第3話

 シャノンとハドリーの婚約発表は、王都のレアード伯爵邸で行われた。


 清廉で落ち着いた雰囲気の白と金を基調とした広間の中、本日の主役が今まさに、大勢の人々に見守られながら入場しようとしているところだった。


 私の傍にはお義兄様はもちろんのこと、ルシア様と王太子殿下のお姿もあって、共にシャノンとハドリーの登場を待ち望んでいる状態だ。


 シャノンは、今夜は騎士としてではなく、あくまでもオートレッド子爵家の令嬢としてこの夜会に臨む手筈になっている。


 男装していてもあれだけ麗しかったシャノンなのだ。ドレスを纏ったらどれほどの美しさだろう。


 想像するだけで溜息が零れてしまう。ここにパンがあれば既に2、3斤ほど食べていたところだ。


「……エレノア、嬉しそう」


 ルシア様が私の顔を覗き込んで、にこりと微笑まれた。ルシア様は今日も今日とて可憐でとても可愛らしい。


 ルシア様の白金の髪には私とお揃いの髪飾りが飾られており、ドレスも装飾品も殿下の瞳の色である新緑で統一されている。そのどれもが見るからに一級品で、殿下の溺愛のほどが窺い知れた。


「ふふふ、応援していた恋が無事に実を結ぶのを見届けるのは嬉しいですわ。もちろん、それはルシア様と王太子殿下にも言えることなのですけれど」


「なんだ、エレノア嬢はあの二人の恋路にも関わっていたのか」


 私たちの会話が聞こえていたらしい王太子殿下が、面白がるように私に一瞥をくれる。深い紺の礼服を纏った殿下は、凛々しい雰囲気でとても素敵だ。


「ええ、まあ、少しだけ……」


 はにかむように告げれば、私の隣に並び立つお義兄様が小さく溜息をつく。


「少し? あれだけのことをしでかしておいて、よくそんな口が利けるな」


 冷たい声には明らかに怒りが滲んでおり、私が誘拐されたあの事件のことを未だ根に持っているのだと悟る。


 これにはしゅんと肩を落としてしまった。お義兄様に心配をかけた上、助けに来て貰った以上、私からは何も反論できない。


 だが、ふとルシア様が私の肩に触れたかと思うと、お義兄様を見上げて流暢に話し始める。


「ルーク様、詳しい事情は存じ上げませんが、エレノアにこんな表情をさせる必要があるのですか? 心配と怒りをぶつけることは違いますのよ」


 ここまで言葉数が多い辺り、ルシア様の中ではお義兄様は親しい人の部類には入っていないらしい。


 王太子殿下も、「親しい人の前では極端に無口になる」というルシア様の習性に理解をお示しになっているようで、以前とは違い、むしろ微笑ましいものを見るような目でルシア様とお義兄様を見守っていた。


「エレノア……可哀想」


 ルシア様は私を慰めるようにそっと寄り添ってくださる。甘い香りと共に僅かな温もりに包まれた瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。


 ルシア様が不快だったわけではない。突如として左右から浴びせられた二つの鋭い視線に、病みと翳りを感じたからだ。


 右からは、笑顔を保ちつつも明らかな敵意を私に向けてくる王太子殿下の視線が、左からは心底気に食わないとでも言いたげな、睨むようなお義兄様の視線が向けられていた。


 どちらも私に向けられているだけに、大変居心地が悪い。両手にヤンデレは心臓に負荷がかかりすぎる。


「……ルシア、あまりエレノア嬢にくっつくと、二人のドレスが崩れてしまうだろう。こちらへおいで」


 王太子殿下は優雅な仕草でルシア様に手を差し出して、彼女を傍に引き寄せた。牽制するように私に一瞥をくれた後は、すぐさまルシア様に視線を戻す。


 殿下がルシア様を見る瞳には、溢れんばかりの愛おしさと焦がれるような熱が帯びていて、二人が非常に上手くいっていることを悟るには充分だった。


 王太子殿下もヤンデレだが、今はもう、愛する人を傷つけるタイプのヤンデレではないのだろう。代わりに周りに対しては、牽制するように薄い笑みを浮かべるようになっていた。


 一方でお義兄様と言えば、勢い余って愛する人も、愛する人を傷つける人間も殺しかねない辺り、危険なヤンデレだと思う。気が抜けないタイプのヤンデレだ。


 そっとお義兄様の表情を見上げてみれば、揺らがない紺碧の瞳と目が合った。今までは見慣れていたその表情も、近頃ではむしろ珍しくなっていただけに何だか戸惑ってしまう。


 このところのお義兄様との距離の近さなら、私を引き寄せても不思議はない。思わず身構えていたのだが、彼はしばらく私を見つめた後に、ふい、と視線を逸らしてしまった。


 まるで興味を失ったと言わんばかりに逸らされたその視線が、思いのほか心に刺さる。身構えていたことが何だか恥ずかしくて、きゅっと自分で自分の手を握りしめてしまう。


 ミラー伯爵邸では、あれ程親しくしていたというのに、三日ほど前から、お義兄様が私に触れる機会がぐっと減った気がする。義兄妹としての適切な距離と言えばそうなのだが、どこか物寂しく思っている私がいることも確かだった。


 ……私、お義兄様から触れられることを、いつの間にか当然だと思い込んでいたのね。


 冷静に考えてみれば私たちは義兄妹なのだから、むやみやたらと触れ合うことの方がおかしなことなのに。お義兄様の温もりが触れていないことを、寂しく思ってしまう自分が何だか気恥ずかしかった。


「レアード第五騎士団長並びにオートレッド子爵令嬢の御入場です」


 高らかに宣言する従者の声に、私ははっと顔を上げた。今夜の主役を迎え入れるべく、会場の人々からわっと拍手が沸き上がる。

 

 気持ちを切り替えて、私も拍手で二人を出迎えた。私たちのいる場所は限りなく広間の中心に近い場所なので、二人の姿をよく見られそうだ。


 厳かに開かれた扉から、腕を組んだ一組の男女が入場してくる。


 そのあまりの麗しさに、会場の誰もが息を呑んだ。


 煌めく金の髪に、涼し気な琥珀色の瞳のハドリーは、騎士の礼装姿をしていて思わず目を奪われる凛々しさだった。


 だが、恐らく、会場の誰もの視線を奪っていたのは、彼の隣で花が綻ぶような笑みを見せるシャノンのほうだろう。

 

 シャノンは、まるで花嫁衣裳のような純白の生地に金糸があしらわれた、シンプルなデザインのドレスを身に纏っていた。華美な雰囲気よりも、清廉さを思わせる何かがある。令嬢にしては短い、赤みがかった銀髪は、上手く結い上げられており、ほっそりとした首筋が露わになっていた。髪と同じ赤銀色の睫毛で縁取られた瞼は僅かに伏せられており、そこから覗く紅の瞳の鮮烈さが目に焼き付いて離れない。


 凛とした美しさを保った、素晴らしい姿だった。れっきとしたご令嬢であるのに、騎士としての誇りも思わせるような、またとない涼やかな美しさを誇っている。ハドリーとも本当によくお似合いだ。


 予想以上の美しさに、これには思わず感嘆の溜息をついた。似たような溜息が会場中のあちこちから漏れ聞こえてくる。


「……綺麗ね」


 二人の美しさに感動したことはもちろん、この短い期間に両家の溝を埋めるために奔走し、婚約にまでこぎつけた二人には非常に感慨深いものがある。二人のことだから、表面上は素直ではない言葉をやり取りしていたに違いないが、こうして並び立つ二人は、以前見かけたときよりもはるかに親し気で、想いが深まっているのは火を見るよりも明らかだった。


「尊い……あまりにも尊いわ……」


 譫言のように繰り返せば、お義兄様が訝し気な視線を投げかけてくる。まずい、口に出ていたらしい。


 とはいえ、この美しさの前では致し方ないだろう。パンを何斤でも、どころか、パン屋さんに並ぶパンをすべて食べつくせてしまいそうな感動を覚える。この数週間に二人の間に起こった出来事を妄想するだけで、向こう三年は退屈しない気がした。


 シャノンとハドリーは、広間の中心で無事に婚約を結んだ旨を報告し、決まりきった挨拶を述べていた。あまりに輝かしい二人は、シャンデリアの光とは別に発光しているのではないかと思うほどに眩しい。

 

 二人が挨拶を終えると、会場は再び明るい賑やかさに包まれた。会話の邪魔にならない程度に流れる音楽と、使用人たちが運び続けるお酒の甘い香りに、自然と気分も高揚する。


 主役の二人はというと、この会場で最も身分の高いカップルである王太子殿下とルシア様に挨拶にやって来た。


「レアード騎士団長、オートレッド子爵令嬢、この度はおめでとう」


 王太子殿下が、ルシア様と共に朗らかに二人に声をかける。慎ましく礼をする二人は、やはりどこか騎士然とした雰囲気を覗かせていた。


 間近で見ると、本当に目が潰れそうなほどの美しさだ。直視するのが躊躇われると言うのはまさにこのことだろう。騎士であることも相まって、二人の纏う清廉な雰囲気は最早神聖さすら思わせる。大袈裟な表現に思えるかもしれないが、二人は尊い隠れヤンデレカップルなのだ。どれだけ言葉を並べ立てても足りない。


「身に余るお言葉、心より感謝いたします」


 ハドリーは非常に簡潔な言葉ばかり並べていたが、それもある意味騎士らしくて素敵だ。


 ハドリーが殿下と会話をする中で、ふとシャノンの紅の瞳と目が合った。その瞬間、シャノンはぱっと嬉しそうに頬を緩ませる。


「エレノア様、お久しぶりです」


「シャノン様……!! ご婚約、本当におめでとうございます! いつものシャノン様もとても素敵でしたけれど、今夜は殊更にお美しくて、相応しい言葉が見つかりませんわ……!」


 ほう、と溜息交じりに告げれば、シャノンはどこか照れたように小さく笑った。その気取らない笑い方も、ますます彼女を魅力的に見せている。


「エレノア様には敵いません。今夜も大変可愛らしくていらっしゃる。会場に足を踏み入れた瞬間、一目でエレノア様がどちらにいらっしゃるのか分かりましたよ」


 ……シャノン様は、ドレス姿でも女性をときめかせるのに長けていらっしゃるのね。


 お世辞や賞賛の言葉を沢山受けてきた私だが、これにはだらしなく口元がにやけてしまう。どうにも気恥ずかしくて、思わず頬に手を当てて視線を彷徨わせる始末だ。


「うふふふふ、シャノン様ったら……そんな風におっしゃると、私、照れてしまいますわ!」


 えへへ、とだらしなく頬を緩ませれば、シャノンはふっと慈しむように私を見た。そういうちょっとした表情が様になるから恐ろしい。


「……今夜、エレノア様にこの姿をお見せ出来て良かった。私たちのことを、誰よりも応援してくださったのはエレノア様ですから」


 柔らかく細められた視線はまっすぐに私を見据えていて、そんな風に真っ向から感謝をされるとやっぱり気恥ずかしくなる。


「私としても、仲睦まじいお二人のお姿を見られて幸せです。本当に良かった……」


「仲睦まじいかは分かりませんが、そうですね……まあ、それなりに上手くやっているつもりです」


 私から軽く視線を逸らしながら、断固としてハドリーとの親密さを認めないシャノンに、これまたにやけてしまう。レディ・エドナの遺書を受け取った直後に、甘い言葉でハドリーをからかったあのシャノンは大変貴重なものだったらしい。


「シャノン、また何かエレノア嬢に余計なことを吹き込んでいるな?」


 王太子殿下とお話を終えたらしいハドリーが、シャノンを牽制するようにじとっと見つめた。二人して軽口を言い合う関係であることに間違いはないのだろうが、どちらかと言えばハドリーの方がシャノンに優しい。


「お前には関係ないことだ」


「成程な……こんなめでたい席でもお前のそのひねくれた性格は健在なわけだ、シャノン……」


「ひねくれた? そっくりそのままお返しするよ。涼しい顔して裏ではエレノア様にもティルヴァーン公爵令嬢にも言えないようなことばかりしてるくせに」


「お前……そういう誤解を招く言い方はやめろ。ご令嬢たちにとんでもない下種だと思われるだろ!?」


「何か間違ったことを言ったか?」


 ドレス姿で睨みを利かせつつ、鼻で笑うシャノンもとても綺麗だ。その視線を受けて、苛立ちに琥珀色の瞳を揺らがすハドリーを見て、やっぱりケンカップルは良いな、と心の中でパンを一斤丸呑みする。


 これでいて、ハドリーはシャノンが傷つけられたら、裏では徹底的にやり返すのだからもう本当にたまらない。


 思わず指を組んで尊い二人を前に感謝を捧げていると、ふと、二人のやり取りを見ていたらしいルシア様がちらちらとこちらを見つめていることに気づく。


 ルシア様は微笑みを保ちつつも、どこかはらはらとした様子で二人を見つめたり、私に助けを求めるような視線を投げかけたりしていた。


 どうやらルシア様は、シャノンとハドリーが本気で喧嘩を始めてしまったと思っているらしい。王太子殿下とこのような言い争いはまずしたことの無いであろうルシア様からすれば、その懸念はある意味もっともなのかもしれないが、あまりの純粋さに再びにやけるように頬を緩めてしまった。


 王太子殿下もルシア様の懸念を正しく受け取ったのだろう。微笑ましいものを見たと言わんばかりにくすくすと笑いながら、ルシア様の腰を引き寄せて彼女を安心させるように告げた。


「大丈夫だ、ルシア。あれは彼らなりの愛情表現だから」


「愛情、表現……?」


 きょとんとするルシア様の愛らしさに、私は一人悶絶した。そうこうしているうちに、今の会話を聞き届けたらしいシャノンとハドリーが殿下に速攻反論を始める。


「恐れ多くも申し上げますが、殿下、これは決して愛情表現などという可愛らしいものでは……」


「ティルヴァーン公爵令嬢に嘘を教えるのはいかがなものかと」


 殆ど言葉が重なる勢いで反論する二人を前に、殿下は堪え切れないとでも言うように小さく噴き出した。以前から人当たりの良い殿下だったが、ルシア様と無事に心が通い合ってから、ますます表情が柔らかくなった気がする。やはり、恋の力は偉大だ。


「はあ……本当に、お二組とも、私の理想の恋人同士ですわ。これからもそのように幸せにいてくださいませね」


 指を組んだまま思わずうっとりと呟けば、四人の視線がなぜか私を通り越して、ここまでずっと傍観を決め込んでいたお義兄様に向けられる。


「……だ、そうだぞ、ルーク。適度に甘やかし、適度に軽口をたたき合えば行けるんじゃないか?」


「人の幸せを願ってばかりの彼女の幸せを、そろそろわたくしも見たいですわ」


「俺が言うのもなんですが、束縛はほどほどになさった方がうまくいくと思いますよ」


「一番お傍で守って差し上げられるのは、きっとあなた様だけなのでしょう」


 一気に四人からの注目を浴びたお義兄様は、揺らがない紺碧の瞳で彼らを見つめていたが、溜息交じりにすぐに視線を逸らしてしまった。


「……何のことだか」


 照れているのか、本当にどうでもいいと思っているのか分からないところが、お義兄様の難しいところだ。


 ミラー伯爵領から帰った直後であれば、多少の自惚れを自覚しつつも前者だと答えただろうが、このところ滅多に私に触れようとなさらないお義兄様の様子を見ていると、後者でも不思議はない気がしていた。


 何となくそれ以上お義兄様の姿を見ていられなくて、私もまたはにかむような笑みを浮かべながら、彼から視線を逸らした。


 王太子殿下とルシア様はともかくとして、義兄妹の域を過ぎた親密さを散々見てきたシャノンとハドリーはこの反応に多少ながら驚いているようだった。やがて二人の視線が私に向けられ、どことなく同情するような色を帯びる。


「……エレノア嬢も大変だな」


「何となく、彼は苦労しそうな方ですよね……」


 お義兄様には届かないような声で耳打ちされ、これには私も曖昧に笑うしかない。


 音楽が、聞きなれたダンス用のものに切り替わる。傍に控えていたらしい従者がそれとなくシャノンとハドリーに目配せをした。


 本日の主役である二人は、初めの一曲を広間の中心で踊る手はずになっているのだろう。私は小さく微笑んで頷きながら、シャノンとハドリーを見送った。


 白と金で飾られた夜会はまだ、始まったばかりだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る