エモーショナル・スカーズ -序-
神埼えり子
「運命の子」
その脚は既に歩む力を失い、不規則に地を打つ音を響かせた。
細長い工学灯は摩耗しきり、怪しく薄暗く、無機質な廊下を照らしている。喉奥から掠れた声が漏れた。この空間は、無様な声すらよく響かせる。誰かを呼ぶように、その口は言葉を紡ごうとしていた。
ふらふらと踊る波のように歩む少女、その身体に故障はない。これは夢だ。逃れてなお立ちはだかる過去に、心は疲弊していた。ただ先へ進もうとする度に、誰かを呼ぼうとする度に、胸の奥に錘が掛けられたように重くなる。幼いかつての身体の脚は、傷一つないのに惨めに見えた。
少女はこの場所が何なのか知っている。そして、ここが自身にどれだけの絶望を齎したのかも、知っている。
─────ここはかの研究所だ。少女はここに閉じ込められ、身に余るあらゆる苦を背負わされた。馬鹿げた旧い伝承に踊らされ、そんな伝承とは真反対な環境にて、至極の魔法の才能と引き換えに豊かな子どもの時代を浪費した。
そして少女には、弟がいた。子どもを売る親など親ではないだろう、そんな訳で少女にとって弟は唯一の肉親だった。
彼もまた、同じように力を引き出す日々に曝されていた。少女は弟が傷つけられることが何よりも許せなかった。許せなくても、それを未然に防いでやれるようなことは出来なかった。その為に、少女はせめてとこの不気味な廊下を歩くのだった。
「……リィ……、リ……」
忘れたい記憶の反覆は、何もしていなくても心を蝕む。夢と分かっても覚めることができず、弟の愛称を零しながら歩む。
「ねえ、ちゃ……」
感じ取ったかすかな声に少女ははっと顔を上げた。─────走り出したのは、救けたかったからか、本当は縋りたかったからか─────、無我夢中、転げ落ちそうになっても、少女も彼の名を呼んで、叫ぶように大きくなる弟の声を追った。
少女の名はティエラ。ティエラ・テンペスト。遠い世界のことばで大いなる意味を持つこの名を受けた彼女は、旧い伝承にて、争いの世を平定するといわれる、『運命の子』だった。
「────姉ちゃん!!!」
「ッ……!!!」
一際大きな弟の声に心臓が身体ごと跳ね、ティエラは反射的に上体を起こす。
────弟の頭はティエラの頭上にあった。避ける暇もなく姉弟は互いの額を強く打ち付けた。
「いッッッた……」
一方はソファの上で蹲り、もう一方は頭をこれまたソファに押し付けて悶えている。滑稽な朝の風景。何してるんだと呆れるように外の小鳥が鳴いた。
「ぁーー……、…姉ちゃん?」
「ん……?」
「……起きた?」
「……んん……」
ジンジンと痛む頭を押さえながら起き上がり、辺りを見回している姉に、弟のリーベは怪訝そうな視線を向ける。
「……寝てたのか、私」
「がっつり二度寝してたけど?」
「……うそだ、何時だ今」
「七時の……二十分過ぎてる」
「え?……マジか。リィ、朝飯食った?私用意したっけ?」
「あ、だいじょーぶ。俺はさっき食べたよ」
「果物。まだ冷蔵庫に入ってる。良ければ食うといい」
ソファから颯爽と起き上がり、テーブルのパンを口に突っ込んで冷蔵庫を漁る。
そんなティエラの脳裏に、先刻見た夢がちらついた。────不気味な夢だ。だいぶ前から何度も見る夢だが、いつになっても慣れそうにない。ぼんやりとしたあの暗さと怠く重い身体、焦燥感を思い出すだけで頭が痛くなる。現にティエラは肩を落とし、大きなため息を吐いていた。
「……姉ちゃん?」
リーベがそんな姉の様子を心配そうに覗き込んでいた。弟に心配かけさせまいと、ティエラはこの時いつも無理矢理にでも笑顔を見せる。
「ああ、大丈夫だよ、リィ。すまないな」
「…ううん、姉ちゃんが元気だったらそれでいい」
優しく頭を撫でれば、リーベは不安がすっと消えたようにはにかむ。つられてティエラの頬も緩んだ。
その間に登校の身支度を済ませ、玄関のドアノブに手をかけて弟に向かって叫ぶ。
「手間取らせてすまんなリィ!早く行くぞ!」
「ま、まって姉ちゃん」
靴に
────万物創りし神の祝福を受け、自然の加護が満ちるこの世界。世界の力を借り受けて、人々は奇蹟たる魔法を行使する。そんな世界の中、この街に生きる少年少女は、望むことで学び舎にて魔法を学ぶ。
古来から世界に根付いて人々とともに歩んできたそれと異世界から流れ着いた科学技術───、それらと共生、そして発展させてこの街は栄えてきた。幻想の王国ミスティに一際大きな塔を建てるこの街の名は新興工業都市サフィール。そしてそこにある都内最大の魔法学園、それがプラティヌベル魔法学校である。
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