ACT4-4 電話の時間

 ジムの更衣室で着替えた後、瑛先生に連れられて馴染みのお好み焼き店に行き、流々姉と一緒に奢ってもらった。


「お世話になったからね、朝海あさみさんには。こういうところでポイント稼いどかないと」


 瑛先生は母さんの大学の後輩で、OBとして母校を訪れた母さんに指導を受けたことがあるそうだった。


 流々姉も母さんに憧れて護身術を習い始めたのだが、俺は流々姉に誘われて顔を出したらそのまま習うことになってしまった――運動の習慣があるのはいいことだし、今も姉と一緒に行くのは気恥ずかしいが、別に嫌というわけでもない。


 夕食のあと、二人で家に帰る途中で思う。昔は俺の方が背が低くて、手を引っ張られていたが、それをしなくなって随分になる。


「はーい、お帰りなさい」


 言うべきは「ただいま」だけどなと思いつつ、玄関のドアを開けた流々姉に促されて、先に中に入る。


「なっくん、そろそろお姉ちゃん離れしなきゃとか考えてるんじゃない?」

「っ……い、いや……まあその……」


 普通に流々姉に心を読まれた。姉の勘は恐ろしい――まあ昔のことを思い出して遠い目をしてたら、普通に悟られても仕方がないが。


 とりあえず一息つこうと、リビングのソファに座る。流々姉はダイニングを通って台所に行き、冷蔵庫を開けて明日の朝食の材料を確認しながら話しかけてくる。


「お姉ちゃんには何でもお見通しなんだから。鷹音さんっていうとっても可愛い彼女ができたのに、霧ちゃんとも仲良くできて、お姉ちゃんをかまう暇がないなって思ってるんでしょ」

「それは違うな」

「えー。それって、霧ちゃんと友達っていうのは遠慮しちゃうとか、そういうことじゃないの?」

「ま、まあそうだけど……そんなことばかり言ってても駄目なのは、分かってるつもりだから。今は何も言わないでくれ」

「そうだよね、それは時間が必要だよね。私が心配しなくても、なっくんなら……」


 流々姉は言おうとして途中でやめてしまう。続きが何なのかを聞こうとして、何気なく振り返ると――。


「……お好み焼きの後だから、歯磨きちゃんとしないと。お姉ちゃんは大丈夫だけど」

「っ……ち、近い……」


 いつの間にかすぐ後ろまで来ていた流々姉の顔が、すぐ前にあった。そんなことを言われると、青海苔をつけたままだったかと心配になる。


「なーんて、なっくん身だしなみはちゃんとしてるからね。もうお姉ちゃんが心配しなくても大丈夫だよね」

「っ……そういう言い方されると、弱いって知ってるだろ」

「ふふふ……なっくんがお姉ちゃんをかまわないと、だんだん面倒くさいお姉ちゃんになっていくからね」

「勘弁してくれ……あ、どっちが先に風呂入る? 俺は後でいいよ」

「ん、じゃあお姉ちゃんが先に入るね。ジムで思い切り蹴っちゃってごめんね」

「あれは俺の気が緩んでたからだよ。いいキックだった」

「そう……? 本当に大丈夫だった?」


 流々姉はまだ申し訳なさそうにしている。大袈裟だと思うのだが、昔からそうだ――俺が怪我をするということに関して、流々姉は過剰に責任を感じるところがある。


「ほら、当たったとこはどうにもなってないだろ」

「……うん、なっくんがそう言うのなら。私、お風呂入ってくるね」


 何とか分かってくれたようで安心する。流々姉が行ったあとで、スマホが震える。


 朝谷さんが、メッセージを送ってきた。しばらくそういうことは起きない、いや、二度とないかもしれない――は言い過ぎだが、それくらいに思っていたのに。


 大袈裟に捉えすぎだ。朝谷さんは、自分が言ったとおりにしているだけだ。友達なら、気兼ねなく連絡くらいはする――もし俺から連絡するなら、それは鷹音さんの許可を得てから。それが当然守るべきルールだろう。


『こんばんは、今ちょっと話せる?』


 考えているうちに、着信から二分経っていた。これくらいなら許容範囲だろうか――なんて、これくらいで緊張するような自分でいてはいけない。


『こんばんは 何かあった?』

『唯ちゃんから聞いたよ、私も参加していい?』


 話が早い――そして俺に確認しなくても、中野さんに誘われた時点で大丈夫だと思うのだが。朝谷さんは、こういう時に律儀なのだろう。


『もちろん でも俺も一緒でいいのかな』

『女の子ばかりなのが気になるなら、ナギ君も友達連れてきたら? クラスでいつも一緒にいる二人とか』

『高寺と荻島なら、部活がなければ来てくれそうかな』

『ナギ君も部活入ったんでしょ? 私も入ったけど、文化祭でやることが決まるまではマイペースな感じかな』

『俺たちはまだこれからだけど、部誌を作ったりするって中野さんが言ってたな』


 思ったよりも、ずっと自然にやりとりができている気がする。


 朝谷さんと話すときは、どうしても緊張せずにいられなかった。それが無くなったのは――やはり、鷹音さんがゆっくり俺の話を聞いてくれたからなんだろう。


 ――間接キスだけでは、おあいこなので……。


『みんなで何か作るのって、いいよね』


 駐輪場での出来事を思い出している最中に、メッセージ音が鳴る。


 押されているのは『いいですニャ』と言っている猫のスタンプ。朝谷さんが猫を飼っていて溺愛しているというのは聞いたことがあった。


『軽音部も、みんなで何か作るっていうのは一緒じゃないかな』

『あ、私が軽音部に入ったって知ってたんだ』

『仕事も忙しいと思うのに、軽音部もやるっていうのは凄いよ』


 メールを打ってから気づく――画面をタップする自分の指が、速くなっていることに。


 落ち着かないといけない。褒め殺しのようになってしまってはいないか、そう自分にブレーキをかける。


『はふん』

『え?』

『ううん、なんかね、言いたくなった』

『ああ、そうなんだ』


 もっと気の利いたことを言えればいいのに――それができていたら、俺たちは今頃、どうだっただろうか。


 どうだった、なんていうのはありえない可能性だ。俺はいつの間にか、自分が笑っていることに気がついた。


『ナギ君は、私にあんまり凄いって言っちゃだめだよ』


 ――やっぱり、そうだ。言われてしまった。


『私、軽音部に入ったらやりたいことがあるんだよね。女の子ばっかりの部活で放課後のお茶会とか』

『それは楽しそうだな』

『私、どこのパートやりそうだと思う?』

『やっぱりボーカルとか?』

『あ、めっちゃ鋭い。ナギ君、やっぱり私のファ』


 打ち間違いをしたのか、朝谷さんはすぐにメッセージを消してしまう。


 なかなか続きのメッセージは来ない。俺は少し考えて、先にもう一度送ってみる。


『インスタのストーリーで歌をアップしてて、評判だって聞いたから』

『その話、ナギ君にしたっけ? あ、なべゆかのとこで話してたからか』


 何もなかったかのように、朝谷さんは俺の話に答えてくれる。凄いスピードだ――数秒で返事が来る。


『ナギ君、隣が鷹音さんになって良かったね。彼女と隣の席ってすごくない?』


 そのメッセージを、俺は何事も無かったように受け取るべきだと分かっている。


 俺と朝谷さんも、最初は隣の席だった。でも俺たちは、実際は付き合っていなかったに等しくて。


 『彼女』が隣に座っていたなんてことじゃない。朝谷さんは、俺の告白にはっきり返事をしたわけじゃなかった。


 同じ中学出身の知り合いが、偶然隣に座っていただけだ――今となっては、そういうことだと分かっている。


『凄いというか、そういうこともあるんだなって思うよ』

『照れ隠しかな?』

『まあ、そう言えなくもない』

『ナギ君がツンデレになってる。鷹音さんが好きなのもそういうところかな?』


 朝谷さんがこんなにグイグイ来るとは思っていなかった。ツンデレって言ったりするのかと、驚いたりもする。


 鷹音さんが俺のことを好きな部分――『好き』というのを思い浮かべるだけで照れるのもどうかと思うが、すぐに返事ができないくらいの状態だ。


 ――あなたが助けてくれたこと、それだけじゃなくて、とても傷つきやすくて繊細なこと、それでも痛みに強い人だということ。


 ――優しい人だということ……他にも、まだ私の知らないところも全部含めて、知りたいと思いました。


 なぜ俺と付き合いたいと思ったのか。彼女がそれを伝えてくれた時のことは、今も全部覚えている。


 でもそれは俺と鷹音さんだけの秘密にするべきことだ――なんて、少し身構えすぎかもしれないが、それくらいの気持ちでいるのは大事なことだ。


『ナギ君、これから鷹音さんと電話したりするの?』

『ああ、予定を聞かないと。朝谷さんは、遊べるとしたら連休のどこがいい? その前の土日でも大丈夫だけど』

『5月3日なら大丈夫だよ。連休に用事がないって言っちゃうと、全部スケジュール入っちゃうんだよね。鷹音さんにも聞いてみてくれる?』

『分かった、確認してみる。また連絡するよ』

『はーい』


 朝谷さんは再びスタンプを押してくるが、なぜか『ファイト』というスタンプだった。何を頑張れというのか――応援してくれているのは分かるので、努めて深く考えずにおく。


 鷹音さんにメッセージを送ってみると、しばらく帰ってこないので、何か用事があったのだろうかと思う――と、電話がかかってきた。


『……もしもし、こんばんは』

「ああ、もしもし。結構珍しいな、もしもしって」

『す、すみません。電話のときはつきものかと……』

「ああいや、可愛かわ……落ち着くなと思って」

『良かった……そう言ってもらえると安心します』


 うちの親は「もしもし」と電話で言うが、俺たち自身はあまり使わないように思う――というくらいだったのだが。前にも鷹音さんは言っていたので、彼女の家では普通に使うのだろう。


『朝谷さんから連絡は来ましたか?』


 中野さんが朝谷さんを誘うという話は知っているので、進展があったかということだろう。そういうことなら話は早い。


「今、ちょうどその話をしてて。朝谷さんは5月3日なら大丈夫だって」

『すみません、確認しますね……はい、3日なら外出できます』

「良かった。じゃあ、後は俺の友達の予定くらいかな……まあ、行けなかったら行けないでいいんだけど。急な誘いだからな」

『男子が一人だけだと落ち着かないと思うので、お友達も来てくれたら薙人さんも安心ですね。カラオケにも行くみたいですから』

「安心というか……まあ、女子ばかりのところに俺一人っていうのも申し訳ない気がするしな」

『そんなことはないと思います。中野さんも、入学してしばらく薙人さんと話していなかったので、積もるお話もあると思いますし』

「ははは……それはどうだろう」


 中野さんは一度解禁されたとなれば、それまでを取り返すようにお喋りをするタイプなので、そのうち自然に語り尽くされる気がする。


『……薙人さんは、やっぱり凄いです』

「え?」

『そうやって色々な人に慕われているのに、気づいていないのが凄いなって。私は、あまり人に好かれたりしないですから』

「それこそ、俺は違うと思うな。中野さんも鷹音さんをひと目で慕ってるし」

『あれは、薙人さんが私と一緒にいてくれるので、それで……』

「それもあるかもしれないけど、中野さんは好き嫌いをはっきり言う人だから。鷹音さんが好きっていうのは本当だと思うよ」

『……薙人さんは、凄いですけど、ちょっとだけ困ったところもあります』

「っ……ご、ごめん、無神経な言い方をしたかな」


 慌てて謝るが、電話の向こうの鷹音さんが笑っている気配がする。気を悪くしたわけではないみたいだ。


『でも、そういうところも含めて、薙人さんの……素敵なところですから』

「え、えーと……ありがとうって言うところかな」

『はい。連絡をありがとうございました。もう少し先ですが、楽しみにしていますね。来週のオリエンテーリングの後になりますから、お疲れ様会にもなるでしょうか』


 碧桜学園の一年にとって最初の大きな行事、それが箱根でのオリエンテーリングだ。入学当初から言われてはいたが、気づけば来週まで迫ってきている。


「箱根って行くの初めてなんだよな。鷹音さんは?」

『一度行ったことはありますが、オリエンテーリングで回るところは初めてです』

「なんとなく、温泉があるところってイメージなんだけど」

『はい、家族で泊まったところのお風呂は露天風呂でした。でも、今回は皆で一緒なので、少し緊張しますね』

「俺もみんなと風呂は微妙に落ち着かないけど、お互い頑張って切り抜けよう。もし班が違っても、どこかで話せたらいいな」

『は、はい。どこかで話せたら……班決めは希望制ではないので、別の班になっても頑張ります』

「うん。じゃあ、朝谷さんに予定のことは……」

『朝谷さんには、薙人さんから伝えてあげてください。それと、SNSのグループができたので、そこに朝谷さんを招待してくださいとのことです』

「あ、ああ。それじゃおやすみ、鷹音さん』

『はい、おやすみなさい』 


 なぜ中野さんから朝谷さんをグループに勧誘しないのかと思うが、それは微妙な悪戯心なのだろうか。


 俺と鷹音さんは中野さんの作ったグループに招待してもらっているので、俺から朝谷さんを招待することはできる。早速やってみようとすると――スマホの画面が切り替わり、着信が表示された。


「は、はい。朝谷さん?」

『ごめん、どうなったのか気になったから電話しちゃった』

「あ、ああ、そっか。鷹音さんは、5月3日は大丈夫だって」

『良かったー。私、鷹音さんと一緒に遊んでみたかったんだ。もちろん唯ちゃんともだけど。ナギ君の友達は来るの?』

「これから誘ってはみるつもりだけど」

『そっかそっか。唯ちゃん、カラオケで私に歌わせようとしてるんだよね』

「その気持ちは……ちょっと分かるかな」

『あー、唯ちゃんの味方してる。まあ行くんだったら、それは歌うけどね。ナギ君はどういう歌が好き?』

「え、えーと……出演してる朝谷さんに言うのもなんだけど。俺は『青リリ』のエンディングとか、結構好きかな」


 朝谷さんが出ているドラマ、『恋と青のリリック』は今日の夜十一時過ぎからの放送だ。

話しているうちに思い出して、今日はリアルタイムで見るかを考える。


『……ナギ君、見てくれてたの?』

「あっ……その、まあ、何というか……」


 『元カノ』が出ているドラマを、録画し続けている。そんな俺は、朝谷さんにとってどう映るだろう――未練があるのでは、と思われてしまうだろうか。


『あー……もう。そういうの、ちょっと不意打ちっていうか……』

「ご、ごめん。普通に見てるって言った方が良かったかな」


 朝谷さんはしばらく言葉を返さなかった。これ以上沈黙が続いたら、ぎこちない空気になってしまう――だが、その寸前に。


『ドラマの歌って、自分で歌うのはいいのかなって思うけど、いい曲なんだよね。私もこのアーティストさん、前から好きだし』

「俺もこのドラマで初めて知ったけど、配信で曲も買ったよ。朝谷さんが載ってる雑誌でも……あっ、いや……」


 振られる前、朝谷さんが出ている雑誌を買っていたこと――それも今更言うべきことじゃないのに、器用にはできない。


『……じゃあ、頑張っちゃおうかな。友達がドラマを応援してくれてるんだから』

「本当に? それは、みんな喜ぶんじゃないかな。中野さんなんて飛び上がりそうだ」

『ねー、嬉しいくらいテンション上がっちゃうんだから、あの子は』


 『友達』という言葉に痛みを感じることはない。前向きに捉えて、落ち着いていられている。


 鷹音さんと出会ったからこそ、朝谷さんとの関係が変化して、こんなふうに話せるようになった。もし出会えていなければ朝谷さんと『友達』になることはなくて、他人に戻っていたのだろう。


『あんまり引っ張っちゃうと申し訳ないから、そろそろ切るね』

「あ、ああ。朝谷さん、中野さんが作ったグループなんだけど、誘ってもいいかな」

『うん、いいよ。じゃあ、この後でね』


 通話が切れる。俺は朝谷さんをグループに誘って、スマホをテーブルに置いた。


「なっくん、女の子と話すとき、いつもより大人っぽいね」


 後方のダイニングから流々姉に声をかけられる。もう風呂から上がったか、それともこれからなのか。


「普段と別に変わらないだろ……って……」


 何気なく振り返って、俺はそのまま何も見なかったことにして、何も映っていない居間のテレビを見た。


「暑いのかもしれないけど、そんな格好でうろうろするなよ」

「お姉ちゃんはなっくんの話し声が聞こえてきたから、何事かと思って出てきたの。そしたら、霧ちゃんと話してるじゃない? おやすみって言ったりしないの?」

「っ……そ、それは、絶対言うようなものでもないだろ」

「鷹音さん、なっくんがこんなに真面目さんだって分かったら、きっと嬉しいと思うな」

「それは置いておいて、まず服をしっかり着てくれ」


 弟の前で風呂上がりにラフな格好でうろつく姉――他の家がどうなのか知らないが、普通は弟でも注意するものだろう。


「お姉ちゃんが買ったなっくんのプリンが残ってるけど、今からこれを食べても太らないと思う?」

「どうだろうな……どうでもいいな」

「えー、お姉ちゃんにとっては死活問題なんですけど」


 頼りになるようで、やはり少し抜けているところもある――弟に心配させないでくれたら、もっと素直に尊敬できる姉さんなのだが。

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