2-3 平和を乱す闖入者
――その夜、日付も回った遅い時間。
紗々たちの住んでいる千代田区一帯は雷を伴う嵐になった。
樹木は風に煽られ、鈍色の街を白に染める稲光。
遅れて響くのは空が落ちたような轟音。
誰もが外出を控える嵐の中。
怪しい雨合羽の人影が、そのマンションを見上げていた。
「……取り返す」
そう呟く男の声。
なにか執念深い想いを抱えた彼は奥歯を噛み、マンションのエントランスに足を忍ばせた。
彼はここの住人ではないため、セキュリティゲートを抜けることはできない。
対象の部屋番号はわかっているが、この時間にインターホンを鳴らす馬鹿はいない。
彼は落ち着いた様子でずぶ濡れの雨合羽を脱ぎ、身なりと前髪を整える。
そしてなにを考えたのか、いきなり友人へと電話を繋ぎ不用意にも談笑を始めた。
しばらく経つとマンションの前にタクシーが止まり、中年の男性が駆け足でエントランスへ向かってきた。おそらくマンションの住人だろう。
エントランスに飛び込んできた男性に彼は自ら「こんばんわ」と挨拶をする。
印象に残ってしまうことも省みない、満面の笑顔で。
「遅くまでお疲れ様です、それにしてもすごい雨ですねえ」
「はあ……」
驚いた男性は挙動不審に会釈を返し、キーを押してドアを開ける。
彼はさも当たり前のように連なってドアを潜り、通話相手には適当な理由をつけて電話を切る。
中年男性がエレベーターに消えたのを確認した後、彼はつまらなそうな顔でスマホをポケットに突っ込み、再び降りてきたエレベーターに乗り八階のボタンを押す。
「あいつの声を聴くのも、久しぶりだな」
エレベーターが昇る間、彼はくつくつと喉の奥で嗤い声をあげる。
多分にヒステリックな響きを含んだ声は、彼の性格をそのままに表わしていた。
事実、対象に距離を取られた理由も、彼の偏執的な行動そのものに理由がある。彼自身も自覚はしていたが、行動を改めるつもりはない。自身が愉しければ、対象の感情なんてどうでも良い。
今回、忍び込んだ理由も同様だ。
ヤツのスマホには盗聴機を仕掛けている、部屋番号も自ら口にしていた。
会話を聞く限り、ヤツは異性と同衾しているらしい。
あのネクラが異性を連れ込んでいる、こんな面白いことってないだろ?
オレのことは捨てたくせに、そいつとは一緒に住むことまで許した。
だったらそいつの顔を拝んでやろう、そしてお前が誰のものかということを徹底的に理解させてやる。
間抜けな音を立てて止まるエレベーターを抜け、対象の部屋に着く。
彼の財布にはピッキング用の工具が入っている。
以前、カタギではない知人にピッキングを習った。
ダブルディンプルだろうとサムターンだろうと一通り開けられる。
そして八〇四号室に着く。
工具を取り出す前に、一応ドアノブを握る。――開いた。
……マジか。
不用心にもほどがある、隣人の犯罪だって疑ってかかるべき時勢だぞ。
まあいい、楽に越したことはない。
そのまま部屋に上がり靴を脱ぐ。女の部屋に漂う独特の空気、悪くない。
早速、ご対面……する前に洗面所へ向かい、鏡で髪型を確認する。
……イケてない、こんな雨の日に気まぐれで外出なんかするからだ。
自分の外見が整ってないと気分がノらない、おまけに体も冷えてしまった。
風呂にでも入るか。
秒で全裸になり、湯船に湯を張る。
温度は43度、それ以下は水風呂だ。
湯が溜まる間にシャワーを浴び、汚れを洗い落とす。
女もののシャンプーしかないが構わない。
男物のシャンプーは洗浄力が強く、カラーリングも落ちやすい。
一通り体を洗い終えたところで、湯気を立てた湯船に体を鎮める。
あー、生き返る。
アイツと最後に風呂に入ったのはいつだったか。
小坊のときに家族で温泉旅行に行った以来かな。
ハハ、どんだけ昔だよ。
あれからアイツはどんどん変わり、いつしか有名になって、そしてついには別人になって。
……つーか、眠くなってきたな。
思えば一昨日から一睡もしてなかった。
もう起きるのもダルいからこのまま寝ちまおう、声をかけるのは起きてからでいいや。
---
「きゃあぁっ!」
紗々の叫び声が聞こえ、目を覚ます。
辺りは真っ暗、朝にはまだ遠い時間だろう。
「どうした!?」
声の聞こえた廊下に向かう。
紗々は脱衣所から差し込む灯りを浴び、廊下で腰を抜かしていた。
「大丈夫か、なにがあった?」
「知らない男の人が……お風呂で寝てますっ!」
「は?」
言われたことが信じられず、とりあえず風呂場のドアを開ける。
もくもくと漂う水蒸気が抜けていき、次第にその姿が露わになっていく。
なみなみの湯船に浸かり、気持ちよさそうに眠っているのは、どこかで見覚えのある赤い髪の男。
そこにいるのは数少ない、俺と面識のある人物で……
「紗々、ごめん」
盛大な溜息を吐き、額を抑える。
「これ、俺の兄貴だわ」
「…………はい?」
紗々の頭にはクエスチョンマークが浮かんでいる。
だが俺だってどういう状況理解できない。
「おい、起きろ! なに勝手によそ様の家……風呂に入ってんだ。あいにぃ!」
「んあ?」
まだ湯船を漕いでいるあいにぃが、寝ぼけ眼をかろうじてこちらに合わせる。
そして目の前に俺がいることを理解した途端、笑みを浮かべて、
「会いたかったぞーーっ、オレの和平ぁーっ!」
と、腕を伸ばし、自分の胸に抱きよせる。
ちなみにあいにぃの胸とは湯の中のことだ。
「ったくよぉ、しばらく見ねー間に女の家に転がり込んでるったぁ、どういうことだ!? えぇ?」
「ガボボ、ガボボボボ!」
息ができず、返事はできない。しかも湯はやたらと熱い。
助けを求める声も泡となり、誰の耳にも届かない。
手足をバタつかせ抵抗するも、あいにぃの万力から逃れることはできない。
「お、後ろにいるのが和平のフィアンセかな?」
急に話を振られた紗々が、肩をびくりと震わせる。
「オレは
だが紗々は返事ができない。
あいにぃの放つ陽キャオーラが強すぎるのだ、魔王を前に紗々はただガクブルと体を震わせるしかない。
「ぶはっ!」
と、俺はようやくあいにぃの腕から抜け出す。
「なに勝手に人の家……風呂に侵入してんだよ。まずは言うことがあるんじゃないのか!?」
「いい湯加減だったぜ」
紗々に向かってウインクをする。
「違ぇよ!」
「はっはっは、夜遅くなのに元気だな」
あいにぃは俺の頭をグシャグシャと撫で、いきなり湯船から立ち上がった。
「きゃあぁっ!」
紗々が両手で自分の視界を覆う。
当然、下半身を隠す物はなにもない。
「ボクで隠さなきゃ!」
前触れもなく局部にブルームの顔アイコンが現れた。
「いくらボクでも性的コンテンツによるBANには勝てないからねっ!」
爽やかにそんなことを言われても困る、いや助かったけど。
「さすがにそろそろのぼせそうだな~、バスタオル借りられるか?」
「その前に隠すもん隠せ!」
その後、振り返った紗々と……視線が合う。
自ら視界を覆い隠したはずの両手は、しっかりとパーで開かれていた。
「……カズくん、安心してください。わたしは十九歳です」
「聞いてない」
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