第4話
「あなたは……失敗作なんかじゃない。そんなことを言ったら、ルーファス様が悲しむわよ。あなたはそんな風に思わなくていいの」
それは、彼女がまがい物の「天使」としての成功品であるからというよりも、彼女を一人の人間として、誰かを救い得る存在であると分かっているからこその否定だった。
「ルーファス様が……」
カトレアはここに来て初めて、表情を曇らせた。やがて、くりくりとした亜麻色の瞳を私に向ける。それは、揺らぎのない、とても静かな眼差しだった。
「ねえ、エレノア様……例えばエレノア様が死んでしまったら、さっきの銀髪の男の人は、どんな気持ちになるのでしょう?」
「え……?」
「あの銀髪の男の人が、エレノア様を殺さなくちゃいけないってなったら……あの人は、どう思うのでしょう?」
「そ、れは……」
私とお義兄様で考えるのは例えが悪すぎる。少なくとも作中では、お義兄様はエレノアを簡単に殺してしまうのだから。私がいなくなったところで何とも思わないに違いない。
「ルーファス様はきっとね、カトレアのこと、殺さなくちゃいけないと思うのです。……魔術師様たちのお話を聞いていたら分かります」
「っ……」
言葉も無かった。カトレアは知識こそはないが、頭の良い子なのだろう。ちらりと聞いただけの魔術師たちの話から、カトレアとルーファス様の関係性を正しく認識しているのだ。
「……カトレアがいなくなったら、ルーファス様は一人ぼっちになってしまいますね」
カトレアは、ひどく寂し気な眼差しで笑った。自分の命が失われることには微塵も動揺していないのに、残されるルーファス様の心を想って、こんなにも切ない表情を浮かべているのだ。
「だから、エレノア様……もしよかったら、ルーファス様とお友だちになってください。カトレアに出来ることなら、何でもしますから」
真摯な亜麻色の眼差しを前に、言葉に詰まる。年下の少女を前にしているというのに、私の方がよっぽどたじろいでいた。
「……どうして私に? お義兄様ではなく?」
真っ当に考えれば、同性で年も近いお義兄様に頼み込むのが自然なようにも思える。だが、カトレアは何もかもを見透かすような瞳でふっと笑った。
「あなたは……とても優しそうです。カトレアが持ってきた花束を受け取ってくださいましたから」
カトレアは、にこりと微笑んで私の持つカトレアの花束を一瞥する。
「カトレアが差し出した花束を受け取ってくださったのは、ルーファス様とエレノア様だけなんですよ。他の方はみんな、カトレアの背中の翼を見て気味悪くお思いになるようですから」
まさか、何気なく手渡してきたこの花束も花冠も、私の人となりを調べるためだったのか。油断ならない「天使」様だ。彼女を軽く見ていたと言わざるを得ない。
「ふふふ……随分侮れない『天使』様だこと。でも、覚悟を決めるのはまだ早いんじゃ——」
「あ! ルーファス様!」
カトレアは神妙な顔つきからぱっと表情を明るくすると、翼を広げて舞い上がった。
彼女が飛び立った方向を見やれば、お話を終え、談話室から出てきたらしい院長やルーファス様、お義兄様の姿があった。
「ルーファス様!」
カトレアは、満面の笑みでルーファス様の元へ舞い降り、ぎゅっと抱きつく。ルーファス様もまた、先ほどまでの愛想笑いとは正反対の、心の底から幸せそうな笑みを浮かべていて、何とも心温まる光景だった。
院長は、二人の傍でその様子を見守っていたが、穏やかな微笑みの中には僅かに憐れむような色が見える。院長としても、彼らを引き裂くことは不本意なのかもしれない。
「……なんだその頭は」
「え?」
いつの間にか私の傍に歩み寄ってきてたらしいお義兄様の声に、はっとして顔を上げる。そう言えば、カトレアから貰った花冠をつけたままだった。
「ああ、これ……カトレアに貰ったのです。ふふ、私にはちょっと似合わないかもしれませんが、折角いただいたので彼女の前では着けていようかと」
まじまじと観察したわけではないが、こんな花冠を作れるあたり、カトレアはとても器用なようだ。少なくとも私には、こんな繊細な花冠を編むことはできない。
お義兄様はしばらく私を見下ろしていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……そんなことはないと思うぞ」
「え?」
随分間があったので、何に対する否定なのか咄嗟に頭が回らない。
そうこうしている間に、再びカトレアが私の元へ飛んできた。そのすぐ後ろをルーファス様がゆっくりと追いかけている。
「こんにちは! ええっと……」
カトレアがお義兄様の顔を見て言い淀む。思えば名前を教えていないのだから当然だった。
だが、カトレアはぱっと表情を明るくすると、にこりと笑みを深めた。
「そうです! エレノア様の大好きな人、ですね!」
一体、何を言い出すのだこの「天使」様は。
「っ……カトレア!」
思わず席を立ちあがって、窘める。カトレアは純粋無垢な笑顔でにこにこと笑うばかりだ。
私とお義兄様の関係を、カトレアとルーファス様の関係のようなものだと説明したのがいけなかったのだろう。だが、見かけによらず案外思慮深い面を見たばかりなので、天然で言っているのかは怪しいところではあった。
「違うんですか?」
カトレアは、私の目の前に降り立ちながら、やっぱり邪気のない笑みを見せた。長い亜麻色の髪がふわりと舞い、きらきらと陽光を反射する様はまさに天使だったが、亜麻色の瞳はどことなく悪戯っぽく輝いている気がする。
「違う、というわけでも……」
お義兄様の手前、完全否定するのも気が引ける。そもそもお義兄様はこのやり取りをどんな様子でご覧になっているのかと思い、恐る恐るお義兄様の表情を窺った。
恐らく無感情な瞳で見下ろしておられるか、呆れておられるかのどちらかだと思ったのに、意外なことに見上げたお義兄様の表情は、ごく僅かに微笑むようなものだった。
そんな表情をされると、ますます否定しづらくなる。お義兄様にとって、私の心のありようなどどうでもいいはずなのだが、身近な者に嫌われるよりは好意を寄せられていた方がマシだということなのだろうか。
「カトレア、あまりエレノア嬢をからかってはいけないよ」
ルーファス様のやんわりとした注意に、カトレアは素直に従った。
「えへへ、ごめんなさい。エレノア様」
圧倒的な愛らしさを誇るカトレアの笑みを前に、怒る気も起きない。私は苦笑交じりに彼女を見つめ、手元のカトレアの花束を引き寄せた。
「いいわよ、このお花と花冠に免じて許してあげる」
「ありがとうございます! ねえ、エレノア様、あっちで遊びましょう! 変わった色のお花が咲いているのです!」
どうやら私はカトレアのお気に召したらしい。私としても案外思慮深いカトレアのことは気に入ったので、彼女の誘いを断る理由も無かった。それに、カトレアとルーファス様をハッピーエンドに導くために、もう少し状況を把握しておきたい気持ちもある。
「カトレア、エレノア様はもうルーク殿とお帰りになられるんだ。無理を言っちゃいけないよ」
「ええ! エレノア様、もう帰ってしまうのですか?」
あからさまに肩を落としてしゅんとするカトレアの姿に、思わず私はお義兄様に縋るような眼差しを向けた。視線を受けたお義兄様は、淡々とした調子で口を開く。
「……今日は公爵閣下と晩餐を取る手はずになっているから、帰るぞ」
「そうですか……」
お父様が待っておられるのならば仕方がない。
「でも、まあ……明日また来ればいいだろう」
「明日も来ていいのですか?」
魔術研究院の方はともかくとして、お義兄様が許可を出すとは意外だった。何とかして明日以降もここへ足を運ぼうとは思っていたが、こんなにあっさり許可が出るなんて。
ちらりと院長とルーファス様を見やれば、二人とも歓迎するかのような穏やかな雰囲気だ。
「エレノア嬢さえよければ、明日もいらしてください。今度は珍しいハーブティーをお出ししますぞ」
「僕からも……もし、ご都合がつくのならばお願いします。カトレアは、あなたといるととても楽しそうですから。カトレアには……少しでも、良い思い出を作ってもらいたいんです」
ルーファス様の言葉は、どうにも哀愁に満ちたものだった。それを受けた院長も、僅かに表情を曇らせる。
ここは、気づかないふりをした方がいいのだろう。私は当たり障りのない笑みを浮かべると、ドレスを摘まんで一礼をした。
「ありがとうございます。研究のお邪魔にならないよう、気をつけますわね」
「エレノア様、明日も来てくださるの?」
「ええ……珍しいお花はそのときに見せてくださる?」
「もちろんです! お待ちしておりますね!」
そのまま私とお義兄様はカトレアたちに見送られながら、温室を後にした。途中何度か振り返っては、カトレアに小さく手を振って、ようやく私たちはガラス張りの扉を抜けた。
初夏とはいえ、当然温室の方が温度が高いので、外の空気は何とも清々しく感じた。爽やかな初夏の気配に、思わず深呼吸をする。
「お義兄様、本日はご苦労様でした。早く屋敷に戻って、晩餐を——」
そこまで言いかけて、ふと、お義兄様の手が私の頭に伸びる。
何事かと思ったが、そういえば、カトレアから貰った花冠をつけたままだった。
「申し訳ございません。久しぶりに会う娘が花冠をつけて帰ってきたら、お父様も驚いてしまわれますわね」
くすくすと笑いながら自ら花冠を取ろうと手を伸ばしたところ、やんわりとお義兄様に制止される。
「いいから動くな。少し髪に絡まっている」
「そのくらい、構いませんのに」
私の言葉も聞かず、お義兄様は細心の注意を払うように、花冠に絡まっているらしい藍色の髪を取ってくださった。時折触れる温度の低い指先が、何だかくすぐったい。
レインがこの場にいてくれたらお義兄様の手を煩わせずに済んだのに、と思いつつも、珍しく私に触れてくださるお義兄様の温もりがやっぱり愛おしくもあった。自然と頬が緩む。
「……天使と喋るのは楽しかったか?」
いつもより近い距離で、お義兄様は囁いた。
「ええ! いいお友だちになれそうですわ」
知識はまるでない癖に、ルーファス様にまつわることとなると思慮深くなるあたり、カトレアの愛の深さを感じる。大変尊い。
「それは良かったな」
お義兄様は信じられないほど優し気な声で呟くと、ようやく絡まりが取れた花冠を私に手渡した。その整った顔立ちには、穏やかな微笑みが浮かんでいて、妙にどぎまぎしてしまう。
「……帰ろうか。公爵閣下がお待ちだからな」
お義兄様は傾きかけた陽を見据えてから、そっと私に手を差し出した。エスコートの合図だが、先ほどの甘ささえ感じる笑顔が目に焼き付いて離れないせいか、普段ならなんてことの無い触れ合いに緊張してしまう。
差し出された手にそっと自らの手を重ねれば、お義兄様の手はやっぱり冷たくて、初夏が始まろうしているこの季節には妙に心地が良かった。
そうして私は抱えたカトレアの花束の爽やかな甘い香りを胸一杯に吸い込んで、お義兄様に連れられるがままに、公爵家へ向かう馬車へと乗り込んだのだった。
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