境界線
書三代ガクト
第1話
道の向こうで揺れる陽炎に、涙でにじんだ昨日の出来事が重なった。横になった机の脚と砕けた茶碗。母親の悲鳴に、広がるように痛む頬。
その感覚は溶け出しそうになる強烈な日差しに少し似ていた。私は額にひさしを作って、空を見上げる。夏だ! と叫ぶような青空に巨大な積乱雲。蝉の音がまた大きくなったような気がした。
周りに木なんてないのにな。
どこにいるかも分からない蝉に舌打ちをした。慣れていないせいか、口の中で鈍く鳴る。溜息とともに俯くと、第一ボタンまで締めたブラウスが目に入った。脱ぐときしか外さないボタンは固い。また私は深く息をこぼした。
くすぶる胸に思いっきり手を上げて。叫ぶ。喉が痛むほど上げた声はどことも知れない蝉の音に紛れる。中途半端だなぁと小さく咳を漏らす。
大通りから外れた田舎道。左右は田んぼに囲まれていた。真夏の昼下がり。炎天下、誰もいない道で私は一人歩く。汗で濡れた袖が腕が張り付き、スカートの裾が太ももを追いかけた。まとわりつく高校の制服にイラッとして、手で払う。
「どこかに行っちゃおうか」
おどけて呟く。わずらわしい制服も捨てて駆け出す妄想はとても魅力に思えた。ちょうど明日から夏休み。タイミングとしては完璧だ。
まぁ、そんなの意味ないんだけど。
最近まとわりつく焦燥感。形のないそれはずっと胸の中にあった。ここじゃないどこか。そんなところに向かったところで消えるとは思えない。
「補習もあるしね」
考え出すと止まらなくなる思考にズレた理由を重ねる。汗が頬のガーゼに吸われ、ぴりりと痛んだ。眉間にしわを寄せて、家に向かう足を速める。
道の先に土手があり、その上で警報器がカンカンと鳴る。ゆらりと人影が現れた。
瞬きしてから目をこする。再び開けた視界には、白ワンピース姿の人が立っていた。ぴくりとも動かない彼女は夏の青空をバックに輝いていた。
首を傾げると、彼女と私の間に遮断機が下りてくる。「えっ」と心臓が跳ねた。
彼女は表情を変えない。私は焦って、カバンを投げ捨てた。夏に溶けかけた足で駆け出す。胸が早鐘のように打つ。電車がぷわぁと間抜けに鳴って、彼女に迫った。
「――っ」
叫んだ言葉は電車にかき消された。蝉の音は消えて、私は自身の鼓動だけが響く。彼女を塗りつぶした風景に足がもつれ、転んだ。
地面をすった腕に顔を埋めて、死の音を聞く。ガタンガタンと規則正しい振動に背筋が寒くなった。
遮断機の先にあるであろう景色に震えが走り、私は動けずに地面を見つめる。むき出しの土に蟻がのんきに歩いていた。
やがて電車は遠ざかり、蝉の音が上書きしていく。夏の日差しも背中に降り注いだ。
私は覚悟を決めて息を吐き出す。そしてガバッと顔を上げた。そこには変わらず夏空を背負い佇んでいる彼女がいた。
それはまるで自ら発光しているように白く、強烈な姿だった。
◇◇◇
机に頬をつけながらスマートフォンを眺める。ぴこりとメッセージアプリの通知で画面が明るくなった。ポップアップの上に表示される八時半の文字。溜息とともに教室の窓を眺めた。浅い日の光と薄めの青空。夏でさえ本気を出していない朝に私は一人、教室にいた。
スマートホンを操作して、メッセージアプリを開く。友人からの「夏休み。ヒマ?」を眺めた。
「私はホシュー」
口に出しながら文字を打ち込む。ホシュー、ほしゅう、補習。口の中で呟いている間に、既読の文字が付く。相手の書き込みを示す三点リーダーが付いては消え、また現れた。その様子に一昨日の父親を思い出して、治ったはずの頬がぴりりと痛む。
いつも成績上位の私が初めて取った赤点。突きつけた五つの赤文字は普段温厚な父親をかなり動揺させたのだろう。いつもは朗らかに笑う彼も迷うように、言葉を選び、そして何も言わない私を張り倒したのだ。
母親の悲鳴を聞きながら私は床に倒れ、割れた茶碗をただ眺めていた。
父親の豹変も、友達の戸惑いもよく分かる。だって私が一番、分からなかったのだから。
「お、めずらしー」
軽い声が降りかかり、私は顔を上げた。振り返ると、制服を着崩した女子生徒がいる。目を細めて腕を組んだ彼女。少しよれたブラウスの間からブラ紐が覗く。そのレースを眺めて、彼女の噂が頭に浮かんだ。
田中奏(たなかかなで)。性に奔放で、大学生と付き合ってるとか、教師と寝ているとか。常に三人以上と付き合っているとか。
クラスメイトながら、話したことない奏が笑顔を浮かべて近づいてくる。「あーえー」と言葉を探す私に首を傾げて、当たり前のように私の隣に座った。カバンを机において、その上に胸を乗せる。盛り上がった二つの山に目を奪われながら、私は口を開いた。
「は、はじめまして」
どもった口調に奏は目を丸くして、ぷっと吹き出した。腹に手を置いて、笑い声を上げる。ひーひーと呼吸を整えた彼女は目元を拭ってから「あー、おかし」と呟いた。
「何、その初対面みたいな。しかも胸ガン見しているし」
ぶり返してきたのか、また彼女は身体を折って笑う。二つの指摘に私は頬が熱くなった。私は「だって会話したことないじゃないですか」と小声で返した。
「え、クラスメイトなんだから友達だよ。……えーと名前なんだっけ?」
涙を拭いながらのちぐはぐな答え。引きつった私の表情を彼女は笑顔で見ていた。
◇◇◇
警報器に背中を預けて、空を見上げる。どこまでも広がる青が眩しくて、私は目を細めた。ジーワジーワとうるさい蝉の声に息を漏らす。視線の先には絵の具をのりたくったような、分かりやすい夏。私の頬に汗が伝う。
さっきまで涼しかったのにと、午前中の教室を思い出した。友達と言いながら私の名前も知らない奏。ちぐはぐなのに、彼女は笑顔を浮かべていた。
ぬるい風が頬を撫でる。視界にふわりと髪が入り込んできた。
風の影響は受けるのかと、顎を上げて彼女を見た。上下反対の視界でも半透明で、踏切の内に佇んでいる。彼女は電車に轢かれても表情一つ変えずに、ただ立っていた。
立っていたはおかしいか。足ないもの。
私が首を回す。振り返った先には透けたスカートの裾と、スネで切れている足があった。分かりやすく幽霊だと伝えてくれる姿に、今まで信じていなかった存在もすっと受け入れられた。
頭上で警報器が鳴り、私は慌てて立ち上がる。カバンを拾って、数歩下がった。一時間に一本の電車。それが通り過ぎるのを待ちながら彼女を眺める。
遮断機の向こうで無表情に佇む彼女。白ワンピースを着た彼女は真っ直ぐ前を向きながら目に何も映していない。焦点を結ばない瞳に私の視線を合わせた。けれど反応はない。風に煽られた黒髪がまるで羽のようにふわりと広がる。
電車が間抜けな警笛を鳴らして迫る。そして彼女は表情一つ変えずにかき消えた。
風になびく髪も、私も、電車も気にせず立ち続けている彼女。それは幽霊の特性かもしれないし、彼女自身の性格なのかもしれない。それは分からない。
けれど、その完結した姿はとても美しかった。
溜息を溢して、空を見上げる。夏らしい空。どこまでも青く、暑苦しい空気、響く蝉の音。完全なる夏に私は口を開く。
「私とは大違いだ」
今まで言われるがままに優等生だった私。授業もしっかり受けて、テストでも上位の点数を取って。教師にも親にも言われるがまま、それは正しいのだと信じ込んで。
けれど、その中に私なんてどこにもいないと、ふと、思ってしまったのだ。
きっかけも根拠もない気付き、けれど何かが壊れていくような気がした。
だから、名前を書けなかったのだ。
回答は書き切っているのに、なぜか名前欄で震えるシャーペン。すべてを投げ捨てることも、今まで通りも出来なかった。
どうにもちぐはぐ。
そんな形のない焦燥が私を追い立てている。父親に殴られた頬がまたぴりりと痛んだ。
同じちぐはぐでも奏のように笑うこともできない。ぐるぐると、うじうじと。吐き気がした。
電車が通り過ぎ、また彼女が現れる。この世界のことなど関係ないみたいに佇んでいた。輝く半透明の彼女。存在しているのかどうかが分からない。それなのに私よりも確実にいるような気がした。
彼女に手を伸ばす。けれど彼女の反応はない。それがとてもうらやましい。自身からも、世界からも自由に見える彼女みたいに私もなりたい。
私はまた地面に座り、警報器に背を預ける。そして私は彼女に胸の内を吐き出していった。
◇◇◇
「暑いのにやってらんないよね」
正面で奏がちゅるりと野菜ジューズをすすった。首をひねると、彼女はストローから口を離す。じゅっとブリックパックが鳴った。
彼女は胸元を仰いでふへえと舌をを出す。
補習が始まってから半月、受講生が他にいないこともあり、私は奏と一緒に過ごしている。授業を受け、昼食を食べるまでは一セットだ。
奏は机に弁当を広げた。ブロッコリーに、ささみに、卵焼き。未だにイメージとが異なるストイックな食材に、私は顔を上げた。
「知ってる? ブロッコリーって肌に良いんだよ」
私の顔を見て奏が解説をする。緑を口に投げ込んで嫌そうに顔を顰めた。前に苦手だって言っていたことを思い出す。それなのに連日、彼女の弁当にはブロッコリーがあった。
じっと彼女を見つめる。箸を持つ指の爪はしっかりと切りそろえられていた。
「ネイルとかつけないんだ」
口にしていなかった疑問に、彼女は目を丸くして、くすりと笑った。
「指先はね。気をつけてるの。彼をひっかかないようにね」
奏では表情一つ変えずに言い切る。それでもどこか彼女が知らない存在に見えた。
「なんで、そこまでして」
彼女から飛び出した”彼”に過剰反応してしまう自分。ぞわりと逆立つような背中を感じながら言葉を重ねた。それでも奏は真っ直ぐ私を見つめる。
「さては私の噂知ってるな~」
からからと笑う彼女。どきりと私は固まる。
「先に言っておくと、全部事実だからね」
彼女はささみを噛みながらそう告げる。影一つない声色に驚いて、私は彼女を見つめた。
「でもそんな気にならないぐらい素敵なことだよ。愛されるって」
彼女の目が私に向いていないことに気付いた。ここではないどこかに向いた瞳は光が消えている。
「だから私は爪を切るし、ブロッコリーを食べるし、補習だって受けるよ」
机の上で奏のスマートホンが震えた。明るくなった画面にポップアップが現れる。その下に彼女と男性が映った。彼女の胸に手を伸ばすかのように、首に回された腕。写真の奏はくすぐったそうに笑顔を浮かべている。顔を上げると、写真と同じ表情の彼女がいた。
悪い噂も、学校の成績も気にしない彼女。それでも苦手なブロッコリーを食べ、爪は短く整えている。
自由に見えていた奏が急に窮屈そうに思えてきた。うらやましさがぐにゃりと歪む。吐き気がして、思わず口を押さえた。
「ちょっと」
焦った奏の声、かしゃんと軽い音がして、弁当が宙を舞う。持っていた箸がひっかかったのだと気付いたのは、私のおかずが床に散らばってからだった。
汚れた床と、ひっくり返る弁当箱。窓の外で雲がゴロゴロと音を鳴った。
◇◇◇
雨の中で今日も彼女は佇んでいた。天気のせいか、いつもよりも輝いているように見える彼女。
踏切にたどり着いて、私は彼女の真正面に立つ。傘の音が大きくなった。
私はゆっくり息を吸い吐き出す。彼女の目は点を結ばず、どこか遠くに向けられていた。
「どこにもないのかもね」
ぽつりと呟く。自由に見える奏も結局はここにはない基準に縛られているだけだった。
風が吹き、傘が持って行かれそうになる。腕が引かれ、ひやりと胸が跳ねた。傘を引き寄せて、濡れた肩を払う。雨が頬を伝った。
それでも目の前の彼女はなにも変わらない。
「私はあなたみたいにはなれない」
自由を求めて動けなくなっている自分。奏を通して気付いた自分に頬がまた痛んで、吐き気がよみがえった。
また風が吹く。私は手を離して傘を飛ばした。雨が全身を打つ。一瞬で濡れ鼠になった。
「生きていたら、なれないのかもね」
警報器がカンカンと音を上げる。私と彼女の間に遮断機が下りてきた。明確に引かれた線は私と少女の境のようにも見える。
遠くから電車の音が聞こえた。私は雨に背中を押されるように、死に手をかける。
そして――。
視界を塗りつぶした電車の前で彼女は両手を広げていた。驚いて私は転ぶ。ぱしゃりと水たまりが跳ねた。
遮断機のこちら側にやってきた彼女はきりりと口を結び、じっと私を見下ろす。電車から漏れる光が彼女を照らして流れていった。
私の口から「ほえ」と声がこぼれる。彼女は何かを訴えるように口を動かした。私の中で理想が音を立てて崩れていく。
「やめてよ」
口から私の声がこぼれる。風にも、電車にも、私にも無反応だった彼女。けれど今、私に手を伸ばしていた。
「やめてよ」
彼女が踏切から一歩前に出る。半透明の手で私の頭に触れた。けれどすり抜ける。
「やめてよ!」
それでも彼女はまた手を伸ばす。何度もすり抜けてはまた掲げる。口を動かしながら悲しそうに目を細めて。
もう一歩踏み出した彼女はゆっくり屈んだ。私と視線を合わせてからゆっくりと言う。
「――」
声は聞こえない。けれどその動きを読み、声に出す。
「同じ?」
彼女の表情が和らぐ。こぼれた彼女の思いに触れた気がした。
私は手を上げて彼女と手のひらを合わせる。すり抜ける。難しいなと苦笑してからまた彼女の手に手を合わせた。
ふれあっている感覚はない。けれど冷えた手の境目は確かに温かかった。
夕立が止み、雲が晴れていく。雨で冷えた身体に日差しが差し込んだ。私は彼女と目を合わせる。線路のこちら側で、彼女の表情もくしゃりと歪んだ。
きっと私も同じ表情をしているんだと、今はなぜか無条件で信じられる気がした。
境界線 書三代ガクト @syo3daigct
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