第10話

「いいですか!? お嬢様、傷が治るまではもう決して右手を使ってはいけませんよ! 傷が残ってしまったらどうなさるおつもりなのです?」


 その翌日、お医者様の診察を終えた私に、レインがもう何度目とも知れない小言を口にしていた。


 傷口が開いてしまったせいで、もう一度縫うことになった右の手のひらは、治療の直後であるせいか僅かにずきずきと痛んでいた。お医者様にも絶対に動かさないように、と念を押されたところであるし、私としても傷が残るような事態は避けたいので、しばらくはじっとしている他なさそうだ。


 大袈裟なことに、ちょっとした傷にもガーゼやら包帯やらが当てられているので、一見すると大怪我をしたようにも見える。


 だが、今は下手なことを口に出さない方がいい。今、屋敷の人間は、お義兄様を筆頭にこの上なく私に過保護になっているのだから。あっさり攫われた罪悪感も相まって、屋敷に戻ってきてからというもの、私は「いい子」でいるように努めていた。


「お医者様の診察も終わったことですし、もう横になってくださいませ! 必要なものは私がお持ちいたしますから!」

 

 レインが半ば強引に私の体をベッドに沈めようとしたその時、私室のドアがノックされる音が響く。このリズムはお義兄様だ。


 いつものようにレインが駆け付ければ、お義兄様を連れて舞い戻って来た。診察には付き添ってくださっていたのだが、ちょうどお医者様を見送って戻って来たところなのだろう。


「お義兄様、ありがとうございました。次は、私も一緒にお見送りしたいですわ」

 

 なるべく屈託ない笑みを浮かべてさりげなくおねだりをするも、お義兄様は揺らがなかった。


「駄目だ。しばらく歩かせない」

 

 やはり、今回ばかりはお義兄様のお怒りも相当なもののようだ。昨夜の一瞬見せたあの甘さは何だったのかと問い詰めたくなるほどに、夜が明ければお義兄様は憎らしいほどにいつも通りだった。それもお義兄様らしいと言えばそうなのだけれども。


 何はともあれ、あと一週間ほどは、お義兄様の言うことに従っていた方がいいだろう。


 まだ昼間だが、レイン同様もう休むように言われるかと思ったが、続くお義兄様の言葉は意外なものだった。


「……だが、お前に客が来た」

 

「お客様、ですか」


 一番心当たりがあるのはルシア様だが、彼女が殿下の元を離れてここまで見舞いに来られるとは思えない。


 そうなると、想像できるのはただ一人だ。


「オートレッドとレアード騎士団長がお前を見舞いたいそうだ。……会うか?」


「ええ! それはもちろん!」


 怪我をしていると言ったって、既に屋敷に戻ってたっぷり一日かけて休養を取ったのだ。ベッドに横になったところで眠れないのは明らかであったし、折角見舞いに来てくれたシャノン様たちを追い返す理由もない。


「では、少々お待ちくださいませ。急いでちゃんとしたドレスに着替えますので」

 

 レイン、と呼ぼうとしたところで、不意にお義兄様が私に毛布を巻き付けた。肩から羽織らせるような形だったが、その上から私の体をひょいと抱き上げてしまう。

 

「着替える必要はない。こうしていれば服装など関係ないだろう」


 抱き上げられたせいで、思ったよりも近い距離にあるお義兄様の整った顔立ちを前に、僅かに脈が早まる。あの日、お義兄様に救い出されてからというもの、私はお義兄様の顔をまともに見られずにいた。


「っ……歩けます、歩けますわ! お義兄様」


「駄目だ」


「……だとしても、お義兄様のお手を煩わせる必要はありませんわ。男性の使用人を呼んでくださいまし」


「……お前は俺を怒らせたいのか?」


 既に怒っていると言っても過言ではないような紺碧の瞳で睨まれ、思わず口を噤んでしまった。


 お義兄様はそれ以上の反論を許さないとでも言うように、さっさと歩き出してしまう。後ろからレインが付いてくる気配があった。


 この状態でシャノンとハドリーの前に姿を現すと考えただけで、頬が熱を帯びる気がしたが、こうなってしまった以上仕方がない。いっそのこと腹をくくって、「これが私たち義兄妹の日常ですけれど?」というスタンスで臨んだ方がマシかもしれない。


 お義兄様に連れられて辿り着いた先は、屋敷の応接間だった。レインが回り込んで扉を開け、私とお義兄様を室内へと導く。


「エレノア様!」


 真っ先の声を上げたのはシャノンだった。赤みがかった銀髪を丁寧にまとめ、今日も麗しい姿であることに変わりはないが、どことなく疲れたような顔をしている。ハドリーも同様だった。


「シャノン様! 御機嫌よう」


 お義兄様に抱えられたまま穏やかに微笑めば、シャノンの紅色の瞳が潤むのが分かった。


「エレノア様……! 本当に、本当に申し訳ありません……! 私が、エレノア様のお傍を離れたばかりにっ……」


 自責の念に駆られた様子のシャノンが、美しい顔を歪ませたかと思うとその場に跪いた。


「……処分はいかようにでも。護衛の任を仰せつかっていた身としては、許されない失敗です」


「シャノン様……?」


 悪いのはあの犯罪組織であってシャノンではない。確かに護衛騎士としては今回私が攫われた一件について思うところがあるのかもしれないが、だからと言って彼女を処罰しようだなんて発想自体持ち合わせていなかった。


「ロイル公爵令嬢、どうか、罰はオートレッドの上官であるこのレアードに。いかなる処分でも、お受けする所存です」


 ハドリーまでもがシャノンの隣に跪いて、深々と謝罪をし始めた。シャノンが驚いたようにハドリーを見ていたが、私とお義兄様の前だからか反論することはなかった。

 

「どうする? エレノア」


 私を抱きかかえたまま、お義兄様は昼食のメニューでも決めるかのような軽い調子で問いかけてくる。どうやらこの二人の処遇の決定権は私にあるらしい。


 詳しい話を聞いたわけではないのだが、シャノンもハドリーも今回の誘拐事件の後始末に尽力してくれたと聞いた。それだけでも十分に、今回の不始末は贖うことが出来ているのではないだろうか。


「お義兄様、お二人は犯罪組織の殲滅の中心人物だったとお聞きしておりますわ。そのような立派な功績がある方を、どうして罰することなど出来ましょう」


「……エレノア様」


 シャノンが僅かに顔を上げ、潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。流石はヒロイン、上目遣いがここまで様になるとは思っても見なかった。


 軽く咳払いをして戸惑いを誤魔化したのち、私は二人にソファーに座るように促した。かく言う私は、お義兄様に抱き上げられたままなのだけれども。


「……お義兄様、座るときくらいは離してくださいませんか?」


 私を抱きかかえたまま座ろうとするお義兄様にそれとなく耳打ちすると、彼は私を一睨みしたのちにそっとソファーに降ろしてくれた。肩が触れ合う距離にお義兄様も腰を下ろしたが、膝の上に座ることになるよりはずっとマシだ。


 向かい側に座ったシャノンとハドリーはというと、この光景をさして驚きもせずに見ていた。怪我をしているとはいえ、年頃の公爵令嬢が義兄に抱きかかえられて登場するなんて、突っ込みどころ満載だと思うのだが、なぜ平然と受け入れているのだろう。


 思わず訝しむようにお二人を観察していると、間もなくしてシャノンが気遣うように口を開いた。


「エレノア様、お加減はいかがですか? 命にかかわるような傷はないと伺っておりますが……」


 シャノンが不安げに私の様子を観察する。体の殆どが毛布に覆われているために、大袈裟な包帯やガーゼは見えないと思うのだが、ひどく痛ましいものを見るような目で私を見ていた。


「平気です。みんな大げさなくらいですわ。右の手のひらの傷が少し痛むだけで、他は何とも——」


「――右手の傷が痛むのか?」


 しまった、と思わず私は隣に座るお義兄様の様子を盗み見る。掌の傷が痛むことは、お義兄様には言っていなかったのだ。言えばまた過保護なくらいに心配するに決まっているのだから。


「ちょっとですわよ、ちょっと」


 何でもないことを証明するように穏やかな笑みを浮かべるも、お義兄様の視線から逃れることはできなかった。黙っていたことを叱られかねない勢いだ。


 どうやってこの場を切り抜けようかと考えを巡らせていたその時、向かい側のソファーからふっと小さな笑い声が漏れ聞こえる。声の主は、先ほどまで厳格な表情を崩していなかったハドリーだった。


 どこか面白がるようなその表情を窺うように見つめれば、私の視線に気づいたのか、ハドリーは小さく笑んだまま弁明を始める。


「……申し訳ありません。ただ、ルーク殿はエレノア嬢の前ではこんなにも表情豊かなのかと思うと、面白くて……」


「……レアード殿、余計なことを言わないでくれ」


 お義兄様が牽制するようにハドリーを睨みつければ、睨まれた張本人はそれでもどこか愉悦を浮かべた表情のまま「申し訳ありません」と手短に謝った。


 魔術研究院に行ったときも似たような話を聞いたが、お義兄様は私に見せる表情と対外的な表情がかなり違うお方らしい。誰でも身内が相手となれば多少は柔らかい表情を見せるものだと思うけれど、こうも第三者に指摘されてばかりだと何だか戸惑ってしまう。頬に帯びた熱を、誤魔化したくて仕方がなかった。


「……どうやらお元気そうで安心しました」


 助け舟を出してくれたのはシャノンだ。彼女は言葉通り心底ほっとしたような笑みを見せると、ソファーに置かれていた大きな袋の中から、何やら取り出し始めた。


「本日お伺いしたのは、エレノア様にこちらをお渡ししたかったからなのです」


 シャノンは、再び私に向き直るように姿勢を正す。


 彼女が手にしていたものは、紛れもなく、紛失していたと思っていた私の鞄だった。

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