喜ばせるだけ

「私が好きなものを、他人が『嫌い』とか言ってると、正直、気分が悪い。ムカつくこともある。そういうことしてるのを見かけるとイライラする。


これは偽らざる私の感情。


だけどさ、私が好きなものを、私以外の誰もが好きになるべきだっていうのは、傲慢なんだ。それは他人の感性を否定する行為に他ならない。


だから私は、自分の感情とは別に、私の好きなものを『嫌い』と感じる人の存在そのものもその人の感性も否定はしないんだ。


だってさ、私がいくら否定したってその人が私の好きなものを好きになってくれる道理がないじゃん? だって嫌いなものは嫌いなんだから。たまに何かの切っ掛けがあってそれが覆ることはあったとしても、そういうのは滅多にあることじゃないよ。


その現実を認めずに、自分の『好き』を他人に押し付けたって、押し付けられた方は、そんなことをされたのが原因でますます嫌いになることの方がずっと多いと思うんだ。


逆に、他人が好きなものを私が好きになれないからって、その人の『好き』を翻意させようとするのは、やっぱり傲慢以外の何物でもないと思う。何の権利があってそんなことしようとするの?ってことだよね。


となると、私の作品のアンチの存在を否定するのは違うと思うんだ。


この世のすべての人が私の作品を好きになって絶賛してくれるなんて、それ、どこの異世界?


ただ同時に、『アンチが私の作品を貶してることを許せない』と感じるのを頭ごなしに否定するのも違うと思ってる。


でもさ、『許せない』からって相手を罵るのも、何の問題解決にもならないよね。だってそれで相手が翻意するわけじゃないんだから。ただただ自分の憂さを晴らそうとするだけの行為でしかない。


自分の憂さを晴らすためだけに誰かを罵って、誰が得をするの? それを見た多くの人が嫌な気分になるだけじゃないの?


それをすることで具体的に何のメリットがあるのか、論理的に説明できる?


少なくとも私はできないな。


結局、自分だけがいい目を見たいだけじゃん。好き勝手に他人を罵って憂さを晴らしていい気分になりたいだけじゃん。


でも、そんなことをすると、同じように憂さを晴らしたいと考える人がやっぱりいて、罵り合いになるだけなんだよ。


こうなるともう、<憂さ晴らし>どころか余計に憂さを増やすことにしかならない。


ましてや、


『他人を罵ってその反応を楽しむ』


タイプの人間相手じゃ、それこそまんまと喜ばせるだけだしね。


昔から言われてることだけど、構ってほしいから場を荒らすタイプの人間は、構わないのが結局は一番の対処法なんだよ」


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