5-12 灯りもない部屋の中で

 二人が目を覚ました後、俺たちは九十九里を後にした。


 三厨さんは最初からそのつもりだったのか、ホライゾンに休みの連絡を入れていた。


「久しぶりに親戚ストック、減らしたった」なんて笑いながら。


 その表情に影はない。

 きっと悔いのない時間が過ごせたのだろう。




 さて、都内に戻ってきた。


 高速を降りるとあたり一面の高層ビルと、車が奏でる排気音に包まれる。


 都内に住んでるせいか、どこかこの喧騒に安心してしまう。静けさに包まれた自然は素晴らしいが、逆をいえば静かすぎてさびしくもある。


 そんな騒がしい下道をのろのろ進んでいると、三厨さんが突然気になることを言い出した。


「いま、連絡入ったんだけどさ。さーちゃんも体調不良で仕事休むみたい」


「和平、先に降りろ。ここからなら歩いたほうが早いだろ」

「悪い」


 そう言って車を出ようとしたところ――


「待て、まだ金を借りてない」

「……私が貸します。次元くんは早く行って!」


 三厨さんの呆れた声を尻目に、俺は紗々のところへ急いだ。


 紗々のマンションは目と鼻の先だ。

 海を出た時間が早かったこともあって、午前中には戻ってくることができた。



「……ただいま」



 おそるおそる玄関の扉を開き、申し訳程度に声をかける。

 奥のリビングは薄暗く、人のいる気配は感じられない。


「さすがに、寝室かな」


 寝室のドアを軽くノックする。が、返事はない。


 そっとドアノブを回し、中を覗き込むと……冷えペタを貼っつけた紗々が、ベッドですやすやと眠っていた。


 熱があるのだろうか、少し顔が赤いように見える。

 汗で髪がほっぺたに張り付き、うねりをつけている。


 俺は近くのゲーミングチェアに腰掛け、なんとはなしに紗々の寝顔を眺める。


「……ごめんな、ひとりにさせて」


 胸の奥から、じわじわと罪悪感がこみあげてくる。


 少し、痩せたように見える。


 ご飯はちゃんと食べていたのだろうか。


 離れていた間に、小清水や同僚に嫌がらせをされてないだろうか。


 ……自分から側を離れたくせに、そんなことばかり考えてしまう。



 そもそも俺には紗々を心配する権利なんてあるのだろうか?

 俺が出て行ったのは身勝手な理由であって、紗々が望んだものじゃない。


 目が覚めた時、口を聞いてもらえなかったらどうしよう。


「……さすがにマイナス思考すぎるかな」


 とは言え、膨れあがった不安はなくならない。


 どちらにしろ目を覚ますまでこの問いに答えは出ない。だったら目覚めた時に食べられる物でも作ったほうが、よっぽど建設的だ。


「おかゆでも作るか」


 ひとりごちて立ち上がり、紗々に背を向ける。


 すると――


「行かないでください」


 消え入りそうな声が、耳を掠めた。


「紗々?」


 再びベッドに視線を戻すと、紗々は薄っすらと目を開いていた。


「どこにも、行かないでください。ずっと、ここにいてください」


「起きてたのか」


 紗々は応えない。

 怒っているのか、視線は微妙にあさってを向き、潤んだ瞳からはいまにも涙がこぼれそうに見える。


「なんども、同じ夢をみました」


「……なんの夢だ?」


 できる限りやさしい声を作り、たずねる。


「カズくんが、帰ってくる夢です」


 ――胸に、握りつぶされるような痛みが奔る。


「いまも、夢じゃないって保障ありません。だから夢じゃないってわかるまで、ずっとここにいてください」


「……ああ、ずっといるよ。信じてもらえるまで」


 紗々はゆっくりと頷くと、俺に向かって手を伸ばす。たまらず伸ばされた手を掴むと、そのままぐいと引っ張られる。


 するともう片方の手で、かけ布団の端を持ちあげる。


「一緒に布団、入ってください」

「え、ええ……?」


 予想のななめ上をいくお願いをされてしまった。


「心が、すごく寂しいです。抱き枕になってください」

「抱き枕て」


「言い方を変えます。慰み者になってください」

「よけいに悪い」


 だが手を離すつもりはないようだ。

 どうやら本気で布団に招き入れるつもりらしい。


「……本当に入っていいのか?」


「体起こすの、つらいです。でも側に来て欲しいんです」


 そう言われてしまっては断れない。

 もちろん他意はないのだろうが……さすがに同衾するのは気恥しい。


「ふ、服だけ着替えてもいいか? なんか海に落ちたっぽくて汚れてるから……」


「そんなこと、どうでもいいです。早くしてください」


 紗々は怒ったような声で、手を強く引っぱる。


 ――もう、どうにでもなれ。

 覚悟を決めて、ベッドにもぐりこむ。


 すると紗々はものすごい勢いで俺にしがみつき、小さくすすり泣き始めた。


「……ごめんな」


 紗々は肩や胸にぐしぐしと顔を押し当て、小さく声を震わせている。


 その悲痛な声に、目頭が熱くなる。

 伝わってくる体温は異様に高い、もしかして熱が高いのかもしれない。


 病院には行ったのか、薬は飲んだのか。……でも言葉にはしなかった。


 しがみつく体を抱き寄せ、乱れた髪を整える。


 汗を吸った寝巻に、海水を吸ったシャツ。二人分の体温で布団の中はむせ返り、匂いはすごいことになっている。


 でも、そんなのどうでもいい。

 これからの時間は、紗々のために使おう。


 俺のやるべきことは、すべて終わったんだ。

 生きる意味をくれたのも、こうして帰って来れたのも、紗々のおかげなんだから。



 華奢な体を、強く引き寄せる。

 紗々も負けじと、痛いくらいに掴みかかってくる。


 愛おしい、なんて陳腐だと思う。


 でも、それ以外にこの気持ちをどう表現したらいいのかわからなかった。


 伝わってくる熱と、まどろみが気持ちいい。

 俺たちは飽きもせず互いを抱き枕にし、どちらからともなく眠りに落ちていった。



---



 夕刻、目を覚ました。

 着ているシャツは汗を吸い過ぎて、もはや暑いのか寒いのかわからない。


 隣の姫はまだ寝息を立てている。


 無防備なあどけない表情に、思わず胸がくすぐられる。……まったく、自分がここまでチョロいとは思わなかった。


 とはいえ、ずっとこのままでもいられない。

 布団の中は二人の汗で、寝小便でもしたかのようにびしょびしょだ。


 体を冷やしたら治るものも治らない。かわいそうだが一度起こして着替えさせよう。


「紗々、起きて」


 小さく肩をゆすり、できるだけ機嫌を損なわないように呼びかける。

 

 紗々はゆっくりと目蓋を開き、あやふやな焦点で俺の顔をまじまじと見る。


「……カズくんだ。ということは夢ですね」


 眠たそうな声で言い、ふたたび目を閉じた。


「夢じゃねえよ。そのくだり、さっきやっただろ?」


「まだ信じられません。カズくんに起こしてもらった夢だって、何度も見ました」


 マジかよ。

 現実に二番煎じさせるな、夢の俺。


「汗かいて気持ち悪いだろ、一度着替えたほうがいい」


「いやですっ」


 布団の端をぎゅっと掴み、そっぽを向く。


「ほら、わがまま言うな。これ以上悪くなって欲しくないんだ」


「い~や~で~す~!」


 なぜか一段とわがままを言う紗々、反抗期か。


「はあ。……どうしたら起きてくれる?」


「おはようのキスをしてください。古来より目を覚まさない女の子を起こすには、王子様の――」






「……ほら、これでいいか」


 おしゃべりな口からゆっくり顔を離すと、瞳をまんまると開いた紗々が、唇に手を這わせてぷるぷるしていた。


「え、あ、のっ。い、いまのはっ?」


「……お前がしろって言ったんだろ。ほら、これで目覚めのクエストは完了だ。気が済んだらさっさと――」


「な、な、なんてことするんですかっ!」


 紗々が体を起こし、顔を真っ赤にして叫びだす。


「も、もう少し場の雰囲気を読んでくださいっ! こ、こんな不意打ちっ、あなたをそんな風に育てた覚えはありませんっ!」


 安心しろ、俺も育てられた覚えはない。


「初めてのキスだったんですよっ!? それなのに心の準備もないまま、こんなあっけなく……」


「じゃあ、もう一回するか?」


 思い切って、そんな申し出をしてみる。


「今度は準備ができるまで、待つから」


「え、あ、う、その……」


 紗々は困ったような泣きそうな顔で、指先をいじくりまわしている。


 そして決心がついたのか、目をきゅっと閉じたかと思うと、


「お、お願いします」


 と、消え入りそうな声で言った。




 枕元に腰掛け、頬に手を這わせる。


 緊張しているのか、紗々は小刻みに呼吸を繰り返している。


「そんなに緊張するな」

「む、無理です……」


 このまま過呼吸にでもなったらたまらない。


 少しでも落ち着かせようと、か細い背をさすってやる。


 紗々は俺の肩口に頭をぐったりと預け、自分を落ち着かせようと頑張っている。


「……また今度にするか?」


 紗々はぶんぶんと首を振る。


「いまじゃないと、また幸せな夢で終わってしまいます」


「……わかった」



 紗々の頼みはすべて聞く。

 俺のせいで寂しい思いをさせたんだから。


 これから全部の願いを聞いたって、返せてやれるかわからない。


 でも、応えてやりたい。

 こんな素敵な人になにかを願われること自体、幸せでしかないのだから。



 頭を起こした紗々と、視線を交わす。


 初めて見た時から魅入ってしまった、瑠璃色の瞳。


 その中心には変わらず、俺の姿を映してくれている。


 俺を見つけだしてくれた、愛おしい人。


 もう離れるなんて寂しくてかなわない。


 その瞳に吸い寄せられるように顔を近づけ――薄い唇をゆっくりと食む。



 唾液に湿らせた、桃色で小ぶりな唇。


 控えめに押し返そうとしてくれるが、恥が抜けないのか遠慮がちに震えている。


 そんな仕草が愛おしく、こちらから強めに吸いつける。すると紗々は抗うことなく、力を抜いて受け入れる。


 されるがままに唇をなぶられ、時おり漏らす苦しげな息づかい……どろりとした嗜虐心が、鎌首をもたげる。



 ――衝動で汚したくない。


 ぎりぎりのところで衝動を抑え、華奢な肩をゆっくりと押し返す。


 吸われるがままだった紗々は、どこか瞳の焦点があっておらず、口を半開きにして全身をだらりとさせている。


「……大丈夫か?」


 紗々は小さく、首をこくんと頷かせる。


 そしてわずかに口を動かし、


「もっとが、いいです……」


 と、濡れそぼった唇を押し付けてきた。


 首の後ろに腕を回され、口元をたっぷりと覆われる。


 呼吸の一切を奪われた不安感から、縋りつくように体を抱き返す。


 だが呼吸を奪った張本人は、そんな俺を愉しむかのように隙間なく唇を覆いつくす。


 紗々も、先ほどの衝動に襲われているのかもしれない。


 どろりとした欲望に、支配されているのかもしれない。


 だとしたら、俺は黙って食われよう。


 もうどこにも行かないと証明するために、ちゃんと所有物になれるように。


 酸素も、体も、時間も、未来も、奪われてやりたい。



 ……だが、呼吸を浅くしすぎたのか。


 本能的な苦しさからか、思わず舌が伸ばしてしまい――触れ合ってしまった。


 びっくりしたのか、我に返ったのか。

 紗々はパッと口を離し、照れ隠しをするように俺の胸に顔を押し当てる。


「……まだ、えっちなのはダメですっ」


 言い訳するつもりもない。

 黙って「ごめん」とだけ言った。


 紗々は抗議するかのように、ぐりぐりと顔を押し付ける。


 そうして少しずつ互いの呼吸が整ってきたところで――俺はずっと溜め続けた言葉を、口にした。



「好きだよ、紗々のこと」


「……はい。わたしもカズくんのこと、大好きです」



 夢見心地なとろんとした瞳と、頬の緩み切った嬉しそうな顔。


 そのとき見せてくれた表情を、俺は二度と忘れることがないだろう。

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