ドリームランドよ、永遠に――。

青キング(Aoking)

プロローグ 夢の地の盛衰


 盛者必衰のことわりをあらわす。

 そして、栄枯盛衰は夢の地にもあった。


 日本が中国と戦争を始めてから八年、長い戦火から解放された日本人達は、飛ぶ鳥を落とす勢いで経済を成長させていった。

 俗にいう高度経済成長期、戦後の食糧難を乗り越えた日本人達の生活には、貧富の差こそあれ娯楽に費やす余裕も出てきた。


 そんな時勢に乗じて、地方を回り芸能人を招聘するなどして利益を得ていた飯沼興行社の社長の飯沼三郎が、ふと夢枕に行楽施設の活況ぶりを見て、翌日社員に宣言したのだ。


「遊園地を作ろう」


 時代が時代、クビを恐れる社員たちには社長一人の夢想を、阻止しようと企む余地はなかった。

 そうして始動した、飯沼興行会社による遊園地の設営。

 当時すでに奈良にて遊園地を経営していた同業者の竹山誠社長と友好を深めて、ドリームランドグループの傘下に入ることで資金提供をしてもらい、関東・関西のほぼ中央に位置し、飯沼の故郷も含んだ東海地方に白羽の矢を立てると、飯沼は遊園地の構想を練り上げた。


 夢の国、という構想が飯沼の根幹にはあった。

 構想から二年後、ついに遊園地が完成する。


 その名も『東海ドリームランド』


 操業当初から、遊園地は話題になった。

 当時、奈良の遊園地は全国から客が訪れるほどの人気ぶりで、人気を博す遊園地経営者の傘下になった飯沼の目は、まことに慧眼であったと言える。

 『東海ドリームランド』は、開園からはや一年で日本の行楽施設で、五本の指に入る集客数を記録した。

 そこから十数年の間、『東海ドリームランド』はそれこそ行楽界の覇を競うような遊園地にまでなった。


 しかし、ドリームランドの名を冠した遊園地は、現在の日本にはない。

 昭和の終わりごろ、1987年。

 飯沼が資金提供してもらった奈良の遊園地で、ジェットコースターから人が投げ出される死亡事故が発生する。

 原因は、係員の安全バーの確認ミス。

 たった一人の失態が夢の破滅へ導こうとは、当時の飯沼の思いにも寄らなかった。

 死亡事故を契機に奈良の遊園地には不信感が募り、翌年、奈良の遊園地の集客数は、例年の三割ほど落ち込んだ。

 時を同じくして、飯沼は『東海ドリームランド』の職員に、客の安全を第一にするよう徹底させた。

 それでも事故は起こった。

 職員による安全確認は徹底されたが、それと引き換えのように、設備の安全性への注意が薄れていた。

 岐阜県を震源地に、東海地方で地震が発生する。

 老朽化していた遊具のいくつかが、客を巻き込んで倒壊。

 特にジェットコースターでは、搭乗中の客は転落死により全員が亡くなった。

 そこから『東海ドリームランド』の閉園までは、二十年もかからなかった。

 東海地方に新しく行楽施設が出来たことも相まって、集客数は年々落ち込み、最盛期には日本の遊園地で最大を誇っていたが敷地面積も、業績の低下とともに縮小の一途を辿った。

 1995年に竹山誠が没し、2000年には飯沼三郎自身が逝去する。

 飯沼の長男忠久が遊園地の権利を引き継ぐも、忠久にはすでに遊園地の未来がわかりきっていた。

 2002年に奈良の遊園地が閉園すると、その二年後の2004年、『東海ドリームランド』も、唯一集客が見込めた夏季のプール営業を最後に、園を畳んだ。


その後、飯沼三郎が夢を描いた地には、夢の形骸のみが残った。

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