする。


「や、夜会用のお化粧ですから、少し頬紅が濃いだけですわ。こういうものなのです!」


 レインが施してくれたお化粧は、華やかながらも品の良い薄さだったのだが、ここは言い訳に使わせてもらった。


 幸いにもお義兄様はそういうものかと納得なさったらしく、それ以上の追及はなさらなかった。


 安堵の溜息をつきながら、流れ出した馬車の外の景色を見やる。夕暮れの光に包まれる王都は、温もりを帯びた美しさだった。

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