3-15 銀色の月
スマホを握りしめ、薫のいる部屋を出る。
そのままエレベーターを降り、ホテルの外に出たところで通話ボタン。
相手はもちろん紗々。
発信音が流れる間もなく、電話は繋がった。
「……はい」
感情の見えない、平坦な声。
どう思ってるかわからない状態が、一番怖い。
「ごめん、寝落ちしてて……いま連絡に気付いた」
「いま、どこにいるんですか?」
「えっと……」
説明しようとして、少し考えてしまった。
ここはアキバだ。帰ろうとすればいつでも帰れる。
だが薫には朝まで付き合うと約束してしまった、まだ帰るわけには行かない。
正直にアキバにいると答えてもいいが、だとしたらなぜ帰って来ないかという話になる。……俺はこの状況を全部説明できるのか? むしろ説明してしまっていいのだろうか?
説明するとして、どこまで説明できる?
ホテルにいること? 五十嵐薫と会ったこと? 夢見降魔の過去を話したこと?
俺がそんな逡巡していると……紗々はみずからその言葉を引き取った。
「ごめんなさい。いまの聞かなかったことにしてください」
「……紗々?」
「カズくんにも外の付き合いくらい、ありますもんね。余計なこと聞きました」
「違う、別にそういう……」
言い訳する間もなく、紗々が別の質問を重ねる。
「それより、朝には帰ってきますか?」
「ああ、始発が動く頃には必ず帰る」
「わかりました。わたしのことなんか気にせず、ゆっくりしててください。じゃあ、おやすみなさい――」
「ちょっと、待ってくれ」
「……はい?」
「ごめんっ! こんな時間まで、なんの連絡もできなくて!!」
俺が謝ると、紗々は急に黙り込む。
「なに、謝ってるんですか……?」
「だって紗々、怒ってるよな」
「……怒ってなんかいません、なに勘違いしてるんですか」
いつもと変わらぬはずがない。
こんな時間に六回も電話をくれたのは心配をかけてしまったから。
それに普段の紗々だったら”わたしのことなんか気にせず”なんて言ったりしない。
「本当にごめん。頼まれたのに夕飯も作れなくて」
「最初にいらないって言ったのはわたしです、カズくんが謝ることじゃありません」
「遅くなるって連絡できなくてごめん。こんな時間まで起こしててごめん。勝手に外泊して――」
「謝らなくていいって言ってるじゃないですか!」
耳元に響く、紗々の張り上げる声。
「いつもカズくんにしてもらってばかりのわたしに……怒る資格なんてないんですから」
「なに、言ってるんだ?」
……紗々の言いたいことがわからない。
「わたしがご飯作ってもらえる理由なんて、本当はないんです。ただカズくんがそうしてくれるから、ずっと甘えてるだけなんです」
「なに言ってんだよ。俺がやりたくてやってるんだ、そんなの気にしなくていいんだよ」
「いいわけありません。……カズくんが側にいる理由だってないのに」
「なんの、話だよ?」
「ブルーム、もう消えたりしません。だったらわたしにかまう理由なんて、もうないじゃないですか」
……そんなこと、気にしてたのか。
「それなのに帰って来ないことに怒ったりできません。もしそんなことで怒る面倒な人だって思われたら、もう一緒にいたくないって思うに決まってます」
「そんなわけない。どうしてそう思うんだよ?」
「だってわたしなんかといても、楽しくないじゃないですか! 面白い話もできないし、見た目も変だし、陰キャだし、貧層で女っぽくないしっ! それでも一緒にいてくれるのは、カズくんがワガママを聞いてくれる、優しい人だからです。……そんなカズくんに、わたしは嫌われたくありませんっ」
つっかえつっかえ、声を詰まらせる紗々。
その度に胸が締め付けられる思いがする。
「カズくんにだって、本当はやりたいことあるはずです。遊びたい人がいるはずです。わたしみたいな白なめくじのワガママなんて、本当は聞く必要ないんです」
「バカ、ワガママ言っていいんだよ。我慢なんてするな」
「イヤです、それにわたしが本当にワガママになったら……絶対に重いって思わます」
「なにが重いってんだよ、そんな細い体して」
「体重の話じゃありません、わかってて言わないでください……」
「いーや言うよ、それに俺だって……同じだし」
「同じ……?」
紗々が不思議そうな声を出す。
「俺だって……紗々に嫌われるの、怖いよ」
「なに、言ってるんですか? カズくんがそんなこと――」
「思うよ。だってあいにぃみたいな面白い話できないし、愛想笑いもできない。男なのに女々しいことばかり言うし……嫉妬もする」
電話口の紗々はなにも言わない。
もしかしたら無言の肯定――確かにそうかも、なんて思われてるのかも。
……いや、それでいいんだけど。
「こんな情けない男だから、友達もいない。紗々に嫌われたらどうしようって、いつも不安に思ってる」
「そんなの、信じられません」
「だから連絡くれて嬉しかった、怒ってくれたのが嬉しかった」
「怒ったら嬉しいって……意味、わかりません」
「だって帰ってこないことが心配で怒るなんて……なんか、本物っぽいじゃん」
「なんですか、本物って」
「わかんね。……本物、まだ見つけたことないから」
そう言うと、紗々はまた黙り込む。
けれどその沈黙は、紗々のくすくす笑いに破られた。
「……なんだか、安心しました」
「安心?」
「はい。カズくんがわたしとおんなじ小心者で」
「そうだな。俺と紗々は……小心者、だな」
不意に――心地のいい沈黙に包まれた。
言葉はないのに温かく、遠くにいる紗々と深く繋がり合っている気がした。
「……帰ったらちゃんと説明するよ。ちょっと長くなるかもしれないけど」
そう言うと、紗々はわざとらしくため息をつく。
「はいはい、わかりました。いっぱい言い訳を考えておいてくださいね?」
「言い訳なんてしねーよ、俺は本当にだな……」
「ねえ、カズくん」
紗々は俺の言葉を遮り、こんなことを言った。
「――本当に言いたくなった時でかまいません。わたしはカズくんのこと、知りたいって思ってますから」
俺のことを、知りたい?
もしかして、紗々が言ってるのは今日の話じゃなくて……
「はいっ! 話はこれでおしまいです。朝には帰ってくるんですよね?」
「あ、ああ……」
「本当に約束ですよ、破ったらハリセンボンですからね?」
「わかった、約束する」
「じゃあ、もう寝ますね。明日も仕事があるので」
「ああ、こんな時間に本当にごめんな?」
「いいんです、……じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ、紗々」
電話を終えた後――俺はひとり、銀色に輝く月を眺めていた。
結局、紗々はどこでなにをしていたのか、最後まで聞いて来なかった。
思い返せば、一度も過去を詮索されたことはなかった。
貯金のことも、記憶喪失だった時のことも、しつこくされたことは一度もない。
……いや、少し興味が先走った時は、いつも自分から言葉を引っ込めていた。
それは俺に対して興味がないからじゃない。
俺が触れて欲しくないことに……気づいていたからだ。
でなければ、俺のことを知りたいなんてわざわざ口にするはずがない。
本当は知りたいと思いつつ、これまでずっと聞かずにいてくれていた。
そうやって秘密にすることを、ずっと許されてきたんだ。
しつこく聞いたら嫌われる、そんな思い込みにずっと捕らわれて。
――胸の奥から湧き上がる感情に、頬が熱くなるのを感じる。
俺は……紗々とこれからどうしたいのだろう。
ふと、紗々の言っていた言葉を思い出す。
『ブルーム、もう消えたりしません。だったらわたしにかまう理由なんて、もうないじゃないですか』
反射的に否定したくなる、悲しい言葉。
でも実際のところ、その通りだった。
根拠もなくこれからも一緒にいられると思っていた。
でも些細なきっかけで、この関係は崩れてしまうのかもしれない。
俺たちはブルームを視ることで繋がりを得た。
だがそれ以外に結びつけるものは、なにもない。
四次存在に命じられ、三厨さんにケアを頼まれたことで、一緒にいる理由をもらっている。
繋がる理由なんて、本当は自分たちで結び付けなければいけないはずなのに。
俺たちはずっとそれをやって来なかった。
俺はこの二年、ずっと自分に自信が持てなかった。
降魔より優れたものを持たない俺が、誰かに必要とされるはずがない。ずっとそう思っていた。
だが、それは紗々も同じなのかもしれない。
俺からすれば才能の塊である紗々も、外見の違いや交友関係の少なさが、持てるべき自信を与えてこなかった。
人からの好意に自信が持てない。
与えられる理由を、いつだって利己的な物に求めてしまう。
ふと、気づく。
どうしていままで紗々に降魔であることを伝えられなかったのか。
……怖かったんだ。
紗々の瞳に、降魔が映るのが怖かった。
もし記憶喪失前の話が知られてしまえば、俺の印象は百八十度別のものに変わってしまう。俺という無価値な人間は吹き飛ばされ、別の印象で上書きされてしまう。
両親も、あいにぃも、三厨さんも。
俺を一個の人間ではなく、初代から地続きした人としか見ることができない。
外見が初代と同じである以上、彼らの目にはいつも降魔が映っている。
記憶喪失で生まれた、二代目を見ているのではない。
いまは記憶喪失になっている、初代を見ているのだ。
……その視線を向けられる度に、自分が降魔ではないことに罪悪感を感じていた。
紗々はもちろん、夢見降魔の時期に会っていない。
だが紗々は降魔の著作、DSの大ファンだ。
声優を目指したのもDSのアニメがきっかけだ。
降魔なしに声優にこたまブルームは生まれなかったと言っても過言じゃない。
もし紗々の瞳にも、夢見降魔が映ってしまったら――俺はもう紗々の目を見ることができないだろう。
そんな決定的な終わりを迎えるのが、ずっと怖かった。
でも、いつまでもぬるま湯には浸かっていられないのかもしれない。
紗々がその瞳にどんな姿を映したとしても……真実を伝えたい。そう思ってしまった。
帰ろう。
帰って、紗々にすべてを話そう。
もしかして紗々だったら、一個の人間として見てくれるかもしれない。
俺はそんな期待を胸に…………薫の待つホテルに、泣く泣く戻った。
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