第13話「そして始まる、二つの物語」

「…………嫌な風」


 もはや日課になってしまった夜間の見張りをしていたエリヴィア=ハーフェンは、体に当たる風に感じる不快感で眉間にしわを寄せておもむろに呟いた。

 ハヤトに聞いたときは信じ切ることが出来なかったが、本当に北方から禍々しい空気が流れていた。

 南方にも敵の気配を感じるが、強いものは一体だけでほとんどが有象無象だ。ハヤトがそちらへ行っているはずだから、心配はない。

 ならとにかく、自分が集中すべきは。


 身軽な身のこなしで音もなく宿の屋上から地面へと飛び降りると、エリヴィアは宿へと入る。

 中にはシアンもハヤトもいなくなって一気に暇になったのか、自分の髪を三つ編みにして遊んでいたリヴィアが慌ててその手を離した。


「ど、どうしたのお姉ちゃん?」


「……北から敵が来てる。行くよ」


 姉の声に感じる真剣さを一瞬で受け取り、リヴィアは静かに頷いた。


「……うん」


 本来はリヴィアをこの里の避難誘導に回したかったのだが、北方と南方から敵の気配を感じている以上、下手に動いて敵と鉢合わせるのが一番怖い。

 南方へいるはずのハヤトが敵を片付け、北方へ加勢してくれるのが最善だと判断したエリヴィアは、皆を里に残し、北方の敵を食い止めることを選択した。

 自分たちだけで敵を倒すことができればいいのだが、ハヤトによると北方から攻めてくるのは魔王軍幹部だ。思い通りにことが進むと思わない方がいい。


「ごめんね。本当は私だけで戦えたらよかったんだけど」


 万が一、自分が負けそうになった場合、攻めこまれる前にリヴィアを逃し、里の皆を避難させる。

 出来るだけ南に逃がせば、後はハヤトがなんとかしてくれるだろうから。


「大丈夫だよ。私も戦う」


「……無理しなくていいんだよ?」


 リヴィアを連れていかなくてはいけないのに、ふと口にしてしまった。

 妹を危険に晒したくはないという姉の心の声を聞いて、リヴィアはニヤリと笑う。


「はーっはっはっは! このリヴィア=ハーフェンに敗北の二文字など存在しないっ! 貴様は安心して我に背を任せればよいのだ!」


「…………そっか。ありがとう、リヴィア」


 自分の妹だからよく分かる。

 怖さを隠そうとしてこんな言葉を使っていると。

 リヴィアがこの言葉遣いになるのは恥ずかしかったり、強がったり、本心を隠したい時だ。

 怖いのにここまでついてきてくれた妹を心から誇ろう。

 こんな妹に追ってもらえるぐらい、強い姉になろう。


「頑張るね、私」


「……うん」


 決意と呼ぶには、随分と静かな会話だったと思うが、これでいいのだ。

 この姉妹の間にそれ以上の言葉など、必要はないだろうから。





「……気持ちのいい風ね」


 エルフの里の北方、里を囲む森林の中に立つそのヴァンパイアは、夜に溶けてしまいそうなほどに黒い髪をなびかせながら呟いた。

 履いているハイヒールは森林とはあまりにも相性が悪く、ヒールの先が地面に埋まっているが、当の本人は一切気にせずにその場に立っていた。

 そしてその隣には、鮮血にも見えるほどの赤に染まった髪の先を指で絡ませる、色気の溢れるスタイルの良いサキュバスがいた。


「そろそろ、頃合いかしら」


「日も暮れるし、タイミング的にはばっちりって感じですかね? でも、あーしらだけ別でここにいるってことは、魔物たちとは違う場所から攻め込むって感じですか?」


「ああ。そのことじゃないわ」


 マゼンタは気味の悪い笑みを浮かべると、正面を遠く見つめた。

 次の瞬間、遠い南方あたりから、獣の遠吠えが聞こえた。


「……そう。あなたもなのね」


 何かの合図だったのか、その遠吠えを聞いた瞬間にマゼンタは視線をリリナへと移した。

 マゼンタの瞳に映るリリナの顔は、冷汗を流しながら体中に緊張を走らせていた。

 震える声で、リリナは言う。


「どうして、南方からドリアンの遠吠えが……?」


 マゼンタやシアンが信頼する魔王軍でもかなりの力を持った魔物。

 今回の作戦でも、魔物たちの先頭に立ってこの北方から攻め込むことになっていた、はずだった。

 なのに、なぜ反対からその声が聞こえる? 

 だって、南方には。


 うまく息が出来ず、なかなか巡ってはくれない思考を無理矢理に回して、リリナは考える。


「分からないのかしら?」


 ピりついた空気に響く明るい声に、リリナは余計を震わせた。


「そうよね。考えもしないわよね。『言葉を理解し扱える魔物』が存在しているだなんて」


「ぇ…………?」


「全部、知ってるわよ? あなたがエルミエルでシアンと会った時の会話も、ここであなたがシアンを篭絡した男とたーくさんお話していたことも。だから、魔物は全部、ドリアンに任せて南方へと向かわせたわ」


 ぐちゃ、というような音が聞こえてきそうなほど、静かに、ゆっくりと、彼女の顔は歪んでいく。

 乱れる息を必死に押さえつけながら、リリナは頬を流れる汗を無視して口を開く。


「そ、そんなぁ。あーしがマゼンタ様を裏切ることなんてないって感じですよー。そんな嘘を急に言われても、あーしはなんのことか――」



「全部、知ってるのよ?」



 寒い。そう、感じてしまった。

 膝が震えているのをようやく自覚した。

 マゼンタのネバついた笑顔が、真横にあった。


「ぁ……ぇ……」


 震えて、思うように口が動いてくれない。

 怖い。怖い。


「知ってるわよね? 私が裏切られるのがとっても嫌いだって」


 返事ができないリリナのことなど気にせずに、マゼンタは続ける。


「本当に。残念だわ。自分の娘だけじゃなく、娘の友達すらもいなくなってしまうなんて」


「やっぱり、シーちゃんを殺すつもりで……!」


 シアンについてマゼンタが言及した途端、自分の口が滑らかに動いた。

 やはり、殺さずに回収しろという命令を無視するつもりだったのだ。

 やらせるわけにはいかない。

 しかし、


「話す時間も惜しい。死んで」


「ぇ……?」


 風を切る音が、マゼンタの足元から聞こえた。

 ハイヒールを履いた足が、リリナの首をはねようと迫る。

 恐怖に目をつむる時間もなかった。

 だからだろうか。


 誰かが、自分とマゼンタの間に割って入ってきたことに気づいたのは。


 ピタリと、マゼンタの足が止まった。

 受け止められたわけではない。

 自分の前に立つ誰かの向ける武器が、マゼンタに向けられていたため、止まらざるを得なかったのだ。

 足を振り上げたまま、マゼンタは口を開く。


「……誰かしら?」


「名乗るほどの者ではないね」


 黒髪の女性は、そう言った。


「あんたは……!」


 リリナの元へと現れたのは、シアンではなかった。

 ただ、見覚えは確かにあった。

 その女性は、

 白衣をその身にまとうその女性は、

 普段かけている眼鏡を外し、両の手足に紫の煙が包む鉄の装備を身につけるその女性は、

 エストス=エミラディオートは、

 静かに、それでいて凛々しく、マゼンタへと立ちはだかった。


 深いそうに顔を歪めるマゼンタは、吐き捨てるように言う。


「理由もないのにそこに立たないでもらえるかしら? 今、大事なお話をしているの」


「お話というには、随分と物騒なことをしているのではないのかな?」


「だったら、なに?」


 女性はわずかに笑って、「簡単だ」と、口を開く。


「友人を守るために身を危険に晒す少女が報われもせず命を落とすなど、あまりにも理不尽だろう?」


「……何が言いたい」


「私はいつだって、理不尽に苦しむ人のために戦ってきた。種族や所属など、関係ない」


 かつて主人公だった彼女は、魔族の女を助けるために立ち塞がる。

 それはまるで、


「あらあら、まるで勇者ね」


「そんな大層なものにはなるつもりもないし、そもそもなれないね」


 一言で否定したその女性は、わずかに、ほんの少し、寂しそうな目で言った。


「誰かの希望になるには、皆の光になるには、私の手は汚れすぎているからね」


「そう。なら下がっていれば? あなたは私がシアンの母だと分かっているのでしょう? 友人の親を殺すだなんて、あなたにできるのかしら」


 ぐちゃりという音が似合うほどに歪んだ笑みを浮かべるマゼンタへ、エストスは冷たい視線を送る。


「……愚問だな」


 滑らかに、エストスはその手に握られた魔弾砲をマゼンタへと向ける。


「理不尽に苦しむ誰かを救えるなら、私は何度だってこの手を汚そう」


 引き金は、引かれた。

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