第18話「贖罪」

 リリナの前で血を流すマゼンタの顔からは、余裕のある笑みは消えていた。

 憎悪と激痛で顔を歪ませ、溢れ出る血を止めるために腕を押さえるが、既に左半身は紅に染まっていた。

 自らの死を感じていたリリナは、状況を理解しきれていなかった。ようやく飲み込め始めたのは、マゼンタの視線の先へ自分も目を移してからだった。


「お前……、私の蹴りの直撃を覚悟で撃ちやがったな……‼︎」


「ああ。その通りだよ。出来ればこれで仕留めたかったところだけどね」


 普段の言葉遣いからはかけ離れた野蛮な声を放つ先にいるのは、木にもたれかかりながら白衣を血で染めたエストスだった。

 防御も回避も考えずにリリナを庇い、蹴りの瞬間のマゼンタに出来る限りの魔弾砲を叩き込む。

 まさに捨て身の一撃だった。

 しかし、


「ダメ、って感じ……! あれじゃあ、マゼンタ様は……!」


 リリナの頬に、汗が流れた。

 それと同時に、マゼンタの歪んだ顔に余裕が生まれ始める。

 マゼンタは静かに怪我をした左足を地面から離して片足立ちになると、そのままの状態で完璧に静止して、


「あなたに絶望を見せたいから特別に私の能力について教えてあげる」


 右足の爪先だけで器用にバランスをとりながら立つマゼンタの傷が、少しずつ癒えていくのを、リリナはその目で見ていた。

 ありえない方向へ曲がっていた腕も正しい形へと戻り、潰れるように破壊された左足も本来の姿へと回復していく。

 マゼンタのスキルをステータスの向上と解釈していたエストスは、眉間にしわを寄せながら呟いた。


「回復力も、上がるのか」


「どちらかと言えば自然治癒の延長線上だけれど。まあ、間違ってはいないわ。私の【爪先立ちの荒療治ハイヒール・ハイヒール】は身体のあらゆる能力を向上させるのよ」


「なるほどね。それはどうにもやっかいだ」


「でしょう? 諦めてここで跪くなら命だけは奪わないであげるけど」


 たったこれだけの会話の間に完璧に怪我を完治させたマゼンタはそっと足を地面へと落とした。

 対するエストスは既に満身創痍だった。血に染まった白衣はいたるところが破れ、綻び、リリナを庇って蹴りが直撃した腕はだらりとぶら下がり、指先から血が滴り続けていた。

 だがそれでも、かつて人々を救うために一国を敵に回した元英雄は、依然として笑みを崩さない。


「何度も言わせるな。私は理不尽に苦しむ人を救うために戦うと決めているんだ」


 その時、揺れることのないその心に理解が最も追いつかなかったのは、守られている本人だった。


「なんで……」


 サキュバスの少女の声は、震えていた。


「なんであんたがあーしのために命懸けてるんだよ! あーしはあんたの味方でも友達でもなんでもないただの他人なのに! 魔族なのに! どうして見ず知らずのあーしのために死ねるの⁉︎」


 理解が出来なかった。もしこの場で戦っているのがハヤトなら、シアンなら、かろうじて理解は出来る。助けると約束してくれた彼には戦う理由はあるはずだ。シアンも友達としてきっと守ろうとしてくれるだろう。

 だが、そうではないのだ。

 この女性には、借りも、貸しも、恩も、償いも、何一つない他人のはずなのだ。

 なのに、どうして。


「……いいんだよ」


 そんなリリナの疑問に、エストスは笑って答える。


「いいんだ。私の命の炎はずっと昔に消えている。今は余韻のような時間なんだ。どこで散ってもいい命だ。むしろ、理不尽を見逃して生きるほうが私には苦痛だ」


「……分かんないよ」


「分からなくていい。これは私がやりたくてやっていることだからね」


 エストスは戦い続ける意思を示すかのように一歩前へと踏み出した。

 おぼつかない足取りだが、それでもマゼンタへの距離を少しずつエストスは詰めていく。

 待ち構えるようにエストスを見るマゼンタは、見下すような態度で、


「お話は終わったかしら? 私も傷が治ったからさっさと殺してやりたいところなんだけれど」


 余裕はあれど、隙は一切感じさせない姿のマゼンタへ、エストスは魔弾砲の銃口を向け、小さく言った。


「……逃げろ。それぐらいの時間は稼いであげよう」


「何言って……! それじゃああんたは……!」


 リリナの詰まるような力のこもった言葉を受けて、エストスは笑顔のまま、


「シアンとまた会いたいだろう? また笑って話したいだろう?」


「え……?」


 突然の言葉に動揺したリリナを気にせずに、エストスは魔弾砲を握る手に力を入れる。


「ちっぽけで些細な幸せだと思うだろう。でも、私はそんな幸せを命を懸けて守ると決めたんだ。君は、幸せになっていいんだよ」


「だからってあんたが死んだら、あんたが幸せになることだって出来ないって感じじゃ――」


「……気にするな。その権利は、数百年前に置いてきた」


 たったそれだけの言葉に、ずっしりとした重みをリリナは感じた。

 手に落ちた何かの感覚があってから始めて、リリナは自分が泣いていることに気づいた。

 どうしてかは、分からなかった。

 何も分からなかった。

 なぜこの人は自分のために死のうとしているのだろうか。なぜこの人は命を懸けて守っていれているのだろうか。

 この人がどんな人生を歩んで、過去に何があったかなんて知らない。

 だから理解なんて、絶対に出来ない。

 だけど、これだけは分かる。


「……わかった」


 グッと拳を握りしめて、リリナは立ち上がった。

 足の震えが止まり、たしかに地面を踏みしめている感覚があった。

 そして、彼女は歩いて、


「……どういうつもりかしら、リリナ?」


「この通りって、感じ……!」


 エストスの前に立ったリリナは、後ろにいる白衣を血で染めた女を守るように大きく手を広げた。

 これが答えだと示すように。


「……あーしも、戦う」


 理解など、しない。

 納得など、するはずもない。

 ただ、一つだけ。

 今、この人を見殺しにしてしまったら、自分の中の大切な何かが消えてしまうだろうということだけは、確信できた。


「何を、言っているんだい?」


「あんたの言う幸せとかどうでもいいし、勝手に死なれてもこっちの後味悪いだけって感じ。それに気に食わなかったって感じなんだよね、娘を遠慮なく殺そうとかいうあんたのこと」


 溜まったものを吐き出すように、リリナは言葉を放つ。

 当然、マゼンタの顔は不快に歪む。

 ドッ、とハイヒールのヒールが土に叩きつけられた。


「リリナ。あなたは私の部下だということを忘れてしまってたのかしら?」


「あんたの部下だとしても、あーしは最初っからシーちゃんの味方だって言ってるって感じ。そこが一番の根っこだから」


 今回に関しては、自分の行動は全てシアンが中心だった。

 なんとしても、シアンが殺されることだけは避けたかった。

 そのために命を懸けたのだ。

 今更死を怖がってどうする。

 先ほどまで恐怖に負けて足を震わせていたリリナの信念のこもった声に反応をしたのは、後ろにいるエストスだった。


「君まで戦う必要なんてない。私がやるから、君は下がって――」


「うっさい。そんなの知るかって感じ」


 この人には、確かに命を救ってもらった。

 もう一度シアンのために立ち上がる機会を与えてくれた。

 もう一度シアンに会いたい。

 あの無邪気な少女と大声で笑いたい。

 だから、生きる。生きて、シアンと、また。

 そのためには、まずは恩を返さなければならない。

 理不尽に挑み続ける、この英雄に。


「つまりはさ、見知らぬあーしを助けるために戦った人が恩を返されないなんて、あまりにも理不尽だろう? って感じ」


 それは、今までの誰かを誘惑するような笑顔ではない、無邪気な笑顔だった。例えるなら、シアンのような、そんな明るい笑顔。

 だが、しかし、


「そう。だったら二人で仲良く死になさい」


 躊躇いは、一切なかった。

 鋭い蹴りがリリナの喉を狙って高速で襲いかかる。

 今度は目をつぶらなかった。もう逃げないと、この人を殺させないと、そう決めたから。


 そんな視界に、何か異物が映り込んだ。


 それはマゼンタの蹴りを受け止めてもなお、吹き飛ばされることなく耐え、リリナを守りきった。


「間に合ったぞ……‼︎」


 そう、リリナの前に現れた誰かは呟いた。

 目の前に映る景色を独り占めするそれを、リリナは見つめる。

 その後ろ姿には、見覚えがあった。

 それの肌は褐色だった。

 それの髪は銀色だった。

 それが着る黒い服は、体型に合っていないのかはち切れそうなほど張っていた。


「シー、ちゃん……?」


 その少女の友人は、彼女の名を呼んだ。

 背を向けたまま、彼女は答える。


「ごめんな、リリナ。遅くなったぞ」


 少女は、シアンは、それだけ言った。


「何をしに、きたのかしら?」


 シアンの母親は、それだけ問いかけた。


「……守りに来たんだ」


 シアンは、そう答えた。

 シアンに止められた足を戻すと、マゼンタは再び問いかける。


「自分のしていることがどういうことか分かってるの? あなたは私たちを裏切ったのよ?」


 ほんの少しだけ俯いて、シアンは絞り出すように言った。


「……シアンたちは、間違ってたんだ」


 魔族の少女の声は、少しずつ大きくなる。

 たった一つの、偶然の出会いによって知ったこと。

 あの青年の背中から、教わったこと。


「命は大切なものなんだ。シアンたちが勝手に奪っていいものじゃないんだ。シアンたちがやってきたことは、間違ってたんだ!」


 そのときのマゼンタの表情を一言で表すのなら、失望だった。


「あれだけ殺してきて、今更そんなこと言っても遅いんじゃない? 正しいかどうかなんて、もう関係ないのよ」


「だから、変わるんだ」


 強く、強く、シアンは言った。

 迷いのない、まっすぐな言葉で。


「シアンは間違ってた。だから変わるんだ! ハヤトみたいな、格好良くてみんなをポカポカに出来るような、そんなシアンに!」


「全く、そんなに洗脳されて可哀想な私の娘。あなたは魔王軍幹部のシアンのままでいいのよ」


「……嫌だ」


 マゼンタの目を見つめたまま、シアンは続ける。

 覚悟と決意に満ちた、強い眼差しのまま。


「シアンがなりたいのは、魔王軍幹部のシアンでも敵を倒すシアンでもない。シアンは……、シアンは……!」


 シアンは言う。

 自分をかつて守ってくれたあの人を思い出しながら。

 彼のような人になりたいという、そんな想いを込めて。


「誰かを守れる、シアンになりたい……ッ‼︎」


 シアンが戦う理由は、決して揺るがない。

 あの青年に心を奪われ、憧れたあの瞬間から、全ては変わったのだ。

 今までたくさんの人の命を奪ってしまった。それが悪いことだと知らなかったで済まないことは、ちゃんとわかっている。

 だから、せめて変わるのだ。

 こんな自分が、正しく生きるために。

 誰かを殺すのではなく、誰かを護る自分に。

 あの憧れた背中に、少しでも追い付けるように。

 彼の隣を、笑って歩けるように。


 だから、少女は戦う。大好きな友達を守るために。

 大好きなあの人のようになるために。

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